豊国神社2宝物館・馬塚 | 芳村直樹のブログ

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シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです


◎関西の旅
○7月18日
●豊国神社

Wikipedia によると
明治天皇は
慶応4年(1868)閏4月
大阪行幸の際
豊臣秀吉を賞賛され
豊国神社再興を布告する
沙汰書を下されたそうです

明治8年(1875)
まずは東山の地に社殿を建立
詳しい位置については
Wiki には記載がありませんが
旧豊国社跡地のように推測します

明治13年(1880)
現在地に新社殿が完成し
(こちらは旧方広寺大仏殿跡地)
遷座されたということのようです


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◆豊国神社宝物館

大正14年(1925)
再興50年記念豊国祭にあわせて
開館した宝物館
当時としては最先端の
鉄筋コンクリート造で
展示ケースの大正硝子も
贅沢なしつらえだったろうと思います

拝観料 一般 300円
豊太閤ゆかりの宝物
約80点を常設展示しています

展示品のいくつかを紹介しましょう

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◇鉄燈籠〈国の重文〉
慶長5年(1600)辻与二郎 作

辻与二郎実久は
安土桃山〜江戸初期の釜師・鋳物師
近江国栗太郎辻村の生まれ
京の三条釜座を拠点に活動しました
千利休の釜師となり
それまでの芦屋釜・天命釜とは異なる
利休好みの丸釜・阿弥陀堂釜・尻張釜など
新しい形・文様・肌合の釜を創りだし
「焼抜き」という仕上げ方をはじめ
「羽落」などの技法を用いたとのこと
秀吉から「天下一」の称号を許されました
初期は「與二郎」晩年は「與次郎」の
銘が記されているそうです


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◇豊国祭礼図屏風〈国の重文〉
紙本著色 六曲一双のうち左隻
慶長11年(1606)狩野内膳 筆

唐門前の説明板文中にあった屏風絵です
慶長9年8月に行われた
秀吉七回忌の臨時祭礼のようすを
秀頼の命を受けた片桐且元が
豊臣家お抱えの絵師 内膳に描かせました


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◇桐鳳凰紋蒔絵唐櫃〈国の重文〉
(きりほうおうもんまきえからびつ)
>説明文コピー
蓋表には、花の咲き乱れる桐の木を描き、その枝にとまった鳳凰と、まさに飛翔しようとする鳳凰を金平蒔絵で表す。身の側面にも花をつけた桐の木を描いている。四隅と脚の上下、錠前部に金銅製魚々子地(ななこじ)のしっかりとした金具を打ち、脚には菱鋲(ひしびょう)を3個ずつ打っている。


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◇豊臣秀吉公御画像
宝物館造営の折
九鬼隆一男爵より奉納されました
絵師は不詳ですが
江戸期のものだそうです
高台寺(掌美術館)にある
国重文の秀吉画像を写したもの
と考えられるとのこと


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◇獏御枕


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天下の英傑
豊臣秀吉は
慶長3年(1598)8月18日
伏見城において
62歳の生涯を終えます

暫くの間
秀吉の死は秘密とされ
遺骸は伏見城中に置かれました

遺命により
東山連峰の阿弥陀ヶ峯に埋葬するため
方広寺の鎮守として
八幡大菩薩堂という社が建設されます

翌年4月13日
遺骸が運ばれ埋葬されます
秀吉は自身を
八幡神として神格化することを
望んでいましたが
八幡神は皇祖神であることから
4月16日
後陽成天皇により
豊国大明神の神号が与えられました

18日
遷宮の儀が執り行われ
豊国社(とよくにのやしろ)
と改称されました
翌19日
正一位の神階が贈られています

豊国社の境内の広さは
約30万坪 (約100万m2)
上に紹介した屏風絵によっても
その規模、祭事の盛大さが想像できます


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加藤清正筆と伝わるそうです


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しかし
豊臣家滅亡の後
この華麗なる豊国社は
徳川幕府によって完全に破却されます

そのへんのところは
次のブログで
例の有名な梵鐘を紹介がてら
勉強してみたいと思います

その前に
もう一つ
宝物館の裏手
ひっそりと建つ五輪塔を
載せておきます


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◆馬塚
阿弥陀ヶ峯の旧豊国社が
徳川氏により取り壊された後
太閤秀吉を慕う人々が
代拝所として移霊したものだそうです

梵字と命日の日付が
刻まれているだけのもの
表立って秀吉の名前を出せなかった
時代背景が窺えます

近くの地名
馬町(馬の市があったらしい)
に因んで
馬塚と呼ばれたということです

名前だけ聞いて
軍馬の供養塔???
と思ってしまった僕は
どうしようもない馬鹿ものです orz.