蘭渓道隆ちょっとだけ | 芳村直樹のブログ

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鎌倉幕府5代執権
北条時頼が帰依した禅僧
蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)と
時頼嫡子 8代執権時宗の
無学祖元(むがくそげん)について
まとめてみたいと思います


●蘭渓道隆(1213〜78)

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画像はWikipediaより借用

蘭渓は道号 道隆は諱
禅師の出身は
南宋の西蜀です(現在の四川省)
13歳で成都大慈寺に入り出家し
修行のため諸所を遊学と伝わります

寛元4年(1246)
33歳の時に来朝
博多の円覚寺
京都の泉涌寺来迎院を経て
宝治2年(1248)
鎌倉へ下り寿福寺に入りました

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寿福寺 仏殿


時の最高権力者
5代執権北条時頼が
道隆の噂を聞きつけ
祖父3代泰時の菩提寺である
常楽寺(開山は退耕行勇)
の住持に招きました

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常楽寺 仏殿

常楽寺の仏殿には
蘭渓道隆坐像が安置されています
道隆はこの寺にて
宋風の本格的な臨済禅を広めたそうです

時頼は政務の暇をみては常楽寺に通い
禅師に道を問うたといわれます
教えに深く傾倒していったのでしょう
建長寺という大禅院建立につながります

「常楽寺は建長の根本なり」

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建長寺 仏殿

時頼の創建した建長寺
建長5年(1253)11月25日
蘭渓道隆を
開山(初代住持)として迎え
落慶供養が行われています

道隆の代表的墨蹟
『法語規則』(国宝)が
建長寺に遺されています
衆僧に対して怠慢放縦を戒め
参禅弁道に専心すべきことを説き
守るべき規範を定めたものです
11月の宝物風入に公開されます



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北条時頼の墓(明月院)

康元元年(1256)
北条時頼の出家得度では
山ノ内にある時頼の私邸
持仏堂を最明寺とし
道隆が戒師を務めました

時頼没(1263)後
時頼の嫡子 時宗は
最明寺を禅興寺と改め
道隆を開山として迎えています
(現在の明月院の本寺)


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建仁寺 法堂

正元元年(1259)
或いは
弘長2年(1262)
道隆は京都に移り
建仁寺11世住持となります

真言 天台の勢力下にあった建仁寺を
純粋禅の寺院としたと伝わります

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建仁寺 法堂内部


文永2年(1265)頃
道隆は鎌倉に戻り
建長寺に在住しますが

蒙古との緊張が高まる中
密偵との疑いをかけられ
伊豆国や甲斐国に配流されたようです

北条得宗家の庇護を受けた禅師が
そのような目に遭うことが
僕は不思議でなりません
もしかしたら
北条時宗という人物が
無能だったり非情だったりしたことを
示している事例かもしれませんね

伊豆国滞在では
修禅寺を臨済宗に改宗していたり
甲斐国配流では
東光寺を再興していたりします
ただでは転ばない禅僧ですw



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建長寺 本尊 地蔵菩薩坐像

弘安元年(1278)4月
三たび建長寺に住し
7月24日 没します 享年66

91代 後宇多天皇より
大覚禅師の号を賜わります

わが国最初の禅師号です

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西来庵

建長寺 鐘楼堂の隣には
蘭渓道隆の塔所
西来庵(せいらいあん)があります

西来庵の奥に
開山堂があり
その背後の山腹には
蘭渓道隆の墓と
次に勉強する
無学祖元の墓が
並んであるとのことです

原則的に非公開エリアなので
まだ僕は参拝したことがありません