康元元年 | 芳村直樹のブログ

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シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです



建長8年(1256)
天変地異と流行り病
騒いでいたのは
鎌倉だけではありませんでした

6月14日 関東の諸国で
白昼の空を飛ぶ光物を見たという
『吾妻鏡』の記事を紹介しましたが

同じ日に 関西の男山
僕の崇敬する石清水八幡宮でも
光物を見たんだそうです
7月12日の記事に報告されています

そして
京都に強制送還された
4代将軍藤原頼経が
この年の 8月11日
病死しています 享年39
Wikipediaによると赤痢です

驚くなかれ続けざま
9月24日 或いは 25日
その嫡男である
5代将軍藤原頼嗣も病死 享年18
こちらは赤斑瘡(はしか)だそうです

9月27日には
6代将軍宗尊親王の弟君
雅尊親王も
やはり赤斑瘡で薨御 わずか3歳

『吾妻鏡』には
ほかにも皇族の死亡記事がありますから
その度に宗尊親王は喪に服したでしょう
職務が滞ったことと推察されます


心機一転
かどうかわかりませんがw
10月5日に 改元
康元元年(1256)と なりました


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明月院 6年前(2010)4月25日


さてほて鎌倉

10月13日
繰り返された祈祷の甲斐なく
北条時頼の娘は卒去
正室葛西殿が産んだ
のちの時宗、宗政の妹で
この娘も3歳でした

11月3日には
時頼が赤痢にかかります

病状が少々快復した
11月22日
時頼は長時に
執権の座を譲ります

長時は重時の嫡男
時頼正室葛西殿の兄なので
時頼からは義兄になりますが
年齢は3歳年下です

武蔵国務
侍所別当
鎌倉第内(たぶん執権公邸)も
同様に預けることとしますが
但し
家督(継承者の時宗)が幼少のため
眼代(代理人)という形だそうです

日付が変わって
23日の早朝
最明寺にて(現在の明月院)
時頼は出家します
法名 覚了房道崇
戒師は蘭渓道隆でした

時頼を慕う側近たち数人が
後を追って出家しましたが
幕府に無許可だったため
出仕停止処分を受けています

11月30日
最明寺禅室(時頼のこと)
逆修を始めたとの記事があります
逆修(ぎゃくしゅ)とは
生きているうちに自分のための仏事をして
冥福を祈ることだそうです


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大河ドラマ『北条時宗』の北条時頼


で、翌年
康元2年(1257)
正月三が日の椀飯の御沙汰を
チラ見してみると

元日は
相も変わらず時頼の御沙汰です
2日は
重時に変わって連署就任の政村
3日は
右近大夫将監入道と記されます
この人物は
おそらく北条時定(時房流)です
初代連署北条時房の子息で
時頼の妹を正室に迎えています

あれれれれー?
執権の座を譲られた
長時の名前はありません

さまざまな情報から
総合的に判断して
赤痢にかかり
出家したはずの
北条時頼
人呼んで最明寺入道は
執権は辞したものの
引退したわけではなく
この先 没するまで (〜1263)
幕府の最高権力者として君臨する
ということなんだと思います