木曽義高を勉強する | 芳村直樹のブログ

芳村直樹のブログ

シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです


鎌倉市大船
常楽寺の裏山(粟船山)に
木曽義高(源義高)の墓があります

{50CDAE0F-06BC-4DE4-8720-2DC41B44614B}
木曽義高の墓



木曽義高(1173?~84)は
河内源氏の流れをくむ
信濃源氏の武将
木曽義仲の嫡男で
清水冠者と号します

諱は文献によって異なり
義高『吾妻鏡』
義基『尊卑分脈』
義重『平家物語』と
さまざまです

寿永2年(1183)
対立していた
父義仲と源頼朝の和議の際
義高(当時11歳?)は
頼朝の長女 大姫(当時6歳?)の
許婿(いいなづけ)の名目で
つまりは人質として
鎌倉に下ります

義高は聡明で凛々しい若者
大姫はもともと病弱で内気だった
とされますが
幼い二人は非常に仲が良く
いつも一緒に遊んでいたそうです

翌年
義仲が近江国粟津で敗死すると
頼朝は義高の誅殺をも命じます

平清盛に助命された頼朝は
自らの体験をもって
討ち取った武将の子は
生かしてはおけないとの考え方を
強くもっていたと思われます

大姫の計らいで
(北条政子の手配との説もあり)
義高は女装して逃げ出しますが
武蔵国入間川で殺害されます

元暦元年4月26日(1184.6.6)
木曽義高没(享年12歳?)


{181A2099-B0BF-45A5-A802-068CA49D75AB}
岩船地蔵堂
大姫の守り本尊を祀ります



義高の死を知った
大姫は深く傷つき
その後何年も
床に付したと伝わります

一条能高との縁談も拒絶
後鳥羽天皇の妃にしようとする
頼朝の入内工作も失敗に終わり
大姫は病から回復することなく
この世を去ります

建久8年7月14日(1197.8.28)
大姫没(享年20歳?)


{D64D26D8-3BCA-4507-B4C5-076AF1F7902A}
姫宮の墓
常楽寺裏山 義高塚の手前にあります



討ち取られた木曽義高の首は
常楽寺から300mほど離れた水田に
塚が築かれ埋められたそうです

その土地は 租税が免除され
「木曽免」と呼ばれました

延宝8年(1680)
出土した青磁の瓶から
義高と思われる骨が発見されます
常楽寺内
現在の場所に移され
供養されたとのことです

つまり
現在の義高塚は
江戸時代に築かれたものなので
その手前にある
姫宮の墓を大姫の墓とする説は
無理があると僕は思います