来月の京都散歩の予習も
いよいよ最後の寺院です
●銀閣寺(ぎんかくじ)
東山慈照寺
(とうざん じしょうじ)
金閣寺(鹿苑寺)と同じく
相国寺の山外塔頭(別格地)
金閣を模して造営した観音殿が
銀閣 と呼ばれ
慈照寺全体が銀閣寺と呼ばれます
学校の授業では
金閣と銀閣
北山文化と東山文化
うまい具合に
対にして習いましたが・・
金閣寺開基
3代将軍足利義満の頃は
南北朝も合一して幕府が絶頂期
贅の限りを尽くせたでしょう
しかし、
銀閣寺開基 8代義政の場合
そうは問屋がおろしません
生まれた時代が悪かった
将軍義政を評価するとなると
なかなか厳しいように思います
足利義政 画像はWikipediaより借用
足利義政(1436~90)は
6代将軍義教の子で
兄の7代義勝が早逝したため
8歳で家督を継ぐことになります
将軍宣下は14歳(1449)
なるつもりのなかった将軍職
おそらく本人としては
政治など興味なかったのでしょう
大飢饉にもかかわらず
御所や邸宅の造営を進めたり
猿楽など酒宴に溺れていたりで
残念ながら悪名高いです
子宝に恵まれなかった義政は
早いところ引退したいものだから
仏門入りしていた弟の義視を
還俗させて後継者にしました
ところが なんと
妻日野富子に男児が産まれます
結局9代将軍となる義尚です
この将軍後継問題において
義政のとった優柔不断な態度が
全国の大名を巻き込む争乱の
大きな要因となりました
戦国の世の口火となる
応仁の乱(1467~77)です
このあたりの政局模様は
書き出したらキリがなく
要は 義政が政治家失格だった
ということに尽きると思います
京の都が焼け野原となり
経済も疲弊する最中
文明5年(1473)
義政は義尚に将軍職を譲り
隠居生活のプランを練るわけです
慈照寺が建てられた
東山の月待山麓には
それ以前
平安中期創建の浄土寺がありました
現在も地名として残さています
前述の足利義視は出家して
この浄土寺の門主でしたが
義政に呼ばれ還俗しました
応仁の戦乱で焼失した
浄土寺の跡地を
隠遁の地に選んだ義政は
文明14年(1482)
山荘 東山殿の造営に着手
翌年には移り住んでいます
文明18年(1486)
持仏堂として東求堂が完成
長享3年(1489)
観音殿(銀閣)の上棟式が行われます
しかし、その秋
義政は病に倒れ
銀閣の完成を見ることなく
翌 延徳2年(1490)正月
この世を去ります
義政の菩提を弔うため
東山殿は禅刹にあらためられます
義満の鹿苑寺(金閣寺)を
まるで倣うかのように
義政の法号 慈照院殿から
寺号は慈照寺とされ
開基 足利義政
勧請開山 夢窓疎石とされています
鹿苑寺も慈照寺も
それぞれの山荘の主
義満、義政が亡くなってから
禅寺になったということです
つづく