北条義時 興味津々だけど難しい | 芳村直樹のブログ

芳村直樹のブログ

シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです


ふつーのブログを書くと
アクセス数がめちゃ激減し
びっくりぽん!!のNAOKIですw

それでは
お待ちかね
鎌倉スキャンダルの再開です (^ー^)ノ



北条義時という人物は
僕の想像をはるかに超えた
超ビッグな存在だったのでは???

鎌倉散歩の中で
義時の法華堂跡などを訪れて
そう思うようになりました (*^.^*)
 
だけど 世間では あまり
取り上げられないですよねぇ
学校の授業でも
詳しく教わらなかったし

どうなんでしょ ( ? _ ? )

おそらく江戸時代には
武士道が重んじられる風潮の中
父親を追放し 将軍家を滅亡させ
権力を奪い取った不忠の輩など
認めようとはしなかったでしょう

明治以降の皇国史観ともなると
朝廷に弓を引き それに勝利し
上皇らを島流しにしちゃった
そんな恐ろしき国賊が
許されるはずはありませんよ

史上まれに見る国賊だからこそ
僕は興味津々なんですけどね ☆彡

後世における
北条義時の評価は かなり低く
語り継ぐことさえ憚られた感じ?

ま、それ以前に 
当時を知る手がかりが
歴史書『吾妻鏡』など
少しの史料しか遺されておらず
詳細がわからないことも
人気の出ない一因といえますね

小説の類も読んでみたいな
とは思うのですが
どこからどこまでが史実なのか
フィクションの境い目が
全然わからないレベルの僕は
なんとなく躊躇している現状です

もっとも
大元になる『吾妻鏡』じたいが
北条寄りに都合よく書かれたもの
と言われているわけだから

うーん 難しい (*`~′ *)

あとは 想像をめぐらして
個人的に勝手に楽しむしかないか
とも思っているわけです



36年前(1979)の
大河ドラマ『草燃える』では
松平健さん(当時26歳?)が
北条義時を演じたそうです

{48042FA7-7338-490E-A87F-EA6477C8D74F:01}

すんげー!!かっけー!!( ´艸`)



●北条義時(ほうじょうよしとき)

生誕 長寛元年(1163)
死没 元仁元年6月13日(1224.7.1)

父親 北条時政
母親 伊東入道の娘

伊東入道=伊東祐親
とする記述が多く見られます
それはそれで面倒なので
読まなかったことにします orz.

そもそも
父時政(1138~1215)の前半生
頼朝が登場する以前のことが
よくわかっていません
ずっと僕は
政子と義時が同母姉弟
と思ってきましたが
違うとする記述が多いです

時政の長男(嫡男)は北条宗時
義時は次男のため
宗家より分かれ庶家となり
早くから江間氏を名乗ります

伊豆長岡(現在の伊豆の国市)に
江間という地名があるそうです

宗時は長男なのに通称三郎
義時は江間小四郎と呼ばれます

先に夭折した長男次男がいたのか
現在の大河『真田丸』のように
家の過去の事例でそう呼んだのか
まるっきりわかりません

石橋山の戦いで頼朝軍が敗れ
逃げのびる途上で
兄の宗時が敗死します(1180)

それでも 義時は 以降も
江間小四郎と称していますから
北条の嫡男とされなかったのでは?
と僕は考えます

この頃には もう時政は
牧の方を後妻(正室)に娶っていて
かなりメロメロ状態で
言われるがままだったみたいだし

のちには この牧の方と
前妻の子供(政子や義時)との確執が
騒動の引き金ともなるんですが
僕が考えるに
義時はこの頃すでに
継母牧の方の我が儘がうとましく
デレデレする父にも嫌気が差し
北条宗家とは一線を引くような
心算があったのでないでしょうか?

その後 牧の方が
待望の男子 政範を産み(1189)
北条の嫡男とされたと考えます


幕府を開いた頼朝は
家子(いえこ)と呼ばれる
親衛隊の若者たちを選びました
門葉(源氏血縁者)と一般御家人の
中間に位置づけられた
エリート集団だそうです

江間四郎義時も選ばれて
「家子の専一」とも言われました
(これも『吾妻鏡』の記述です)

そんな義時ですが
源平合戦、奥州征伐に出陣しても
これといった手柄話もなく
頼朝の存命中は 
影の薄い存在だったみたいです

これもまた想像ですが
親から嫡男にしてもらえぬ男では
おそらく出世も叶わず
庶家江間氏の初代として
平々凡々に暮らしていこうと
考えていたかもしれません



政治の表舞台に登場するのは
頼朝没後
頼家の独裁に待ったをかけた
例の十三人の合議制メンバーに
名を連ねてからです(1199)

この人選は
時政と政子がしたでしょうから
自分らの味方を増やすため加えた
と僕は考えちゃいますけどw

しかし、これが転機となった

義時すでに37歳

ここから
当時としては遅咲きの
快進撃が始まることになります


梶原景時の変と同じ年(1200)
ほかの御家人の一族でも
当主の世代交代がありました

三浦義澄1月23日死没→三浦義村
安達盛長4月26日死没→安達景盛

この若い当主たちが この先
義時を助ける重要な存在となります

それともう一人
異母弟の北条時房(1175~1240)も
無くてはならない片腕だったと
僕は感じています

ついでの話
時房(当時は時頼)は
2代将軍頼家の蹴鞠仲間で
常に頼家のそばにいましたが
比企能員の変の後始末で
何のとがめもないところから
北条のおくったスパイだった
ともいわれているそうです


比企能員の変で
北条時政は大江広元と並び
政所別当に就任
翌年(1204)
義時は相模守となります

さて、いよいよ
畠山重忠の乱(1205)
そして 時政の追放
義時が頂点に立つ時がやって来ます

その話は次のブログで
って、
書けるかどうか自信ないけどwww