梶原景時の変 | 芳村直樹のブログ

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シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです



昨年の鎌倉散歩では
鎌倉の名数に興味を持ち
訪ね歩きました

鎌倉五名水の一つ
梶原太刀洗水を訪ねたのが
8月24日です

梶原景時について
まるっきり知識がなかったので
その時 少し 勉強しています

ブログ●梶原景時


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太刀洗川


あとでわかったことですが
歌舞伎には
梶原景時の登場する演目が
けっこうあり
源義経を陥れる讒言をした大悪人
として有名みたいですね

昨年来 誘われて
歌舞伎座に通うようになりましたが
まだ 景時の話は観たことがなく
いつの日か出会えることを
楽しみにしています

梶原景時は
源頼朝にとって
石橋山の戦いでの命の恩人でもあり
弁舌が立ち 教養があり
事務処理能力も高かったことから
あつい信頼のもと重用されました

政子が頼家を出産する際には
若宮大路造営など雑事の奉行を勤め
比企能員とともに頼家の傳(めのと)
にも指名されているようです

義経との対立があったのは事実で
景時報告が義経失脚の結果を招き
後世の「判官びいき」から
「讒言梶原」の悪いイメージが
語り継がれることとなるわけですが

梶原の讒言の被害者は
義経一人にとどまらず
身に覚えない疑いをかけられた者は
畠山重忠など数多くいたようです

頼朝死後 景時は
十三人の合議制に選ばれる一方
2代目頼家からも信頼を得ています

安達景盛の妻レイプ事件の際
景盛を討ち取るようけしかけた話は
前のブログに書きました


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梶原景時 画像はWikipediaより借用



その年(1199)10月25日
結城朝光が
在りし日の将軍の想い出話の中で
「忠臣二君に仕えずというが
あの時に出家すべきだった」
などと語ることがありました

この発言を
梶原景時は
新将軍頼家を誹謗するものとして
結城を謀反の罪で誅伐すべき と
頼家に上申したみたいです

殺されるかもしれない 
阿波局(政子の妹)から情報を得た
結城朝光は大あわて
友人の三浦義村に相談しました

義村はこれに憤慨し
和田義盛、安達盛長に報告します
二人の宿老も
景時に怒りを持っていたのでしょう
御家人たちの連署状を作成し
嘆願することを決めました

連署状作成は
文筆に長けている中原仲業に依頼
この人も個人的に景時を恨んでいて
この話に手を叩いて喜んだとかw

10月28日
呼びかけに応じた御家人たちが
鶴岡八幡宮寺に集結
梶原景時を糾弾する訴状に
なななんと66名もが署名し判を加え
義盛、義村が これを
政所別当 大江広元に託しました

広元は景時を惜しみ
しばらく躊躇していたようで
和田義盛に強く迫られて
ようやく頼家に取り次いだようです

11月12日
頼家は景時に弁明を求めましたが
景時は申し開きができませんでした

しばらく所領にて謹慎した景時は
いったん鎌倉に戻りますが
頼家は景時をかばうことができず
12月18日 最終的に幕府は
景時の鎌倉追放を申し渡します

景時の失脚は
ある意味 自業自得ですが
頼家にとっては優秀な側近を
失うことになってしまいましたね




景時の屋敷は破却され
土地は永福寺に寄附されたそうです

十二所にある明王院の裏手の谷戸が
景時の屋敷跡と伝えられています


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景時の屋敷の古井戸跡と伝わる穴



翌年
正治2年(1200)1月20日
京へと上る東海道の道中
駿河国狐ヶ崎(現在清水市内)で
梶原景時は
在地の武士の襲撃を受け
一族もろとも敗死します

翌日には
景時以下33名の首が
さらされたと伝わります
これが 梶原一族の滅亡です

頼朝が亡くなって一年
逆転劇ともいえる政変の末
あまりにもあっけない最期でした


北条氏に都合よく書かれる
歴史書『吾妻鏡』には
この景時の上洛を
武田有義を将軍に立てて
反乱を企てたなどとしていますが
それこそ頭脳明晰な景時
そんな無茶は考えなかったでしょう
おそらく京の貴族に雇われ
働くことを考えていたと想像します




なお
その翌年 建仁元年(1201)には
梶原景時に恩のあった
城長茂が
京都大番役を勤める小山朝政を襲撃
後鳥羽上皇 土御門天皇に
頼家追討の宣旨を求めますが叶わず
吉野で幕府軍に討たれます
また
越後国では
長茂の甥 城資盛らが挙兵しますが
こちらも幕府軍に敗れています
(建仁の乱)