高尾太夫 5 土手の道哲の話 | 芳村直樹のブログ

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高尾太夫を訪ねて

第5話   土手の道哲の話


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おばあちゃんの原宿
巣鴨にある寺と言えば
とげぬき地蔵の高岩寺だけではない
江戸六地蔵の真性寺もあれば
振袖火事の本妙寺もある

四谷怪談お岩さんの妙行寺
江戸三大閻魔の善養寺のそば
西方寺という寺に
万治高尾の墓がある

いよいよ高尾の墓の登場である




●西方寺
・豊島区西巣鴨4-8-42


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▲浄土宗弘願山専称院西方寺


この寺
元は吉原に近い日本堤にあり
関東大震災の被害に遭って
昭和2年(1927)当地に移ったそうだ

「土手の道哲」と呼ばれる僧が
堂宇を建てたのが寺の始まりで
その道哲の念持仏だった
3尺2寸の阿弥陀如来像が本尊
との記述がある
「汗かき弥陀」と呼ばれ
恵心僧都の作とも伝わるという

日本堤にあった頃は
三ノ輪の浄閑寺とともに
遊女の投込寺として知られ
主に無名大衆を供養する寺だった

移転にあたり
道哲の墓を掘り返してみたところ
二つの骨壺が発見され
一つは高尾太夫の遺骨であることが
判明したそうだ

これはびっくり!!!
まわりも相当あわてたことだろう

この時一緒に掘り出された
高尾の持仏えりかけ地蔵尊と
愛用した手鏡が寺宝として残るという



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墓地の一角に高尾太夫の墓所がある


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▲高尾太夫の墓(西方寺)


となると
この高尾の墓は
昭和になって移転してから
あわてて造られたということか?

大震災で過去の資料は焼失し
ほとんど残っていないらしく
そこがまた人々の憶測を呼ぶ

ネット検索をすると
いろいろと書かれていて面白い

道哲と高尾は恋仲だったとか
高尾に恋して破戒したから
道哲を開山としていないだとか
道哲は僧侶でなく寺男だったとか
またもや諸説紛々である

過去帳によると
道哲は  万治3年12月25日死去
高尾は  12月29日 後追い自殺とされる

自分はネット検索の中で
文章を読みあさるだけなので
どこまでが寺の公式見解か
ゲストコメンテーターの発言かは
きちんと判断はできていない


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道哲と高尾が恋仲???

高尾には島田重三郎という
相思相愛の青年がいたはずなのに

その疑問に答えてくれる寺を
これまたネット上で見つけた

●永源寺
・坂戸市仲町12-69

ちょっと遠くて
行けそうもないので
寺の公式サイトを参考に
要点をまとめたいと思う


曹洞宗長渓山永源寺

関ヶ原の頃より徳川家康に仕えた
島田重次という三河武士が
菩提寺として開いた寺だそうだ
その後も島田家の一族は
徳川幕府の要職を歴任している

島田権三郎という人物が出て
4代将軍家綱の小姓を勤めたらしい
その権三郎が伊達綱宗と
2代目高尾太夫を奪い合ったが
高尾は権三郎に想いを寄せ
二人で坂戸まで逃げたのだという

高尾は病身で
万治3年2月27日生涯を閉じた
島田家菩提寺の永源寺に葬られ
墓には「月桂円心大姉」とある

で、
権三郎は仏僧となり道哲を名乗り
浅草で西方寺の前身となる
道哲庵を開いたということらしい


いろんな説が次から次に登場して
高尾太夫の話は尽きないみたいだ