高尾太夫 4 高尾の頭蓋骨? | 芳村直樹のブログ

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高尾太夫を訪ねて

第4話    高尾の頭蓋骨?



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▲歌川国貞『左金吾頼兼 三浦ノ高尾』


高尾太夫の吊し斬り殺害現場
隅田川三ツ股から
右岸テラスを川下へ歩くと
日本橋川の合流地点にたどり着く


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▲日本橋川河口


隅田川のその先には
「帝都の門」と呼ばれた
永代橋の勇壮な姿態が見える


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▲現在の永代橋


大正15年(1926)竣工の永代橋は
ドイツのライン川に架かる
ルーデンドルフ鉄道橋をモデルにした
現在最古のタイドアーチ橋で
上流の清洲橋、下流の勝鬨橋とともに
国の重要文化財に指定されている

永代橋の最初の架橋は
元禄11年(1698)のこと
5代将軍綱吉の50歳を祝したもので
千住大橋、両国橋、新大橋に次いで
隅田川4番目に架けられた橋である

江戸時代の永代橋は
現在より少し上流に位置し
日本橋川合流地点より手前にあった




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▲日本橋川に架かる豊海橋

日本橋川河口に架かる第一橋梁は
豊海橋(とよみばし)である

現在の豊海橋も
関東大震災後の復興橋梁だが
最初の架橋は永代橋と同じく
元禄11年とのことだ

東京湾の埋め立てが進み
現在の海岸線はまだまだ先だが
江戸時代には永代橋が大川の河口で
すぐそこまで海原が迫っていた

元禄15年(1702) 
吉良邸討入りをした
赤穂浪士の一行は上野介の首を掲げ
永代橋から豊海橋を渡り
泉岳寺へ向かったという


☆☆☆


さて、首つながりで本日の主題

高尾を祀る稲荷神社の話を始めよう


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▲豊海橋北詰にある説明板

>説明板コピー

江戸時代 この地は 徳川家の船手組持場であったが 宝永年間(1708)の元旦に 下役の神谷喜平次という人が見廻り中 川岸に 首級が漂流しているのを見つけ 手厚く埋葬した
当時 万治(1659)のころより 吉原の遊女高尾太夫が 仙台候伊達綱宗に太夫の目方だけ小判を積んで請出されたのになびかぬとして 隅田川三又の舟中で吊し斬りにされ 河水を紅に染めたといい伝えられ 世人は自然高尾の神霊として崇め唱えるようになった 
そのころ盛んだった稲荷信仰とも結びついて高尾稲荷社の起縁となった
明治のころ この地には稲荷社および北海道開拓使東京出張所(後に日本銀行開設時の建物)があった その後 現三井倉庫の建設に伴い 社殿は御神体ともども現在地に移された
昭和57年11月吉日
箱崎北新堀町会・高尾稲荷社管理委員会



この説明板では
高尾の吊し斬り事件と
漂流してきた首級に関連性はないが
世間が勝手に決め込んでしまった
というニュアンスであり
充分に納得できる

当時は 海がすぐそばで
漂流物など多数あっただろうし
高尾の事件と首級発見には
50年という時間差があるのだから
それを結びつけるのは
いくらなんでも無謀すぎる (笑)


ところが、だ

この後  
説明板の矢印に従い
高尾稲荷神社を訪ねてみて
唖然としてしまった


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高尾稲荷神社は
豊海橋から歩いて2~3分
赤い鳥居を構え幟旗を立て
見た感じでは
どこの街角にでもあるお稲荷さんだ


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●高尾稲荷神社

・中央区日本橋箱崎町10-7

祭神  高尾大明神


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その地域その神社にゆかりの人物を
稲荷神と合祀している例は
よくある話だが、
ここは稲荷神のことは一切触れずに
高尾大明神一辺倒である


狭い境内に掲示された
由来の説明板を読むと
高尾の話は
一気にエスカレートしていて
これはもう
どこの街角にでもある類いではない

お稲荷さんだけに
狐につままれたような書きっぷりだ


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>説明板コピー

万治2年(1659)12月、江戸の花街新吉原京町1丁目三浦屋四郎左衛門抱えの遊女2代目高尾太夫、傾城という娼妓の最高位にあり容姿端麗にて艶名一世に鳴りひびき、和歌俳諧に長じ書は抜群、諸芸に通じ比類のない全盛をほこったといわれる。生国は野州塩原塩釜村百姓長助の娘で当時19才であった。
その高尾が仙台藩主伊達綱宗侯に寵愛され大金をつんで身請けされたが、彼女にはすでに意中の人があり操を立てて従わなかったため、ついに怒りを買って隅田川の三又あたりの楼船上にて吊り斬りにされ川中に捨てられた。
その遺体が数日後当地大川端の北新堀河岸に漂着し、当時そこに庵を構え居合わせた僧が引き揚げて手厚く葬ったといわれる。
高尾の可憐な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て彼女の神霊高尾大明神を祀り高尾稲荷社としたのが当社の起縁である。
現在この社には稲荷社としては全国でも非常にめずらしく実体の神霊実物の頭蓋骨を祭神として柱の中に安直してあります。
江戸時代より引きつづき昭和初期まで参拝のためおとずれる人多く縁日には露店なども出て栄えたという。

高尾が仙台侯に贈ったといわれる句 
君は今駒形あたり時鳥(ほととぎす) 
辞世の句 
寒風にもろくも朽つる紅葉かな 


??? (≧∇≦)???


高尾太夫のプロフィールは
事実もあれば創作もありそうだ
この種の由緒書きは
どこの神社も似たようなもので
そんなことは構わない

しかし、だ

橋詰にあった説明板では
「50年後の首級」だったものが
神社にきたら
「数日後の遺体」になっていた

同じ町内会にあるのだから
見解を統一してほしい!!!

その後の文章に「頭蓋骨」とあるから
やはり「首級」が正しいのでは???

「神霊高尾大明神を祀る」とあり
「実体の神霊実物の頭蓋骨」とは

その頭蓋骨が高尾太夫のものと
確信しているのだろうか
その点はっきり書かれていない

手厚く葬ったはずなのに
頭蓋骨を祀るというのは
矛盾していると思うが…

その疑問に対する答は
日本橋川の次の橋
湊橋北詰の説明板にあった

これがまた
さらに驚かされる内容  (>_<)


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▲湊橋北詰にある説明板


決して綺麗とは言えない説明板で
書かれた文字も綺麗とは言えない

読むのに一苦労

神社にあった由緒書きと
ほぼ同じ文章の後
次のように書かれている

昭和52年3月再建工事の折旧社殿下より高尾太夫の実物の頭蓋骨が発掘せられ江戸時代初期の重要な史跡史料として見直されることになり数少ない郷土史の史料を守るため今後共皆様のご協力をお願い申し上げます


江戸時代に葬ったものが
昭和になり工事中に発掘されたので
わざわざ社殿に安置した
ということのようだ


本気で書いているのだろうか?

発掘された頭蓋骨が高尾のものと
どこの学者が判断したのだろう
何の裏付けもなく
こんな安易な説明で
重要な史跡史料と公言するのは
如何なものかと思う

昨今のナントカ細胞と同様に
バッシングされてしまうだろう


僕という人間は
たとえ嘘だとわかっていても
まことしやかな伝説は大好きだし
それこそご協力をお願いされたら
喜んで応援したいのだが、

ここの神社の場合
どこの誰だかわからない頭蓋骨を
高尾太夫のものと決めつけ
祭神として祀ってしまったことが
ほんとうに残念だ

凡人というものは
実際に目に見えるものよりも
目に見えないもののほうが
畏敬の念を持つという
単純な方程式を
理解してほしいと思う


都市伝説として
文句なしに面白い題材なのに
もったいない話である



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▲日本橋川に架かる湊橋