高尾太夫を訪ねて
第2話 高尾の吊し斬り
吉原の花魁
高尾太夫を身請けしたのは
陸奥仙台藩3代目藩主
伊達綱宗 (1640~1711) である
伊達政宗の孫にあたり
家督を継いだのが
万治元年(1658) 数えで19歳の時
高尾太夫との事件は
その翌年の話である
仙台伊達藩といったら大大名で
本来ならエリート中のエリート
その名前にしても
綱宗の「綱」は
将軍家綱の一字を拝領している
ところが、この殿さま
酒色に溺れて藩政を顧みなかったため
21歳の若さで隠居させられたみたいだ
この綱宗隠居事件が
高尾太夫とのスキャンダルを
まことしやかに脚色してくれている
綱宗の嫡男である綱村が
わずか2歳で後を継ぎ
4代目藩主となるのだが
このへんから
すったもんだの御家騒動
世に言う「伊達騒動」が
はじまりはじまりとなるのだそうだ
さて、
綱宗公の必死の口説きに
高尾は色よい返事をしなかった
それもそのはず
高尾には
島田重三郎という(権三郎とも)
将来を誓い合った情夫がいたのである
この青年
高尾を身請けするため
こつこつと働いていた
という文章もあったが
所詮は浪人の身
そんなに稼げる道理はない
仙台の殿さまの 7800両 ほど
見栄をはる必要もないが、
太夫を身請けするには
普通の相場で 400両は かかるらしい
ただし それは
年季奉公中の 18歳から10年間の話で
年季明けであれば出廓して
全く普通の嫁入りができるというから
おそらくその日を待ったのだと思う
万治2年12月の或る日
(12月5日と特定する記述もある)
綱宗公は高尾太夫を船に乗せ
大川(隅田川)を下った
芝口 (現在の汐留) の仙台藩上屋敷に
連れていくつもりだったのだろうか
仙台で一緒に暮らそうと
殿さまはしつこく誘ったが
高尾は重三郎への操をたて
首を縦には振らなかった
億の金を積んだのに
意にそわないのだから
殿さまが怒るのも当たり前
まわりに家来たちも居ただろうに
とんだ恥をかかされたものだ
おそらくフィクションだろうが
若き殿さま ハデにやってくれた
大川の三ツ股に
さしかかったあたりで
抵抗する高尾を裸にし
逆さ吊りにして
斬り殺してしまうのだ
いくらなんでもと思うが
後々に語り継いだり
芝居で演ずるには
そのぐらいのインパクトが
あったほうが面白いかもしれない
▲歌川豊国『頼兼と高尾』
文化10年(1813) 中村座で上演された
『其面影伊達写絵』
(そのおもかげだてのうつしえ)
に基づく役者絵
2代目尾上松緑の高尾太夫と
2代目沢村田之助の足利頼兼
(もちろん頼兼とは綱宗がモデル)
余談だが
吊し切りする鮟鱇 (あんこう) のことを
「仙台さま」と呼ぶらしい
▲新大橋から隅田川下流の眺め
吊し斬りの現場
「三ツ股」(三また、三派)と
呼ばれる場所は
先日の散歩ブログで紹介した
吉原で高尾太夫を乗せ
駒形から大川を下ると
浜町河岸の先で
右(西)に箱崎川
左(東)に小名木川と
川の流れが三つに分かれる地点だ
現在の地理で言えば
新大橋と清洲橋の間になるが
当時はまだ
どちらの橋も存在しない
次のブログでは
事件現場の河岸を歩いてみようと思う