新大橋
走る道路は都道50号線(新大橋通り)
西詰 中央区浜町と
東詰 江東区新大橋を結びます
現在の橋は
昭和52年(1977)完成
橋長 170.0m 幅員 24.0m
斜張橋と呼ばれる形式で
塔から斜めに張ったケーブルを
橋桁に繋ぎ支える構造です
当時はまだ斜張橋は珍しいケースで
後々の中央大橋(1993)等と比べると
見た目がとてもシンプルに感じます
そこがまた潔くてカッコイイです!
新時代の先端を行くような姿態ですが
実は この橋
江戸時代から「新大橋」という名前
最初の架橋は
元禄6年(1693)12月7日
隅田川の橋では
千住大橋、両国橋に次いで
3番目に架けられた橋なんです
当時「大橋」と呼ばれた両国橋に対し
「新大橋」と命名されたとのことです
橋の由来を書いた説明文
歌川広重の描いた浮世絵
現在の橋の前に架けられていた橋と
3枚のレリーフがあるのですが、
風雨にさらされて
読むのはちょっと困難です (爆)
浮世絵は
カラーの画像を載せておきましょう
広重「名所江戸百景」
『大はしあたけの夕立』
ゴッホも模写したという
広重晩年の最高傑作の一つです
徳川幕府の威信をかけた戦艦
安宅丸(あたけまる)が
東岸の船蔵に繋留されていて
その周辺の地域を
安宅と呼んでいたようです
江戸時代には
何度も破損、流出、焼落を
繰り返した新大橋ですが、
明治18年(1885)
西洋式の木橋が架けられ
明治45年(1912)には
ピントラス式の鉄橋に
生まれ変わります
このレリーフは辛うじて平気ですね w
戦後も修理補強を行いつつ
現在の斜張橋に替わるまで
使われ続けていたそうです
貴重な歴史的建造物として
橋全体の8分の1程ですが
現在は愛知県犬山市にある
明治村に移築保存されています
*画像は Wikipediaから借用
この先代の新大橋もまた
なかなか魅力的な美しい橋ですね
予算の都合上
明治村には行けませんが
都内に遺るものだけ紹介しておきます
*この2枚の画像は3年前撮影のもの
上の写真は
橋の東詰(江東区側)にある
先代新大橋の橋柱1基
下の写真は
江東区立八名川小学校にある
先代新大橋の橋名板です
さて、
西詰 (中央区側) には
先代新大橋にまつわる逸話を伝える
記念碑が建てられています
震災避難記念碑
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大正12年(1923)9月1日、突如として起こった関東大震災は随所で火災を誘発し、そのため各所で橋が焼け落ち多数の痛ましい犠牲者を出した。
しかし幸いにも明治45年に建造された新大橋だけは火災からまぬがれ、逃げ惑う1万有余の尊い生命を救い、かつ遮断された各方面への交通を一手に引受けて避難橋としての重責を十分に果たした。
そのため新大橋は多くの人々から「人助け橋」と呼ばれ永く親しまれるようになった。
なお、当時久松警察署の新大橋西詰派出所に勤務する羽鳥源作、三村光、今給惣克巳、植木機禅、伊藤盛雄、浅見武雄ら各警察官は一致協力して多数の避難者を誘導し、さらに携行してきた荷物を橋詰で適切にさばいて火災の防止と避難路の確保のために活躍されたという。
なお、当時久松警察署の新大橋西詰派出所に勤務する羽鳥源作、三村光、今給惣克巳、植木機禅、伊藤盛雄、浅見武雄ら各警察官は一致協力して多数の避難者を誘導し、さらに携行してきた荷物を橋詰で適切にさばいて火災の防止と避難路の確保のために活躍されたという。
一身を顧みず沈着勇敢に行動されたその功績は永く後世に称えられるべきものである。
昭和52年3月27日 東京都建設局
荷物を捨てろ!
荷物を捨てろ!
という警察官の命令には
反発する避難者が多かったそうです
ある社会的地位の高そうな男が
押し問答となり
警察官が阻止するのを振りきって
強引に渡ったところ
突然 男の背中の荷物が燃え出し
男は炎につつまれ絶命しました
それまで男に同調して
警察官に罵声を浴びせていた群衆は
おとなしく言葉に従い
荷物を捨てた
……という話が伝わるそうです
反発する避難者が多かったそうです
ある社会的地位の高そうな男が
押し問答となり
警察官が阻止するのを振りきって
強引に渡ったところ
突然 男の背中の荷物が燃え出し
男は炎につつまれ絶命しました
それまで男に同調して
警察官に罵声を浴びせていた群衆は
おとなしく言葉に従い
荷物を捨てた
……という話が伝わるそうです
カッコイイ新大橋にのこされた
またまたカッコイイ歴史でした ☆☆☆
またまたカッコイイ歴史でした ☆☆☆