十思公園に進む前に
日本橋室町の路地にある
教育委員会説明板を二つ紹介します

設置場所は
中央通りと江戸通りが交差する
室町3丁目交差点から
今川橋に向かって右側(東側)
最初の横道を入った所です
現在は十思公園に保存されている
石町(こくちょう)時の鐘が
現役時はこのあたりにあったこと
そして
その鐘楼のそばの
俳諧師・早野巴人(はやのはじん)の庵に
与謝蕪村が居候していたことの説明です

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●石町(こくちょう)時の鐘
鐘撞堂(かねつきどう)跡
所在地 日本橋室町4丁目5番
日本橋本町4丁目2番地域
時の鐘は、江戸時代に本石町3丁目へ設置された、時刻を江戸市民に知らせる時鐘です。徳川家康とともに江戸に来た辻源七が鐘つき役を任命され、代々その役を務めました。
鐘は何回か鋳直されましたが、宝永8年(1711)に製作された時の鐘(東京都指定文化財)が十思公園内(日本橋小伝馬町)に移されて残っています。
鐘撞堂は度々の火災に遭いながら、本石町3丁目(現日本橋室町4丁目・日本橋本町4丁目)辺りにあり、本通りから本石町3丁目をはいって鐘撞堂にいたる道を「鐘つき新道」と呼んでいました。
そのことにより、時の鐘が移設された十思公園までの道が平成14年3月に「時の鐘通り」と命名されました。
近くの新日本橋駅の所には、江戸時代を通してオランダ商館長一行の江戸参府の時の宿舎であった「長崎屋」があり、川柳にも「石町の鐘はオランダまで聞こえ」とうたわれ江戸市民に親しまれていたのです。
平成15年3月 中央区教育委員会

Wikipedia 等によると
この地は初め
石町(こくちょう)といいましたが
寛文年間(1661~72)神田に
新石町(しんこくちょう)ができたので
本家であることを示すために
本石町(ほんごくちょう)と
呼ぶようになったそうです
江戸時代の本石町と
現在の日本橋本石町は
町域が違うので要注意!!です

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●夜半亭-与謝蕪村居住地跡-
所在地 中央区日本橋室町4丁目5番
日本橋本町4丁目2番付近
夜半亭は、元文2年(1737)に俳諧師早野巴人(1676~1742)が「石町時の鐘」のほとりに結んだ庵である。「夜半ノ鐘声客船ニ至ル」という唐詩にちなみ、巴人も「夜半亭宋阿」と号しました。
この夜半亭には、多くの門弟が出入りしていましたが、なかでも「宰町」と号していた若き与謝蕪村(1716~83)は内弟子として居住し、日本橋のこの地で俳諧の修行に励みました。
蕪村は、安永3年(1774)巴人33回忌追善集「むかしを今」の序文で「師やむかし、武江の石町なる鐘楼の高く臨めるほとりにあやしき舎りして、市中に閑をあまなひ、霜夜の鐘におどろきて、老の寝ざめのうき中にも、予とともにはいかい(俳諧)をかたりて」と夜半亭での巴人との様子を記しています。
寛保2年(1742)巴人の没により、江戸の夜半亭一門は解散、蕪村は江戸を離れ、常総地方などを歴訪後、京都を永住の地と定めます。
やがて、俳諧師としての名声を高め、画業においても池大雅と並び称されるほどになった蕪村は、明和7年(1770)巴人の後継者に推されて京都で夜半亭二世を継承した。
平成19年10月 中央区教育委員会
鎌倉誂物(あつらえもの) 宰町自画
尼寺や十夜に届く鬢葛(びんかづら)

夜半亭時代の蕪村自画賛
(『卯月庭訓』東京国立博物館所属)
鋓鋓鋓
またもや日曜日
表通りは観光客で大賑わいですが
横道に入ると休みの店が多いです

日本橋の商店の
シャッターペインティングは
和風のものが目にとまります

時の鐘通りは
いかにも老舗風のたたずまい
知る人ぞ知るという雰囲気が漂います


勝手口までが何だか粋に感じます。。。。。。