九段ぶらり散歩(南2丁目) | 芳村直樹のブログ

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シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです




何度も通った場所
何度も見ているはずの景色でも
目的意識を持たずに
通り過ぎていると
見えてるものも見ていなかったり
記憶に残らなかったりしますよね

僕ってヤツは元々が
注意力に欠けてるのかもしれません

それでしょっちゅう
新発見!とか言って
一人で大騒ぎしているんですw

散歩ブログを書き始めてからは
観察力を持つよう心掛けてます
……ほんのちょっとですけどネ (^^ゞ



九段散歩のつづき

九段下から
靖国通りを上り
田安門の前を過ぎて
消防署の先を左に曲がると
千鳥ヶ淵の桜並木の遊歩道です

そこから眺める田安門橋

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ここからの景色は何百回と見ています

でも、長い間
正面に見える土手 イコール 田安門橋
というのを
ちゃんと認識できていませんでしたよ

よく考えればわかったはずなのに orz.

いろいろ勉強したおかげで
今では
こちらの千鳥ヶ淵から
向こう側の牛ヶ淵へと水を流し出す
流出口があることまで
確認しながら眺めることができます

右手奥に見える
景観をそこなう突き出た建物が
千代田区役所の電波塔だ (-_-メ)
ということも知っちゃいましたしネw



濠とは反対側(西側)
車道をはさんで

●インド大使館
・千代田区九段南2-2-11

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こちらも今回初めて覚えました

いつも旗がたなびいていたのは
記憶にあるんですよ
でもね
その旗が何なのかを
確かめたことがなかったんです

ちゃんと周りを見ちゃいない (>_<)

へええー
インド大使館って
こんな所にあるんだあ
それでこのあたり
カレー屋が多いのかなあ (@_@)

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今のところ僕の散歩は
そんな感じの繰り返しです



例によって
千代田区町名由来板があったので
貼っておきます

南北の九段2丁目町会合同のものです

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◎九段2丁目(九段2丁目町会)

>説明文コピー

現在の九段上界隈は、江戸時代の早い時期から武士の屋敷として整備された町です。
この界隈が九段と呼ばれるようになったのは、江戸時代も中ごろのことでした。
幕府は四谷御門の台地から神田方面に下る坂にそって石垣の段を築き、その上に江戸城で勤務する役人のための御用屋敷を造りました。当時の石垣が九層にも達したことから、九段という通称が生まれ、のちに町名にもなったのです。
関東大震災以前はいまよりさらに勾配がきつく、坂の下に荷車を後押しして生計を立てる「押屋」が常に集まり、客を待っていたほどでした。
また、坂上にある靖国神社は、新宿方面から神田方面に抜ける 主要地方道302号線の中心にあたり、靖国通りという呼称もここから生まれています。
九段坂は四谷御門の台地の東端に位置し、坂を上りきった場所からは神田や日本橋、浅草、本所はむろんのこと、遠くは安房国や上総国(ともに現在の千葉県)の山々まで見渡せました。さらに、西に目を向ければ、道の正面に富士山の全容を拝み見ることができました。坂を上りきった界隈が明治から昭和のはじめまで富士見町と呼ばれていたのもそのためです。


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江戸時代
北の丸の北に位置する九段
西の番町(ばんちょう)一帯は
江戸城防備のため
旗本・御家人の屋敷地でした

明暦の大火(1657)後
火除地が整備され
松などの樹木を植えた
緑地の防火帯が造られます

幕末には黒船来航を受け
軍事拠点が築かれ
九段坂の火除地には
歩兵屯所が置かれたようですが
上の古地図には
弓馬稽古場と記されていますね


明治維新
北の丸は近衛師団兵営地となり
牛ヶ淵外には
陸軍関連の施設が建てられました
その名残が九段会館(軍人会館)です

九段坂の歩兵屯所跡には
明治2年(1869)
戊辰戦争の官軍戦没者を慰霊する
招魂社(しょうこんしゃ)が建ち
明治12年(1879)靖国神社となります

戦友会が献納した桜が
やがて花見に利用され
鎮魂の場のみならず
市民の観光地にもなったようです

靖国神社の大祭に競馬が催されたり
戦意高揚を目的とした
パノラマ館(国光館)があったそうです
(昭和館のあたり?)



さて

古地図にある
千鳥ヶ淵西側の火除地は
明治時代に山県有朋邸となります

山県邸は大正期に移転し
跡地が農商相官邸となり
現在は農水省分庁舎となっています
(九段南2-1-5)

インド大使館に隣接し
結構広い敷地なんです
噂によると庭園まであるらしいです

その広い敷地の向こうには
数年前に景観論争が起きた赤いビル
イタリア文化会館が見えます

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会館正面の内堀通り(都道401号線)へ
抜ける道は鍋割坂という名前です

標柱があり
またもや意味のない(あまり役立たない)
説明文が書いてありました

●鍋割坂
>説明文コピー
この坂を鍋割坂といいます。『新撰東京名所図会』には「堀端より元新道一番町の通りへ上る坂なり」とかかれています。同じ名称の坂は各地にありますが、どれもふせた鍋(台地)を割ったような坂であることからその名がつけられています。千代田区隼町の国立劇場北側のところにも同名の坂があります。


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●イタリア文化会館
・千代田区九段南2-1-30

イタリア文化の普及を目的に活動する
イタリア政府の機関で
世界90の都市にあるそうです

建設当時(2005)赤い外観が問題になり
石原都知事を先頭に吠えていましたが

イタリアの独自文化を発信するのに
情熱的な赤を用いていることに
僕的には何の問題もないと思いますよ

わが国だって歴史を振り返れば
いにしえの平城京の時代には
あおによし(屋根は緑・柱は赤)の
文化があったはずだと思うんです
いつの間にか質素倹約の地味さが美徳と
マインドコントロールされてきたような
そんな気がしてなりません




***

赤いビルの並びに
秋田藩主佐竹家ゆかりの資料館
千秋文庫(せんしゅうぶんこ)があって
僕には興味津々の
企画展をしているようです

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近いうち誰か友達につきあってもらい
ゆっくり見てみたいと思っています

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なお
鍋割坂より南側
千鳥ヶ淵のボート場や
戦没者墓苑は
住所が千代田区三番町になります
九段の散歩が一段落したら
歩く予定にしています