清水門 | 芳村直樹のブログ

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シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです



北の丸の歴史を少し調べました

天正18年(1590)
徳川家康の江戸入府の頃
このあたりは
竹やぶだったみたいですね

古くから家臣だった
関東総奉行・内藤清成(1555~1608)らが
住んだことで
御代官町と呼ばれるようになります


天下普請による
江戸城の大改築が進み
慶長12年(1607)
天守閣が完成した頃に
この北の丸も造成されたようです

北の丸には
将軍に近い存在
例えば家光の弟・忠長
また大奥に仕えた女性
例えば春日局(~1643)などの
屋敷が造られました

千姫・天樹院(~1666)も
秀頼の次の本多忠刻と死別した後
北の丸に住んだようですが、


やはりここでも
避けて通れない
天下の一大事が

明暦の大火(1657)ですよ


なにしろ
天守閣も焼失したんですから
北の丸も焼け野原になったんでしょう

それからしばらくは
北の丸一帯は火除け地とされるんです





前のブログで紹介した
田安門は
北の丸の北門ですが

北の丸の東門として
清水門(しみずもん)があります


●旧江戸城清水門

 国の重要文化財
 昭和36年(1961)6月7日指定

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造りは田安門と同じ
高麗門と櫓門からなる枡形門です

現存する清水門は
万治元年(1658)建てられたもの
との説明がありますから

まさに
明暦の大火が関係している
と僕は考えるんです

なお
清水門の名前の由来は
このあたりに清水が湧いていた
ということらしいです

 >追記
  千代田区観光協会のサイトには
  昔 慈覚大師が関東に下向の途中
  平川のほとりに寺を建立し
  清水寺と名付けたのが
  清水門の名前の由来とありました





時が経ち

8代将軍吉宗が新たに御三卿を設けます

吉宗の次男・宗武が
田安徳川家(1729)を
吉宗の三男(四男とも)宗尹が
一橋徳川家(1735)を
吉宗の長男である
9代将軍家重の次男・重好が
清水徳川家(1759)を創設します

御三卿の意義については諸説あるので
ここでは触れませんが、

それぞれの徳川家の呼称は
与えられた屋敷地に近い門の名前から
つけられたものだそうです

北の丸の
田安門のそばに屋敷ができたから田安家
清水門のそばに屋敷ができたから清水家


江戸後期の北の丸は
西半分に田安徳川家
東半分に清水徳川家の
大きな屋敷地が存在しますが

門の名前のほうが
先にあったということを
はっきりさせておきたいです




それにしても
せっかく火除け地に指定した場所に
屋敷を建ててしまうというのは

喉元過ぎればの感じがしますが、

江戸の人口が増えすぎて
やはり土地不足の住宅難
ということだったんでしょうかねえ?