明和の大火が起きた
明和9年(1772)は
水害も多発し疫病も流行るという
散々な年だったようで
語呂合わせから
「迷惑年」と呼ばれていたそうです
その大火の火元となった
目黒行人坂の大円寺の境内には
犠牲者15000人を弔うために造られた
五百羅漢の石仏群が遺されています
大円寺の阿弥陀堂
阿弥陀堂の前に
なんと
八百屋お七地蔵が建ちます w(゚o゚)w
これまでブログで紹介してきたように
八百屋お七というのは
天和の大火(1682)がきっかけで
知り合った寺小姓に恋をして
火付けの大罪で火あぶりになった女性
だから
明和の大火とは無関係
なのに
何故この寺に地蔵があるのでしょう?
紛らわしい火事つながりの話w
寺の説明板
「八百屋お七と吉三(西運)」にそって
話を進めていきます
どうやら
八百屋お七が恋した寺小姓が
お七の処刑後
目黒の地にいた!!
ということのようです
その小姓は
話によって寺も名前もまちまちで
吉祥寺の吉三郎だったり
円乗寺の佐兵衛だったり
しましたよね
ここの説明文には
駒込円林寺の吉三と書いてあります
初っ端から申し訳ないけど
円林寺って何処にあんの?
そんな寺ないと思うけどw
吉三は出家して
西運(さいうん)を名乗り
全国を行脚した後
行人坂の坂下
現在の目黒雅叙園あたりにあった
明王院に入りました
お七の菩提を弔うため
目黒不動と浅草観音に
1万日日参の悲願を立て
往復10里(約40km)の道のりを
念仏を唱えながら
行き来したのだそうです
27年の歳月を経て
念仏堂を建てたと伝わります
明治13年(1880)
明王院は廃寺となり
そこに祀られた仏像は
大円寺に遷されたということです
ガラス越しに
阿弥陀三尊像が拝めます
阿弥陀が観音・勢至を脇持とする
典型的な来迎形阿弥陀三尊ですが
中尊・阿弥陀如来像も
左足を垂下した半跏の姿が
珍しいそうです
明和7年(1770)の銘があり
江戸時代の作風を示しながら
気宇広大な特色を持つそうです
堂内には
西運上人像もあるらしいですが
それは肉眼で確認できませんでした
堂宇前の
お七地蔵に並んである
西運を描いた石碑です
大円寺門前の行人坂の祠に
勢至菩薩が祀られています
その台座の銘文には
宝永元年(1704)
西運が目黒不動と浅草観音に日参し
往復の途中 江戸市民から報謝を受け
目黒川に橋を架けたことが
刻まれています
西運が
道を直したり橋を架けたり
社会事業に貢献した話は
他の史料にも遺されているようです
雅叙園の先の目黒川に架かる
現在の太鼓橋
目黒の大円寺にある
八百屋お七にまつわる話は
こんなところでしょうか
大円寺というよりは
その隣にかつてあった明王院
お七というよりは
お七の恋した男性が
生涯をかけてお七を供養した
という話でした
◇◇◇◇◇
持つべきものはネット仲間 (^O^)/
mixiのマイミクさんだった
めいすけさんから
コメントに情報をいただきました
島根県にも
この西運の墓があるそうです
さっそくネット検索してみました
●佛谷寺(ぶっこくじ)
・松江市美保関町美保関530
浄土宗龍海山三明院佛谷寺
本尊 阿弥陀如来
行基菩薩の開基とされ
創建より1200年の歴史を誇る古刹です
寺の紹介には
国の重文指定を受けた
いくつもの貴重な仏像の数々とともに
西運の墓所が載っていました
この寺が
西運の巡礼の旅の納所となり
70歳で入滅したと書かれています
僕は今まで
八百屋お七の話は
江戸っ子たちの語り種
いわゆる都市伝説だと思っていたので
遠く離れた土地からの報せは
ちょっと驚きました
西運は旅の途中にも
お七供養の地蔵を建ててまわった
とありますから
もしかすると
八百屋お七の伝説は
全国各地で
語り継がれているかもしれませんね
八百屋お七に関するブログは
これにて終了
お読みいただきありがとうございました