小雨に濡れながら 神農祭 | 芳村直樹のブログ

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シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです




お茶の水にある湯島聖堂には
孔子廟のほかに
普段は立入禁止の敷地に
神農(しんのう)を祀る廟があり
現在では年一度
11月23日に執り行われる神農祭に限り
神農像が一般公開されます



前から決めていたこととはいえ
こんな真冬の寒さになろうとは
予想だにしていませんでしたよ

{{(>_<;)}}

おまけに生憎の小雨模様(涙)

でも
この天気なら人出もにぶるし
それは逆にラッキー!と捉え
勇んで出かけてまいりました



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いつもは重い錠がかけてある
立入禁止区域
今日だけは入れるんですよ

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主催者、奉讃会の方々
文京区長をはじめ来賓諸氏のほか
一般の参会者は150人ほどでした

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神田神社(神田明神)の
神職による祝詞奏上など

こういう神事じたい
めったに参列する機会もないので
ありがたい経験になりました


*神農像の写真はありません
 撮影はご遠慮下さいとのことでした
 それでも写してる輩いましたけどね


■神農について

神農は
古代中国の伝説上の帝王である
三皇(伏羲・神農・女か)の一人です
初めて農具(鋤・鍬)を作り
農耕を人民に教えたといいます
人民が病で苦しんでいるのを見て
百草を嘗めて医薬を作り
さらに農作物の市場を設けて
交易を教えたと伝わります

日本では
江戸時代から医薬の始祖として
東洋医学者の尊崇を集めてきました
交易の神としても根強い人気を博し
現在も各地で祀られているそうです

湯島聖堂の神農像は
中国(宋)に渡った東大寺の学僧が
寛和3年(987)持ち帰ったものと
長らく伝承されてきましたが
昭和59年(1984)の調査によって
3代将軍家光の発願により製作された
とする説が有力となっています

寛永14年(1637)家光は
雑司ヶ谷の地に薬苑を開くにあたり
神農刻像を作り安置しました(1640)
5代将軍綱吉は
天和元年(1681)生母・桂昌院のために
雑司ヶ谷薬苑地に護国寺を建立します
薬苑は白山に移りますが(小石川植物園)
神農刻像は 元禄11年(1698)
湯島聖堂の敷地内に神農廟が設けられ
遷されたということのようです

寛政9年(1797)
11代将軍家斉の侍医・多紀家の要請で
神田和泉町の醫學館に遷座し
春秋の祭儀(官祭)が行われます
明治維新以降は祭祀も途絶え
神農像は有為天変を経ますが
昭和18年(1943)実に150年ぶりに
元の廟所である湯島聖堂敷地内に
再び遷座したのだそうです


*神農像の画像はググると出てきます
 興味ある方はご覧になってみて下さい


>配布されたパンフレットより

神農像(木彫)はほぼ等身大で、古木の切り株の上に座して右足は曲げ、左足は下に垂れている。目は見開き、唇は僅かに開き草を嘗めているようである。右手は膝の上に置いて赤い鞭のようなものを持ち、左手は胸元で曲げて薬草のようなものを握っている。身体には薬草の枝葉のような衣服が刻まれていて、太古の帝王、医薬の始祖に相応しい威風凛々とした趣である。



神官退席、閉式となり
祭主や来賓の退席の後
僕たち一般の参会者も
順番に近くまで寄って(ホント近くまで)
神農像に拝礼しました


普段から神社仏閣には
わりとよく参拝するほうですが
なんだか今日は一段と
神妙な気分を味わえたように思います