文学部の批評理論という講義の中で記号論という概念を解説している。

 

英語では semiotics という。

 

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記号論の解説をしてから具体例として一つの記号について学生たちに問うた。
 
”ワクチン”という記号(言葉)の意味を書いてください。
 
 
学生たちの反応。
 
一瞬、虚をつかれたようにかたまって思考停止した者。
 
これでしょう!と自信満々で書いた者。
 
そんなこと考えたことね~よ!あれ、あれでしょ?と答えを放棄した者。
 
 
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2021年春、ある記号が突然日本中に降りそそいだ。

 

ワ*ク*チ*ンというカタカナ四文字

 あるいは 

【wakuchinという音の波・鼓膜に届く空気の振動

 

テレビ・新聞・週刊誌などのマスコミでも、日常の会話の中でも、

この言葉が文字記号としてあふれ、音声記号としてとびかった。

 
この記号を目にしたとき、耳にしたとき
われわれはその文字・その音が何を指しているかを
どれほど意識的に考えただろうか?

 

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学生にむけた先の質問にたいして一番多かった答えは
 
ウィルス感染を予防するためのモノ
 
記号の意味を問われたとき、その記号が指し示すものの効果・影響を示してその言葉(記号)の意味とする。
 
間違いではない。
 
で、モノってなに?
 
こう問われてはじめて、
 
それはどんな液体なのか?
それは誰が作ったものなのか?
誰が推奨して我々に届けているのか?
という疑問がわいてくる。

 

 

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文学部英米文学科の学生対象の授業では、辞書をひくときには英英辞典をひくようにと指導している。

 

英語の意味を別の英語で説明している辞書。

 

まどろこしくって、めんどくさ~い。日本語の辞書のほうがわかりやす~い。

 

いや、そうでもないですよ。日本語に置換えても意味が素通りしてしまうものも、英語で説明されると、その意味を真剣につきとめるので、かえってクリアにわかることもありますよ。

 

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というわけで vaccine を英英辞典でひいてみる。
 
ふむふむ。定義が5つ並んでいる。どれどれ。

1. any preparation used as a preventive inoculation to confer immunity against a specific disease, usually employing an innocuous form of the disease agent, as killed or weakened bacteria or viruses, to stimulate antibody production

2. a preparation that is administered (as by injection) to stimulate the body's immune response against a specific infectious agent or disease

3. a product that stimulates a person's immune system to produce immunity to a specific disease, protecting the person from that disease

4. a substance that is put into the blood and protects the body from a disease by causing a very mild form of it

5. a biological preparation that provides active acquired immunity to a particular infectious disease. A vaccine typically contains an agent that resembles a disease-causing microorganism and is often made from weakened or killed forms of the microbe, its toxins, or one of its surface proteins. The agent stimulates the body's immune system to recognize the agent as a threat, destroy it, and to further recognize and destroy any of the microorganisms associated with that agent that it may encounter in the future

 

いやだ~ こんなに英語が並んでいる~ わけわからない~

 

まあまあ、そういわずに。全部を読む必要はありませんから。

ボールド体(太文字)にしたところだけ見ていってください。

 

じ~っと見て見てください。

 

じ~っ

 

 

そう、preparationという言葉が三つでてきます。1番、2番、そして5番です。

 

preparationつまり準備のこと。感染にたいする予防手段ということのようだ。

 

そこまできたら続く英語の中からヒントになる単語をさがしてみてください。

 

そう、immunity/immuneという言葉が三つの定義すべてに含まれていますね。

これが最近よく言われる免疫/免疫を持ったという英語なのです。

 

1番 ある病気にたいする免疫を与えるための注射という予防手段

 

2番 注射によって身体の免疫反応を誘発するために行われる予防手段

 

5番 特定の感染症に対する活性化された獲得免疫を与える生物学的予防手段

 

 

学生たちが書いたワクチンの意味

 

ウィルス感染を予防するモノ

 

モノ予防手段と考えれば、彼らの定義は正しかったことになります。

 

 

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では、5つ並んだ定義のうち学生たちが書かなかった残りの二つを見て見ましょう。

 

ワクチンという記号のむこうにこうした意味があることに気づかない人も多かった。

 

3 product

そして

4 substance

 

これって何?

 

3 product は 製品 

ああ、そうだった。

ファイザーとかモデルナとか製薬会社をみんな気にしていたよな。

ワクチンはどこかの会社が作った製品だったのか。

資本主義の中の製薬会社が作る製品で、資本主義経済で流通する商品だったのか。

 

 

4 substance は 物質 

ああ、そうか。

あの液体はアンプルに入っていたよね。

最初は零下何十度で保管とか言っていたけど。

製品であれば普通は成分表示がでているよね。

ワクチンって何からできていたのかな~?

 

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ワクチンという記号に接したとき

 

1番、2番、5番の予防手段の意味にとり、与えられるものがその効果を発揮すると疑わなかった人たちは、接種を希望し、注射器の前に腕を差し出した。

 

3番の意味を考えた人たちは、ファイザー社にHPに行ってみる。has not been approved(認可されていない)という文字を見てその製品の正体を考えた上で接種するかしないかを決めた。

 

5番の意味を考えた人たちは、ネットの中にときどき出てくる不穏な情報に接して少し懐疑的になる。ワクチン成分についての情報が故意に隠されているかもしれないという思いを抱いた人もいた。接種するかしないかについてはかなり悩むことになったはずである。

 

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記号論は人文科学の中の一分野にすぎない。

 

現実とは無縁な理屈をこねている学問と思われている。

 

自分の身体に”ワクチン”と呼ばれる液体を注入するまでは。