今日は陸軍元帥で総理大臣も務めた寺内正毅(てらうち まさたけ)の誕生地を訪問します。まずは山口市の遺跡地図で場所を確認します。

 

山口市平井の県道から脇道に入ると案内板が見えてきます。

 

案内板から細い道を200mほど進むと到着です。

以前は草むらだったと記憶していますが、舗装されて綺麗になっています。

 

「元帥伯爵寺内正毅君誕生地」です。

 

説明書きです。

 

では寺内正毅さんについてもう少し詳しく書いていきます。

 

嘉永5年(1852年)、長州藩士宇多田正輔の三男として旧平井村(のち平川村、現在の山口市平井)に誕生。幼名は寿三郎。8歳で母方の寺内勘右衛門の家督相続人として養子となり、平井から旧宮野村に移住。(現在の山口市桜畠付近。誕生地から6㎞くらい離れた場所)

 

若い頃より長州藩諸隊に属して各地で戦い、戊辰戦争、五稜郭の戦いにも従軍。維新後は大村益次郎に認められて大阪の兵学寮で学び陸軍軍人として歩む。明治4年(1871年)に正毅に改名。明治10年(1877年)の西南戦争で負傷し右手の自由を失う。

 

その後は第一線の部隊に出ることなく軍政や軍人教育に尽力し、フランス留学から帰国した後はキャリアを重ね教育総監、参謀本部次長、陸軍大学校長を経て、明治35年(1902年)には第1次桂内閣で陸軍大臣として入閣した。

 

明治39年(1906年)には大将に昇進。第1次西園寺、第2次桂内閣でも陸相を務めるとともに、明治43年(1910年)には韓国統監を兼任。韓国併合が実現された後、新たに設置された朝鮮総督府の初代総督に就任して韓国を統治した。

 

大正5年(1916年)に元帥となり、同年10月に朝鮮総督を辞任して内閣総理大臣(第18代)に就任。在籍時にはシベリア出兵を宣言する対外政策(大正7年)を行ったが、護憲運動が高まりを見せる中で強権を発動する非立憲な政策は民衆の非難を浴び、大正7年(1918年)に米価高騰から全国的な暴動事件に発生した米騒動の責任をとって同年9月に総辞職した。翌大正8年(1919年)11月、持病の悪化により死去。享年68歳。

 

経歴は以上ですが、いくつかエピソードを。

 

正毅さんが陸軍大臣だった頃に幸福をもたらすとされるビリケン像がアメリカから日本に伝わりました。今でも大阪の新世界で見ることができるアレです。

このビリケン像と正毅さんの容姿が似ていることから、正毅さんは「ビリケン宰相」とあだ名されましたが、この言葉の裏には非立憲な政策への批判的な意味も込められていたそうです。非立憲→ひりっけん→ビリケン ってことですね。

 

正毅さんの墓と言うか寺内家の墓所は宮野にあり、息子で同じく陸軍元帥となった寿一(ひさいち)さんの墓も立っています。

お墓のある場所は現在の行政区画では山口市平野となりますが、宮野は宮野上、宮野下、桜畠、平野、折本などに細分化されていてその範囲は結構広いです。

なお宮野には、正毅さんが基礎を作り息子の寿一さんが完成させた私設図書館である「桜圃寺内文庫」が今でも残っていますので、近日中に墓所と合わせて紹介します。ちなみに「桜圃」(おうほ)と言うのは、正毅さんが書道の雅号(がごう)として持っていた所謂ペンネームです。旧宅の宮野桜畠に因んで付けられたそうです。また「魯庵」と言う雅号も使っていました。

 

正毅さん没後、東京の三宅坂に北村西望作の騎馬像が立てられましたが戦時中に金属回収で消滅しました。戦後その台座の上に三体の裸婦彫刻が置かれ、平和の群像として今も見ることができます。なお騎馬像があった当時の写真と小さな騎馬像のレプリカが陸上自衛隊山口駐屯地の防長尚武館に置かれています。

ところで騎馬像を制作した北村西望さんについては山縣有朋騎馬像を紹介した時に触れましたので、合わせてご覧ください。

 

また防長尚武館には寺内家から寄贈された正毅・寿一親子の元帥刀や軍服などの遺品が数多く展示されています。ご興味ある方はぜひ見学に行かれて下さいね。

 

最後にもうひとつ、生家の宇多田家について。「宇多田」と聞くと真っ先に歌手の宇多田ヒカルが頭に浮かびますがそのものズバリで、彼女は正毅さんの曾姪孫(そうてっそん、兄弟のひ孫)にあたるそうです。

 

再び誕生地に戻ります。記念碑の裏を見てみます。

見難いですが、「大正十年二月 有志建之」とあります。

 

なお記念碑の前は広場になっており宇多田家の跡地を公園化したようですが、今ではその面影がありません(・。・;

 

その一角に「産湯の井戸」の石碑が立っています。

 

以上、寺内正毅誕生地でした。

 

場所はこちらをクリック →→→