明治38年、海軍は煉炭製造所を徳山に設置しました。大正期に入ると軍艦燃料の石炭から石油への移行を受けて、同製造所は海軍燃料廠に改組されます。これ以降、原油を精製して石油の生産・供給が始まったことで、徳山は軍需用燃料の一大拠点に発展していきます。
昭和13年4月、徳山港は要港指定を受け軍港に次ぐ重要な港として位置付けられましたが、この「徳山要港」の防御を担ったのが「呉海軍警備隊徳山分遣隊」(後の徳山警備隊)でした。
昭和16年11月20日の海軍警備隊令の施行により呉海軍警備隊は開隊されました。防空砲台や見張所による対空防御と衛兵隊等による警備が任務となり、徳山方面は「徳山分遣隊」が担当しました。開隊時点での「徳山分遣隊」の対空兵力は、高角砲台3か所(永源山、大津島、水谷山)、聴測照射所4か所(向道、室積、野島、戸田、いずれも工事中で昭和17年4月竣工)でした。
開隊時点の配備要図です。
開隊後まもなく大東亜戦争が始まりましたが、開戦から2年半を経過した昭和19年(1944年)6月、北九州の八幡製鉄所が空襲を受けました。この日がB29による初めての日本本土空襲となりましたが、これをきっかけとして防空砲台の増設が急ピッチで進められていくとともに、昭和19年10月20日に徳山分遣隊(支隊)は「徳山海軍警備隊」となり、呉海軍警備隊から独立して呉鎮守府に編入されました。
昭和20年になると敵機の来襲は増加し、5月以降は大規模な空襲を受けました。特に被害が大きかった空襲は以下の通りです。
5月10日 第三海軍燃料廠を標的とした徳山空襲
7月26日 徳山市街地に対する空襲
6月30日/7月15日 工場地帯を標的とした下松空襲
8月14日 海軍工廠を標的とした光空襲
敵機来襲の度に各地に配備された防空砲台は激しく応戦しましたが、奮闘虚しく終戦を迎えることになりました。
終戦時の配備要図です。
高角砲を配備した防空砲台は徳山要港の境域内を中心として設置されていますが、光市においても海軍工廠を守るべく3つの砲台が戦時中に構築されました。
機銃砲台の位置については遺構が消滅して確認が取れませんので推定となります。また[ ]表示の杉ヶ峠と太華山は、営造物は建築されたものの運用には至らなかった、もしくは工事中で終戦を迎えた施設です。
とおの山の山頂からパノラマで撮った写真です。
見える範囲内で場所を印してみました。
では下記に防空砲台と照聴所の装備と現況を簡単に説明します。
【防空砲台】
永源山防空砲台
・竣工:昭和12年9月
・備砲:8㎝高角砲×2
・遺構:× 公園化により破壊
水谷山砲台
・竣工:昭和12年9月
・備砲:8㎝高角砲×2
・遺構:△ 掩体壕と残骸
大津島防空砲台
・竣工:昭和16年2月
・備砲:8㎝高角砲×2 → 戦時中換装:12.7㎝連装高角砲×2
・遺構:〇 保存も荒廃
東山防空砲台
・竣工:昭和19年10月ごろ
・備砲:12.7㎝連装高角砲×2
・遺構:〇 公園で一部保存
光防空砲台
・竣工:昭和19年10月ごろ
・備砲:12.7㎝連装高角砲×2
・構成:2つの照聴所を配置
・遺構:〇 企業敷地内につき立入不可
仙島防空砲台
・竣工:昭和19年10月ごろ
・備砲:12cm高角砲×4
・遺構:〇 砲座と探照灯台座が現存
虹ヶ浜防空砲台
・竣工:昭和19年10月ごろ
・備砲:12cm高角砲×4
・遺構:× 公園と宅地化により破壊
北山防空砲台
・竣工:昭和20年3月ごろ
・備砲:12.7㎝連装高角砲×2
・遺構:△ 竹藪の中に掩体、探照灯基礎
新宮防空砲台
・竣工:昭和20年5月ごろ
・備砲:12.7㎝連装高角砲×2
・遺構:〇 公園で一部保存
笠戸防空砲台
・竣工:昭和20年6月以降
・備砲:12.7㎝連装高角砲×2
・遺構:〇 登山道沿いにあり
太華山防空砲台
・竣工:工事中で終戦
・備砲:工事中につき未装備
・遺構:× 展望広場建設で破壊
杉ヶ峠防空砲台
・竣工:工事中止
・備砲:運用されず未装備
・構成:2つの照聴所を配置
・遺構:〇 砲座1つ保存、照聴所はよく残っている
【聴測照射所(特設見張所)】
・遺構:〇 向道、室積、野島、戸田、深浦
・遺構:△ 八代
以上、徳山海軍警備隊について簡単に概略を書いてみました。
各施設の詳細はそれぞれの探訪記をご覧下さい。
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[参考資料]
JACAR(アジア歴史資料センター)
・呉海軍警備隊戦時日誌(Ref.C08030470300~C08030475700)
・徳山海軍警備隊戦時日誌(Ref.C08030476000~C08030476200)
・兵器目録(C08011396900)
「徳山要港防備図でたどる周南の戦争遺跡」(工藤洋三)
「写真が語る山口県の空襲」(工藤洋三)