急な冷え込みに 少し疲れが出ている私
でも昨日は 色んな人と話をして 元気が出た私です。
たとえば、スターバックスの掲げる「この瞬間は一生に一度しかない。
だから悔いの残らないように誠心誠意おもてなししなさい」というポリシーは
禅語の「一期一会」、「喫茶去(きっさごう)」と同じ意味です。
こんな言葉を見つけた。
一期一会のお付き合い
それを心をこめて おもてなしをする。
その思いで 昨日はお客様に接することが出来
誰かのためでは無く 私自身が心が充満した。
いい気分とは そういうことかな。
何気ないお客様との会話
へーそうなんですね。
それは面白いですね。
それは大変でしたね。
作為的でも やり任そうなんて思いを描くこと無く
素直な楽しい気持ちで会話する。
私はこう思いました。
そんな影響が有りました。
そんな気持ちをお互いに共有しあう。
そんな会話を 色んな人とでき
お互いを気遣い合う
みんなの 幸せのために。
こころが軽くなると
やろうって思うことも軽やかに出来そう
今度は今話題の あの講座を やってみよう
なんだか ワクワクしてきましたよ
今月の禅語>
喫茶去(きっさこ) <五灯会元>
禅語の中で最もほっとさせられることばがこの「喫茶去」である。
去の字は喫茶の強調の助辞であり、去るという意味はない。「お茶を一服如何
ですか」とか「どうぞお茶でも召し上がれ」と云う程度の意味に過ぎないが、
「どうぞ、お茶でも召し上がれ」という喫茶去の心を日常に生かせるだろうか。
中国唐時代の有名な禅僧の趙州和尚は話である。
その趙州和尚のもとに修行僧が教えを頂きたいとやって来た。
趙州「曽(か)って此間(すかん)に到るや」(お前さんはかって
ここに来たことがおありかな?)
僧 「曾(か)って到る」(はい、以前にも参りました)
趙州「喫茶去」(さようか、ならばお茶でも一服おあがりなさい)
またあるとき別の修行僧がやって来た。
趙州「曾(かって)到るや」
僧 「曾(かって)到らず」(いいえ、ここに来たことはありません)
趙州「喫茶去」(左様か、ならばお茶でも一服おあがりなさい)
これを聞いていたこの寺の院主は「和尚は曾ってここに来た者にも、はじめて
の者に“お茶をどうぞ”と同じことをいわれるがどういうわけなんですか?」
とたずねた。趙州は是れに答えず「院主さん!」と呼ぶ。院主は思わず「はい」と
答えたその瞬間、趙州はまた「喫茶去」(まあ、お茶でも一服召し上がれ)
このとき院主は、はっと悟ったという。このなぜ悟った
かの追体験がこの禅問答の意図である。それぞれ立場の
違う三人に対し、ただ「喫茶去」と云って接したのは趙州
の相対する分別、取捨、過去・現在、あちら・こちらと
分かつ一切の意識を断ち切った、絶対の境地のあらわれに
他ならない。そこには、凡聖、貴賎、男女、自他等の
分別は無く一切の思量の分別の無い無心の境地からの
「喫茶去」なのだ。
この無心の働きからでるところに、茶道家はこの「喫茶去」の語を茶掛けと
して尊んで自ら無心に茶を点て、貧富貴賎の客を択ばず無心に施す心を養ってきた
ことだろう。私たちはおうおうにして、好きな人や、金持ちや身分の高い人が
来れば鄭重にもてなし、嫌いな人や貧しい人にはいい加減な対応をしてしまい
がちである。分別を入れず、誰に対しても計らい無く、真心から接して行きたい
ものである。

でも昨日は 色んな人と話をして 元気が出た私です。
たとえば、スターバックスの掲げる「この瞬間は一生に一度しかない。
だから悔いの残らないように誠心誠意おもてなししなさい」というポリシーは
禅語の「一期一会」、「喫茶去(きっさごう)」と同じ意味です。
こんな言葉を見つけた。
一期一会のお付き合い
それを心をこめて おもてなしをする。
その思いで 昨日はお客様に接することが出来
誰かのためでは無く 私自身が心が充満した。
いい気分とは そういうことかな。
何気ないお客様との会話
へーそうなんですね。
それは面白いですね。
それは大変でしたね。
作為的でも やり任そうなんて思いを描くこと無く
素直な楽しい気持ちで会話する。
私はこう思いました。
そんな影響が有りました。
そんな気持ちをお互いに共有しあう。
そんな会話を 色んな人とでき
お互いを気遣い合う
みんなの 幸せのために。
こころが軽くなると
やろうって思うことも軽やかに出来そう
今度は今話題の あの講座を やってみよう
なんだか ワクワクしてきましたよ
今月の禅語>
喫茶去(きっさこ) <五灯会元>
禅語の中で最もほっとさせられることばがこの「喫茶去」である。
去の字は喫茶の強調の助辞であり、去るという意味はない。「お茶を一服如何
ですか」とか「どうぞお茶でも召し上がれ」と云う程度の意味に過ぎないが、
「どうぞ、お茶でも召し上がれ」という喫茶去の心を日常に生かせるだろうか。
中国唐時代の有名な禅僧の趙州和尚は話である。
その趙州和尚のもとに修行僧が教えを頂きたいとやって来た。
趙州「曽(か)って此間(すかん)に到るや」(お前さんはかって
ここに来たことがおありかな?)
僧 「曾(か)って到る」(はい、以前にも参りました)
趙州「喫茶去」(さようか、ならばお茶でも一服おあがりなさい)
またあるとき別の修行僧がやって来た。
趙州「曾(かって)到るや」
僧 「曾(かって)到らず」(いいえ、ここに来たことはありません)
趙州「喫茶去」(左様か、ならばお茶でも一服おあがりなさい)
これを聞いていたこの寺の院主は「和尚は曾ってここに来た者にも、はじめて
の者に“お茶をどうぞ”と同じことをいわれるがどういうわけなんですか?」
とたずねた。趙州は是れに答えず「院主さん!」と呼ぶ。院主は思わず「はい」と
答えたその瞬間、趙州はまた「喫茶去」(まあ、お茶でも一服召し上がれ)
このとき院主は、はっと悟ったという。このなぜ悟った
かの追体験がこの禅問答の意図である。それぞれ立場の
違う三人に対し、ただ「喫茶去」と云って接したのは趙州
の相対する分別、取捨、過去・現在、あちら・こちらと
分かつ一切の意識を断ち切った、絶対の境地のあらわれに
他ならない。そこには、凡聖、貴賎、男女、自他等の
分別は無く一切の思量の分別の無い無心の境地からの
「喫茶去」なのだ。
この無心の働きからでるところに、茶道家はこの「喫茶去」の語を茶掛けと
して尊んで自ら無心に茶を点て、貧富貴賎の客を択ばず無心に施す心を養ってきた
ことだろう。私たちはおうおうにして、好きな人や、金持ちや身分の高い人が
来れば鄭重にもてなし、嫌いな人や貧しい人にはいい加減な対応をしてしまい
がちである。分別を入れず、誰に対しても計らい無く、真心から接して行きたい
ものである。
