鑑賞会の3月例会は、こまつ座の「イヌの仇討」の舞台です。例会担当の私は
楽しみながら取り組んでいます。
原作者 の井上ひさし版・忠臣蔵「イヌの仇討」には、浅野内匠頭も大石内蔵助もでてきません。
忠臣蔵の討ち入りから318年、歴史の死角のなかで眠っていた仇の吉良上野介に
光をあてた異色の作品です。
舞台は、逃げ隠れた物置の中だけで物語は進行します。
吉良上野介と側室のお吟様、上野介付きの女中頭、お犬様付きの女中二人、ほか
に殿を守ろうとする家臣たち。
これらの人の言葉の数々は暗闇のなかで行き交い、人間の生きる姿を問いかけてい
るのです。
吉良上野介は本当に悪者だったのでしょうか。
忠臣蔵の浪士たちは、本当に忠義の義士だったのでしょうか。
作者の目腺で見た、もう一つの忠臣蔵「イヌの仇討」を書いた動機を、こまつ座の雑誌
興味深い内容なのでその文章の一部分を抜粋し、少し長くなりますが紹介します。
◇ 社会という共同体を作った人間の最大の関心事は何であったか。意見はい
ろいろに分かれるだろうが、
私の考えでは「正義はきちんと行われているか」
これに、もっとも関心が集まっていたのではないかと思われる。そして、正義の根本は平等にあった。
平等の具体的な中身は「モノの正当な配分」と「刑罰の公平な割り当て」で
あり、公の法が確立していない場合は私的に、ということは私刑(リンチ)で
刑罰の不公平を埋めようとする。
この絶対的な不公平を埋める行為が、復讐であり、仇討である。
◇ 私たちが愛してやまず、語っても飽きない忠臣蔵、赤穂浪士の討ち入り
事件(元禄15年・1702年)も、この刑罰の割り当ての不公平が主因で起
こった。
事件は、赤穂の城主・浅野内匠頭長矩が江戸城松の廊下で小刀の抜き、
高家衆筆頭の吉良上野介義央に切りかかったのが発端である。
殿中で刃傷に及べば、わが身は切腹。お家は断絶、領地と居城は没収、
そして、家中は離散が公法である。
それなのに、赤穂の殿様はなぜ刀を抜いたのか、その本当の理由は判明
していない。これからも判らないだろう。
欲深な上野介が浅野家からの進物(賄賂)が少ないのに腹を立てて内匠頭
に意地悪をし、勅使への饗応作法を教えなかった。そこで内匠頭はついに・・・
という説はがあって、私たちが幼いころ夢中になった忠臣蔵映画や義士銘々
伝講談は、この俗説によっていたが、これは取るに足らぬ俗説である。
◇ 第一に、勅使饗応役の内匠頭が、もし失敗をしでかしたら大事、その責任は最
高監督官の上野介が取らなければならない。
第二に、百歩も二百歩も譲って、上野介が意地悪をしたとしても内匠頭は決し
てまごついたりしなかったはずだ。
内匠頭は、勅使饗応役をつとめるのは初めてではない。
18年前、17歳のときに同じ役を立派につとめ上げている。当然、記録も残って
いるだろうし、上野介がどのように出ようと慌てることはないのだ。
◇ 事が起きたとき、将軍綱吉は潔斎のため湯に入っていた。湯から上がるのを
待っていた柳沢吉保が事件を報告する。
綱吉は激怒し、「即日切腹」の断を下した。
いかなる理由があろうとも、殿中での刃傷は切腹という大法があるので綱吉
の判断は理に叶っていた。
だが、綱吉はその次の差し手を過った。
家康百ヶ条に「喧嘩口論双方ヲ成敗ス」とあったにもかかわらず、綱吉は上野
介をねぎらったのである。
「上野介は、よく場所柄をわきまえ手向かいしなかったのは、まことに神妙で
あった。内科医の吉田意安に内服の薬を調合させ、外科医には栗崎道有を疵
の手当てに差し向けるので大事に養生するように。なお、回復ののちには前と
変わらず勤めに励むがよい」
◇ 赤穂・浅野家の家臣団はこの刑罰の割り当てが、ひどく公平を欠くと感じた。
世間の感じ方にも浅野の家臣団と共通するものがあった。
この不公平は埋めなければならない。公法がそれを怠っているなら、私法によ
って。
日本の歴史上最大の復讐劇忠臣蔵は、吉良上野介の仇討だけではなく、赤穂家臣団
の将軍綱吉への無言の抗議だったのかもしれません。