ぶんぶく狸 第六回 | 芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能人の追いかけを、やったりして、芸能人のことをちょっとだけ知っています、ちょっとだけ熱烈なファンです。あまり、深刻な話はありません。

ぶんぶく狸 第六回
「光太郎さん、はやく起きて。すっかりお日様は昇っていますよ」
飯田かおりは木で出来た雨戸をがたぴしといわせながら開けると日の光が障子に差し込んで電灯よりも明るい白い色で輝いている。朝起きる頃には外もすっかりと暖かくなっている。目の前にはいつものように弘法池が見える。はるか向こうには筑波山の姿が見える。飯田かおりはその山の姿を見ると自分の父親のような気がした。そしてすがすがしい気持ちがした。飯田かおりには父親がいないからなおさらのことだ。なにもその山は言わないが飯田かおりや飯田かおりの家のことをじっと見ている。庭に植えている南天の赤い実が太陽にきらきらと輝いている。飯田かおりはその南天の実を見て赤い色をぎゅっと凝縮したようだと思った。ただ色を凝縮しただけなら色は明るさを失って黒くなってしまうが赤い色の要素だけを凝縮したと言う意味で物理的な意味ではない。美学的な意味だ。いつも思うことだが毎日毎日、日が沈んでまた太陽が上がってくると云うことは大変なことだと思う。人は眠りについて疲れを癒し、昨日と云う過去を振り払う。飯田かおりは雨戸を開け放した廊下で空気を吸い込むとやはり田舎の匂いがした。
 のっそりとよっぱらいが起きて来た。もうすっかりと酔いはさめているらしい。でも髪はもじゃもじゃで髭も少しのびている。太陽の光は公平に彼にもその光を浴びせた。
「もう、朝か」
「お風呂にでも入ったほうがいいんじゃないの」
「風呂は沸いているの」
「沸いていない。光太郎さん、入るならこれから沸かしますよ」
「近所に温泉でも沸いていればいいんだけどな」
「このへんに温泉はあるのかしら」
「温泉ぐらいあるだろう。田舎なんだから。この弘法池の水源から水がわき出しているらしいよ」
「光太郎さんは温泉の定義を知っているの。温泉名人の話を聞いていたんじゃないの」
「忘れちゃったよ」
光太郎は頭をかいた。
「じゃあ、わたしが教えてあげる。地下からわき出してくる地下水で温度が二十五度以上あって、カリウム、硫黄、ラジウム、なんかの化学物質のどれかがある一定以上含まれているということなのよ」
「やっぱり僕よりふたつ年下だから記憶力がいいね」
「当たり前よ。光太郎さん、おはぎの用意は出来ているからね。わたしも今日は出掛けようと思っているの。光太郎さんより早く帰ってくるつもりだけど」
「さっそく自転車に乗ってみるつもりなんだね」
「そうよ」
「光太郎さんばかり、ここを散歩しているなんてずるいわ。私も光太郎さんの買ってくれた自転車でここを散歩してみるつもりよ」
 光太郎に胡麻のおはぎを持たせて背振無田夫のお墓参りに出してから飯田かおりは光太郎に買ってもらった自転車でこの田舎町を散歩してみようと思った。光太郎の家からこの町のメインストリートまで歩いて行くのは少し大変だ。買い物をしようと思っても近所にはない。メインストリートまで行かなければならない。それで光太郎に自転車を買ってもらったのだ。光太郎が出発してから家の用事をある程度すませて家の用心をすると飯田かおりは家の前の砂利道に自転車を出してサドルに腰をかけてみた。飯田かおりの丸いおしりが自転車のサドルにうまい具合に乗っかった。その姿は男の目を振り向かせるほどの効果はあるが、そんな男はこの近所には住んでいない。光太郎の家の離れたところにやはり下平の建てた建て売りが二軒あるが一軒は空き家でもう一軒の方はむかし国会で書記をやっていたと云う男が定年で退職して夫婦で悠々自適の生活を送っている。土地のことを云えば光太郎の家は借地だったがそのもと書記は土地も下平から購入したらしい。たまたまその家の前を通ったら家の中から尺八の鳴る音が聞こえた。 飯田かおりは家の前の砂利道に自転車を出してからメインストリートに行く左とは逆の右の方にハンドルを向けた。その砂利道は少し上り坂になっていて砂利道の上がりきったところから少し下っていけるようになっていると云う話しだが飯田かおりはまだ行ったことがないからことの真偽はわからない。飯田かおりがたまたまその方に行こうと思ったのはこのまちの駅に行ったときこの町の名所図絵と云うのが切符売り場の向かいの壁に貼ってあってその地図には弘法池が中心の位置に書かれていたのだがもぐら神の伝説のあるちょうど逆のほうに弘法池の二十分の一くらいの大きさでおおさんしょう池と云うのがあった。そこにもやはり嘘か真かわからない伝説があり、その内容がごちゃごちゃと書かれていた。それが男女の愛憎に関したものでおおさんしょううおが女に化けてどうしたこうしたと云うものだったが飯田かおりはその沼に興味を持った。飯田かおりにとって光太郎ははじめての男である。飯田かおりはどろどろとした男女の愛憎などと云うことはまったく知らなかったし、経験もなかった。そんな云われの沼を見てみようと思ったのはむしろこわいもの見たさに近い好奇心からだった。もしかしたら飯田かおりのこころのおくの方にはそんなものに対する興味があるのかも知れない。
 砂利道を自転車で走って行くと砂利の上の少し安定の悪い道を走っているので少し振動するし、早く走ることは出来ない。道の片側には申し訳のような茶畑がある。誰が栽培しているのか、飯田かおりにはわからなかった。茶畑の隣りには農作業で使うための道具や材料が収納されている掘っ建て小屋がある。そのまわりは木の杭が打ち込まれていてその杭を一回りするように針金が巡らされているのだがその針金もすっかりと錆び付いている。その掘っ建て小屋の軒の下には長い竹が荒縄で結ばれてぶら下がっている。その掘っ建て小屋の前には飯田かおりの家と同じように南天の木が植わっていて赤い実をつけている。その茶畑を越えるとぜんぜん手入れをされていない畑が続いた。畑のうしろのほうは孟宗が生えたいように生えている。地面が孟宗の落とした薄黄色い葉で覆われている。道はゆっくりと坂になっていて飯田かおりが二十分もペダルを漕いでいると坂を上がりきった場所に出た。その坂も来る途中に上がったり下がったりしていてここが坂の頂上になっているんだ、とわかったのはそこからさきが明らかに下り坂になっていてそのまままっすぐ行くと小さな山の中腹にぶっかってしまう。そこを左に曲がると竹藪の中に人の通れる小道があってもちろんそこも自転車で行けるようになっているので飯田かおりはその道を行くことにした。五百メートルくらいそのやぶの中の道を走り、やぶが途切れると急に坂になっていてゆるやかなすり鉢のようになっている場所にどろの色をした水が溜まっていて大きな葉っぱを持った水草が途中からするどい角度を持って茎が折れているのがたくさん水中から首を出している。男女不問と変な文句の書かれた看板が立っている。これがおおさんしょう沼だと云うことが飯田かおりにもわかった。まわりを孟宗と林に囲まれているので昼間から薄暗い。沼の真ん中には岡倉天心がどこかの海岸に建てたようなお堂のような住まいのようなものが建っていて沼の右手のほうからところどころ朽ちて穴のあいた小橋がついていて行けるようになっている。ますます飯田かおりのこわいもの見たさの欲望が刺激されて飯田かおりはその小橋を渡ってその六角堂の中に入ってみることにした。飯田かおりはその小橋の入り口のところに自転車をとめた。六角堂もその橋も古い木造の建物特有のオリーブグリーンに大量に白い絵の具を混ぜたような色をしている。その小橋を渡って行くと橋の途中の板が朽ちていてその下に名前のわからないうちわよりももっと大きい葉っぱがうかんでいる。こんなところに来る人はほとんどいないように思われる。沼の中央まで来ると六角堂の入り口の戸は開いていた。入り口の中から六角堂の中央が見えたのだがそこにはまた奇妙なものが置かれていた。六角形の上がり框のようなものがしつらえられていてその上に木製の像が置かれている。その像がまた奇妙なものだった。大きなおおさんしょううおがとぐろを巻いてひれ伏している上に吉祥天女がそれを踏みつけているように立っているのだ。これがどのような仏教的な教義にもとづいて立てられたものではないことはあきらかだった。その奇妙な立像に目を釘付けにされていると飯田かおりは心臓が飛び出すほどびっくりした。
「久しぶり」
入り口のかげからにゅっと首を出した者がいた。
「上田先生」
背振無田夫の指導教官であった上田がここにいたのだ。いつもはと云うよりも光太郎の母校で会ったときはフランスのどこかの宮殿の屋根で魔よけになっている魔物のようにぶっちょうづらをしていたのにここでは笑みを浮かべている。
「驚かせないでください。びっくりしましたわ」
「ふふふふ。びっくりさせて申し訳ない」
上田は口をもぐもぐさせてあやまったがやはりにやにやしていた。上田はレンズの上がエボナイト、下が金属になっている眼鏡のつるをいじくってまた空気のもれたような笑い声をあげた。そのとき目尻のしわが変な具合にできた。
「ふひょ、ふひょ」
「なんで、ここにいるのですか」
飯田かおりは上田の研究室で「しあわせか」などと云う変な質問をされたときからこの変人の学者には反感を持っていたが、なぜここに上田がいるのかは疑問に思っていたのでむげにも出来なかった。
「ここは研究の宝庫だよ。弘法池を筆頭にしてね。もちろんここもだ。三輪田さんはここがおおさんしょう池と呼ばれていることを知っていましたか」
「ええ、駅の観光図会で見て知っています。それで興味を持って来たんです」
「愚劣じゃ、愚劣じゃ、ここの学問的価値はそんな観光図会にのせるほど低級なものではない」
「愚劣」
飯田かおりは驚いて上田の顔をじっと見た。学問的なことなど飯田かおりが知るわけがない。だいたいいっぱんの人間がお祈りのときに祈祷師が祭壇の燃える火の前にあげるのがさんまのしっぽなのか鮭の頭なのかと云うことなどなんの興味もないだろう。煎じ詰めて云えば上田にしろ死んだ背振無田夫にしろさんまか鮭かに興味と云うよりも第一の主眼にしている人種と言えるだろう。飯田かおりはたぶんこの上田と云う学者が日常生活における精神活動は単純な人間なのではないかと思う。しかし、その研究生活においてはどんな思考回路を有しているのかわからない。ただふだん会いたいと云う人間ではないことは明らかである。そしてただたんに日常生活における単純な反応の仕方がある部分くずれているのではないかと思った。げすな言葉で言えば変態だと云うことではないか、古代の半ば化石となった人骨にあるやじりのあとを見て性的興奮を覚えるのではないかと思った。しかし、そういった方面にはまったくのなんの知識も素養もない飯田かおりではあったが光太郎とふたりで背振無田夫の遺品の研究を彼の研究室に届けた結果ではないかと云うことはわかった。それでこの変人の学者がこの土地に興味を持ち、飯田かおりにもこころを奪われているのではないか、しかし、上田の少し残っている男の部分を飯田かおりが刺激していることを彼女自身は知らなかった。
「背振無田夫さんの遺品からここに目を付けたんですか」
すると上田はなにも言わずににやりとした。飯田かおりの予想は当たっているらしかった。六角堂の内部のはじのほうに上田の研究道具が入っているらしいリュックが無造作に投げ出されている。飯田かおりはこの年になってもひとりも弟子もいず、リュックを背負ってこんなところにとぼとぼとやって来た上田を少し哀れになった。しかし飯田かおりはそれを上田が望んでいると云うことを知らない。ひょこひょことリュックひとつで研究対象の場所へ行き、弟子は死んだ背振無田夫だけで満足していたのだ。
「背振無田夫はやはり天才だった。自分の弟子であることを誇りに思うよ。自分がもしここに住めなかったら飯田かおりさんのご主人にここに住まわせるように遺言を残したそうですね」
「ええ、そうです」
「じつはわたしもこの町に引っ越して来たのですよ」
いつのまにか上田の顔は学者のそれに変わっていた。
「いつですか」
「五日前」
「お勤めは」
「通勤時間は二倍になったけど通えない場所ではない」
「本当ですか」
飯田かおりは不快感を押し隠した。こんな変人に近所に住まわれるのはいやだ。
「ここはわたしの研究の宝庫ですよ。そしてあなたも」
あやしい光が上田の目に光った。
そう言った上田の口調にはたしかに男が女にみせる不純なものがあった。変人と云っても特別に上田が性の倫理観が欠如しているというわけではないかもしれない。そこにはふたりだけしかいなかったからだ。それもふだんは誰も来ないような場所だった。そこで飯田かおりと顔をあわせているのである。
「なんでわたしが宝庫なんですか」
飯田かおりはぷりぷりして口をとがらした。
「あなたはどこの出身ですかな」
上田は学者らしくもなくにやにやして飯田かおりに聞いた。
「どこでもいいでしょう。わたし帰ります」
飯田かおりは向こうを向いたがやはり上田はにやにやしている。そのことを飯田かおりは知らなかった。飯田かおりは六角堂の橋を渡りきると自転車のところに行き、スタンドを跳ね上げてまたサドルにおしりを乗せた。
「なんでわたしが宝庫なのよ。失礼だわ。わたしの生まれ故郷がどこでもいいじゃない」
飯田かおりはかっかしながら自転車のペダルをふんだ。頭の中には上田のいやらしい顔が残っている。その映像を振り払うようにペダルを踏む足に力をいれた。そしてまたもと来た道を帰ることにした。飯田かおりの怒っている精神状態は自転車の運転を不安定にした。ハンドルが必要以上にふれて、来る道の途中にあった茶畑が見えるところまで来たときに道のはたに寄りすぎて落ちている小枝をはねあげた。はね上げた小枝はどういう具合かチェーンと前の歯車のあいだにはさまった。飯田かおりは空ペダルをふんだ。ペダルを踏む足に力が入らなかった。
「きゃあ」
飯田かおりは自転車から降りて横から自転車を見るとチェーンがはずれている。飯田かおりは困った。ここから自転車を押して帰るのは大変だ。この時代には携帯電話などと云うものはなかった。もちろんここはど田舎で近所に電話があるとは思えない。ここに一時的に自転車を置いて帰ろうか、飯田かおりは思案に困って自転車を見ていた。すると誰かの視線を感じた。
「チェーンがはずれただべか」
「ふん」
飯田かおりが鼻を可愛く鳴らして振り返ると中学一年生ぐらいの坊主頭の男の子がものおじをしながら飯田かおりの方を見ている。全体の印象から中学の一年生だと飯田かおりは判断したのだが平均に比べると少し背が低いかもしれない。どことなく天文クラブにでも入っていて理科室の二階から夜空をにらんでいるかもしれない。そしてクラブの発表会には大きな模造紙にガラス瓶に入ったマジックインキで天体図を描いている姿が飯田かおりの頭に浮かんだ。ごくごくふつうの中学生に見える。
「近所の子」
「うん」
たぶんむかしから代々ここに住んでいる家の子供なんだろう。
「おねえさん、道具があるから直せるよ。あの茶畑の向こうに掘っ建て小屋が建っているだべ。あの中に大工道具が入っているからな。ドライバーもレンチもあるだべ」
「かってにそこのを使っていいの」
「いいだべ。あれはうちの家の持ち物だべ」
坊主頭は上目使いで飯田かおりのことを見ている。そしてさびた鉄条網で囲まれたどこの田舎にでもあるような納屋のほうを見た。納屋の軒先には女郎蜘蛛が巣を張っていて黄色と黒のしましまの体で獲物をねらって巣の中央のあたりで逆さになりながらじっとしている。飯田かおりは既婚者ではあるがおねえさんと呼ばれてうれしかった。
「ええ、いいわ。行きましょう」
朽ちた木の入り口が道に面した逆のほうにあってそこから入れると飯田かおりは気付かなかった。光が漏れている。その光はこの掘っ建て小屋の板と板の継ぎ目から入り、さるかに合戦に出て来るような農家の古道具に当たって、光と影の境界を明確に形作っている。こんな大きな臼は久しぶりに見たような気がした。そして光の当たっている中で飯田かおりの目をひいたのは壁に立てかけてある折り畳み式のイーゼルだった。そのイーゼルには書きかけの絵がかかっている。それがルノアールの裸婦像の模写だと云うことはすぐにわかった。
「家族の中に絵を描く人がいるのね」
「うん」
中学生は恥ずかしそうにうなずいた。その返事の口調も少しなまっている。この大画家が陶器工場の絵つけ職人から出発したと云うことを飯田かおりも知っていた。その腕を見込まれて画家としての道を歩み始めて印象派と歩みをともにしながらそこを離れて女性の裸体画に生命を表現しようと試みた。もちろんその挑戦は成功したわけだが晩年は手が不自由になって手に絵筆を縛り付けて絵を描いたと云うことや、視力が衰えたこと、豊かな色彩がその絵の具の薄塗りの技法から生じていることは知らなかった。その模写が色鮮やかなことは漏れた光がそのキャンパスにあたっているからだろう。中学生はそのキャンパスのところに行くとあわてて絵を裏返した。そのイーゼルの足のそばには薄い茶色をした絵の具箱があった。そこから少し離れたところに脱穀機やくわやすきがあった。そして農作業の道具の横に置いてある工具箱を取り上げると道においてある自転車のほうに行ったので飯田かおりもそのあとをついて行った。
「簡単に治ると思うよ」
中学生の口調はやはりぶっきらぼうだった。中学生がかがんで自転車のペダルを持っているのを飯田かおりは上から見下ろしていた。中学生は工具箱からドライバーを一本取り出すとチェーンとペダルのほうについているギャーの下のほうに入れてペダルを逆回転させるとすんなりとチェーンはギャーにおさまった。
「ありがとう」
「またはずれるかも知れないだべ」
中学生はまた道具箱からスパナを取り出すと今度は自転車の後輪のほうについているチェーンの張り具合を調節するナットをいじってまたペダルを持って後輪を回転させた。
「これでいいだべ」
「ここのお茶畑も君の家でやっているの」
「そうだべ。でもこんなぐらいの茶畑では小遣いぐらいにしかならないだべ」
農家の経営と云うのは思ったよりも大変なのかもしれない。それがこの中学生の頭の上からおおいかぶさっていて頭の上から木槌でたたかれているように自分自身を縮ませているのかも知れないと飯田かおりは思った。
「ありがとう。君の名前はなんて云うの」
「いいだべ」
中学生はやはり飯田かおりを上目遣いで見るだけで何も言わない。
「わたしは弘法池に新しく建て売り住宅が出来たじゃない、あそこに住んでいるの」
「知っているだべ」
そう言った中学生の声は小さくて飯田かおりにはよく聞こえなかった。飯田かおりはまた自転車にまたがるとペダルにかけた足に力をこめた。中学生のくちびるがかすかに動いてなにかを言おうとしたが声は出てこなかった。それだけだったらその中学生のことを飯田かおりは忘れていたかも知れない。
 駅のそばにある煎餅屋の横に細い道があってそのさきがゆるい坂になっていてのぼって行けるようになっている。その坂のさきのほうが赤や桃色の色で満たされている。買い物にこの町のメインストリートのほうに来るたびに飯田かおりはその色が気になっていた。思い切って煎餅屋の横に自転車を止めてその小道を登って行こうと思った。その赤や桃色はつつじの花の群生だった。しかしそれは人工的に植えられたものだろう。そこはゆるやかな坂になっていてつつじの花の花畑になっている。しかし道がついていてさらに上のほうにあがれるようになっていたので飯田かおりはその道を上がって行った。すると高さが二メートルもありそうな大きな御影石の柱が二本立っていてその柱の並びには塀があるはずなのに塀もなく、きっとその敷地のまわりを塀で囲む計画があったのになにかの理由で立派すぎる門柱だけを作っただけで塀を作る余裕がなく、計画は途中でとん挫してしまったのだろう。その敷地の中には人もいない染め物工場らしい建物がひっそりと建っている。飯田かおりは赤ん坊の泣き声を聞いた。しかしそれは赤ん坊の泣き声ではなかった。その稼働していない工場の軒先にダンボールが置かれていてその中で子犬が泣いている。飯田かおりは興味を持ってそのそばに行った。そこに行ってダンボールの中の子犬を見下ろすと哀れっぽい表情で子犬は飯田かおりのほうを見て泣いている。飯田かおりは買い物に行ったばかりなのでその買い物かごの中にビスケットのあることを思い出した。飯田かおりがくだいたビスケットを与えると捨て犬はむさぼるようにそのビスケットを食べ始めた。その食べている姿を見ると飯田かおりはおおいに満足を感じた。飯田かおりはその子犬をしばらく見ていた。するとどこから来たのか玉子を順当に立てたような頭のはげた六十才くらいの男性がそこに立っている。
「困るんだよね。かってに捨て犬に餌をあげるようなことをすると、野良犬もここに寄って来るし、犬を捨てる人間も出てくるからね。わしはここの家主なんだけど。もしかしたらここに今犬を捨てて別れを惜しんでいるところじゃないの」
「いいえ、違います」
「本当」
もしかしたらこの家主はこの捨て犬を飯田かおりに押し付けたいのかも知れなかった。
「その犬は僕の家の犬だべ」
飯田かおりはうしろを振り返った。そこには茶畑で自転車のチェーンがはずれたときなおしてくれた中学生が立っている。
「おじさん、すいませんでした。この犬はおらが飼っていただべ。この女の人はなんの関係もないだべ。この犬を持って行くだべ」
その中学生はそう言うと捨て犬の入っているダンボール箱を両手で持ち上げた。
「そうか、犬を持って行ってくれるのか」
満面の笑みが残った。家主は面倒事が解決されればそれでいいと云う感じだった。中学生は犬を抱くとその門のところからまた歩き始めた。飯田かおりは彼のあとをついてつつじ畑をおりて行った。
 すぐに煎餅屋の横に出た。
「いいの」
飯田かおりは自転車を押しながら横にいる中学生に声をかけた。
飯田かおりは心配だった。この中学生が捨て犬を連れ出したことに、またどこかにこの犬を捨ててくるのかも知れない。かと言ってこの捨て犬を自分の家に連れて帰ることは出来ない。
「いいの」
自転車を押しながら飯田かおりは横を歩いている坊主頭の中学生にふたたび聞いた。
「いいんだべ」
飯田かおりにはなにがいいんだかわからなかった。不機嫌なのか満足しているのかわからない中学生の表情。この年頃の中学生の特徴だろうか。ふたりが蕎麦屋と居酒屋を兼ねた店の前を曲がるところに電柱が立っていてその電柱には張り紙がされている。その張り紙には「犬をさがしてくれた人には謝礼を出します」と書かれている。そしてその張り紙にはこまごまと犬の特徴やら犬がいなくなった経緯などが書かれているが要するにその犬の似顔絵が描いてあって中学生が抱いている犬の特徴をそのまま表している。駅のホームからさきに行き、線路をくぐるトンネルのところに行き、線路をくぐると盆栽を巨大にしたような民家が見えた。それは庭をいっしょにした風景のことを言っているのだが。富士山の麓に忍野八景と云う観光名所があるがその民家を小さなスペースに凝縮したような家だった。その民芸調の門の中は大きな丸い石を積み上げて階段のようになっている。その家の民芸品のような門柱のところで待っていると中学生はその犬をつれてその庭に入って行った。それから藁葺きのその家の中に入り、戻って来たときは犬を抱いていなかった。
 飯田かおりが家に戻ると弘法池に面した縁側に丸いテーブルを出して座布団を敷いて光太郎が飯田かおりの知らない若い男と面して座っている。若い男は光太郎よりも五才くらい若いようだった。かつての知り合いとの交流をあれほどいやがっていた光太郎がどうしたことだろうと飯田かおりは思った。かっての威勢の良い生活からほど遠い光太郎の現在の生活からすれば仕方がないと飯田かおりは思う。その光太郎の原則から離れていると云うのはどういうことだろうか。つまりその若い男が光太郎の得意な頃の生活を知らないためではないだろうかと飯田かおりは思った。その考えは半分は当たっていたが半分ははずれていた。丸テーブルの上には変な色をした茶碗が置かれている。そして若い男の座っている座布団の横には青銅で作られた長四角のまな板のような板が置かれていてその板の中にはサイケデリックと云う言葉がよく使われていた頃のいくつもの涙のような文様が刻まれていた。
 その男は背振栗太の同級生で飯田光太郎の後輩に当たっていた。背広をきちんと着こなしている。
「七万円」
光太郎がその壺を傾け、眺めすかししながら言った。
「五万円でどうですか」
「まあ、五万円なら夫婦で温泉が二泊だな」飯田かおりは今買って来た茶饅頭を台所に行き、皿の上に載せてふたりの座っている縁側まで運んだ。光太郎は爪楊枝みたいなもので大きく茶饅頭をふたつ割にした。
「飯田かおりさん、お邪魔しています」
突然名前を呼ばれたが飯田かおりはいやな感じがしなかった。その若い男の外見が清潔な感じがしたからだ。飯田かおりはこの男がなぜ光太郎に会いに来たのか思い出した。光太郎の幸福曲線の角度が失墜し始めてから骨董屋からも相手にされなくなっていたがたまたま光太郎はまだ手放していない骨董を持っていることを思い出した。これを売って飯田かおりとふたりで温泉旅行にでも行こうかと云う計画をたてた。いつも生活に追われそれに疲れさせられることからたまには解放されたかった。しかし今の光太郎は骨董屋の信用をすっかり喪失している。そこで後輩で歴史研究室に勤めている貝山と云う後輩にその骨董を売りつける計画をたてた。それは骨董と云うよりも学術的な価値のほうが高いものだった。「好意からただで寄贈してくれる人もたくさんいるんですよ」
「そういうわけにはいかないよ」
もちろん貝山は上田とは系統が違う。外見もきちんとしているし、変人の上田とは違う。遅かれ早かれ地位的には貝山が上田を追い越すのは明らかだった。結局、光太郎の所有している骨董は六万円で貝山が買い上げた。
「でも、三輪田さんはずいぶんと変わったところに住んでいますよね」
貝山は縁側から見える弘法池を見ながら言った。その調子はまるで銭湯につかって看板に描かれている富士山を見ているようだった。光太郎は茶饅頭をさらに半分に切ってその四分の一を自分の口の中にほうりこんだ。「最初、ここに住もうと思っていたのは背振無田夫だったんだ。きみは背振無田夫のことを知っているかい。しかし彼は死んでしまって彼の遺言で僕がここに住むことになったんだ。きみの同級生で背振栗太って知っている。背振無田夫の弟なんだけどね。彼が僕らがここに住むことに当たってすべて周旋してくれたんだよ」
「なにか、ここに住むことでいいことがあるのかな。ここから見える池は弘法池と云うんですか。と云うことは空海と関連していると云うことですか」
「そのことは僕のほうが聞きたいよ。本当に空海がここに来たのだろうか。名前は弘法池と云うことになっているけど」
「空海は僧侶と云う範疇には入らないと思います。だからなにが起こってもおかしくありませんが、空海がなにをしてきたか謎の部分が多いですから、だいたいその密教の修行を始めたと云うのも自分の記憶力を高めるためにやったという話しですからね。僧侶としての一面から高野山で東寺をたてたと云う一面のほかに僧侶でないものに縁の行者の後継者を作ろうとしていたふしもありますから。でもここにやって来たということは信じられないな」
「きみは知っているかな。うちの母校の上田先生もここに移り住んでいるんだよ。ここが学問的に非常に興味があると言って」
その情報は妻の飯田かおりから聞いたものだったが飯田かおりも彼女自身が上田に学術的に興味があると言われたことは言わなかった。上田と云う名前が出て来たので正統な学問の継承者である、貝山はとたんに口をつぐんだ。上田のような変人であり、異端の人物と関わりになることは出来るだけ避けたいと云う意識が働いていた。自分自身も異端として少数者の側にまわされてしまう。それにより経済的、社会的に不利な立場に追いやられてしまうからだ。そして上田の話題をふられた貝山の立場はなんの関係もない、しかしその話しが伝わってしまうかも知れない客に上司の悪口を聞かされている部下のようなものだった。はなはだ自分の立場をどこに持っていけばよいかむずかしい位置に置かれている。もっとも世捨て人のような光太郎の口から貝山の発言が部外者に伝わるとは信じられないが。貝山は話題を変えた。
「いま、これに夢中になっているんですよ」
自分の座布団の横に置かれた青銅でできた板を丸いテーブルの上に上げた。光太郎は少しだけむかしの学生時代を思い出した。
「これがなんなのか、今、学会で最大の謎なんですよ。これがなんに使われていたのか解決できたら学会の最大の話題になりますよ」
貝山の野心は隠されることもなかった。その青銅の板に掘られている図が問題なのだろうか、それともこの板も含めて重要なんだろうか。青銅の板に残されている不思議、それが光太郎の現実をいっときでも忘れさせる。たとえこの情熱が、貝山の情熱なのだがそれが学会での政略的なものがあったとしても、光太郎のほうにバトンタッチされたときには十分に純化されていて、さらに光太郎の学生時代のあまずっぱい感傷の味が加えられている。
「涙が何個か、掘られているみたいだね。韓国のほうの水遊びの道具でこんなものがなにかあったじゃないか。ほら上の方から水を流して花びらがどう流れていくか占うという」
光太郎はその石盤を手にとりながら門外漢の気楽さで思いついたことを言った。
光太郎は背振無田夫が生きていたらこんな問題は簡単に解けるのではないかと思った。貝山はその骨董を持って光太郎の家に六万円を置いて帰って行った。
 飯田かおりは買い物にこの町のメインストリートに来るたびに通りにくい場所がある。建物がある。いつだったか名前のわからない中学生が迷い犬を届けた盆栽のような民家のある線路の向こう側にある場所なのだが安い瀬戸物を売っている店があってそこに瀬戸物を買いに行こうとするとその前を通らなければならない。どちらもあの布袋を収集している旅籠屋とは違って駅からは少し離れた場所にある。
「濡れた夜、一夜妻」「色情狂スチュワーデス、フライト中」とか現代の錦絵が女の裸の写真とともに目に飛び込んでくる。色合いも本物とは遠く、肌色はオレンジがかっているし、ステインで塗られた木の枠の中に収まっているポスターの中の赤いくちびるは何かを言いたいようにこちらを向いている。しかし安い瀬戸物屋へ行こうとするとその看板の前を通らなければならない、そのたびに落ち着かない、そわそわとした不思議な感情におそわれる。どうやって自分の体裁を整えたらいいかと云う感情に似ている。その建物はトタン板を張り合わせて造られていて建物のはじのほうに大きなクーラーが置いてある。建物の側面には毒毒しい看板が扇情的な題をつけて掲げられている。看板の横のほうに入り口があってドアの半分が開かれ、ドアの半分が閉まっている。その横にガラスのたなの中に上映のスケジュールが張られ、その横で券を売っているのだが買う方も売る方もお互いに顔が見えないようになっていて下の方が半円が開かれていてそこで料金と券をやりとりしている。隣りにパチンコ屋があったのだかパチンコ屋はつぶれてそこだけが残った。そのチケット売り場のくすんだカーテンの裏には生気のないくすんだばあさんが座っているのだが買いに来た客はチケットを買ってその中に入らないかぎりそのばあさんの姿を見ることは出来ない。今は息子がそこを経営しているのだが電気代のかかるわりにもうけが少ないのでばあさんはこの商売にうんざりしている。もちろんここはピンク映画館である。飯田かおりはその横を通り過ぎるたびにその看板の色彩のけばけばしさと書いてある題名のあざとさに辟易していた。もちろん飯田かおりはそのなかに入ったことがなかったからその中がどうなっているのかわからない。もぎりを買って入るとすぐわかるのだが中は白々とした蛍光灯が天井から吊されている。外側は厚いトタン屋根が張られているだけなのでその中の太い木材が作る骨組みが構造的に重要なのだがどっかの廃材をもとに作ったらしいのでその材木は黒く汚れている。映画館特有の作りとしてその両側の通路は緩やかな坂になっていてどこからでも座席のある空間に入ることが出来るようになっている。しかしここは小さい映画館だったから真ん中と出口に近いところしか出入り口はない。しかし意外なことはその便所が思ったよりきれいだと云うことだ。その設備がきれいだと云うことではない。きれいに清掃されていると云うことだ。水色のタイルが便所の下一面にはられ、上の壁土はクリーム色をしている。小をたすほうの便器は今はあまり見ない石をけずったものでいっせいにならんで出来るもの、隣りの人間との境はない、大のほうは鎖がついていて鎖を引っ張ると上にたまっているタンクから便器に水が一斉に流れていく。座ると目の前に便所をきれいに使うために半歩前に出ようと云う張り紙が張られている。こういったことは少しパチンコ屋に似ているがこのピンク映画の館主のモットーではなく、便所のきれいなところは多いようだ。飯田かおりはもちろんそこに入ったことがないからそこの便所がどうなっているかと云うことはわからない。またそこの客席と云うのもだいたいが都電の座席のようにエンジ色をしたモールで出来ていてその金具は鋳物で出来ている。客が必要以上に身体をそらせるからばねが壊れている。来ている客も暇な学生、暇な老人、暇な商店主、暇なセールスマン、もちろんポッブコーンや南京豆もあるがもぎりのばあさんやおじさんに直接買うのだ。これは銭湯で番台に座っているおばさんから貝印のひげそりや五ミリリットル入りのビニール袋入りのシャンプーを買うのに似ている。そして上映が始まると近所の喫茶店の広告が入ってそのあと無くなった有楽町の日劇が出てくる時事ニュースが始まったりする。その有楽町と云う地名も織田信長の弟の織田有楽斎がここに住んだことがあるからだと云うことは飯田かおりも知らなかった。本編のほうはどういうものかと云うと、光太郎はここに来てから一度だけ見に行ったことがあるのだがスペインで作られた映画だった。なぜか人類がほとんど死滅していて海岸にはだかの男ふたりと女がひとりいる。海岸にはなにかの測候所のようなものが残っている。このままでは人類が完全に死滅してしまい人類存亡の危機だと思った三人はその測候所でセックスをすることにする。その測候所は下は車の車庫のようになっていてはしごで上のほうに登っていけるようになっていたので、もしかしたらそこは消防署だったのかも知れない。三人の男女はそこに登って行き、人類存続のために観測機械の中でセックスをしようとする。子孫を生産しなければならないと云う崇高な使命に燃えながら。しかし哺乳類最後の生き残りは彼らだけではなかった。突然、雌犬に飢えた雄犬がそこにやって来て人間たちのセックスを妨害してその女を狙うのだ。その犬と云うのも大きくて人間がかなわないような犬だった。その犬と人間との追いかけごっこ、つまり人間たちがセックスをしようとすると犬が妨害に入る。光太郎はそれを見ながら自分が他の惑星に降り立ったような気がしたのだが、飯田かおりはもちろんそんなことを知らない。
 飯田かおりはそのピンク映画館の入り口を見たいような不愉快なような複雑な感情を持って通り過ぎようとした。すると入り口のところでもぎりのばあさんに絞られている中学生がいる。よく見ると飯田かおりを助けてくれた中学生だった。
 親につれられておめかしをして写真館につれられて来たあやつり人形のような雰囲気に変わりはない。それが醤油で煮染めたようなばあさんの前でしぼられて小さくなっている。中学生も小さいほうだがばあさんも小さいので釣り合いはとれていた。ばあさんの声から発せられるガミガミと云う声が見えるようだった。ふだんは解けかかったアイスクリームのようにもぎりの受付のところであくびをかみ殺して座っているばあさんだったがこの日は元気が良かった。万引きをつかまえたときの駄菓子屋のばあさんに似ている。近所の子供が三輪車を運転しながらふたりのそばを通ってその顔を見あげた。中学生はやはり顔をうつむいている。
「まったく、中学一年生のくせになんだろうね。このガキは。中学生のくせに見られるわけがないだろう。高校生ならまだ話がわかるけど。親を呼び出すよ」
「・・・・・・・・・」
「だいたい、ただでここに入ろうと云うのがあつかましいんだよ。担任の先生の名前はなんと云うんだい。これは先生にうんと叱ってもらわなければならないよ。まったく、もう、なんか、お言いよ。この快楽亭ブラックのあやつり人形めが。親が見に映画館のなかにいるから入らせてくれって、あつかましいんだよ」
「・・・・・・・・」
「もう、なんか、言うんだよ。どこの子なんだい。言わないと警察に言うよ。このできそこないのマルコメ坊主が」
ばあさんの罵倒はとどまるところを知らなかった。その言葉に中学生が反論することもない。どうやら知り合いが中にいるからこのピンク映画館の中に入れてくれと中学生はばあさんを騙そうとしたらしい。
 映画館の入り口の向こうには碧める柳の並木が続き、その向こうには廃材となった木製の枕木を並べて作った線路の柵が続き、柵の裏側には小豆色をした列車が停まっている。入り口は夜になるとつける赤、青、黄色と三色の電球がレースの縁飾りのように飾り付けられているがまだ昼間なので点灯はしていなかった。この春の日ののどかな風物の中にばあさんと中学生が中心にいる。
 いざ鎌倉。こんな文句を飯田かおりはどこかで覚えていたが、ここで使わなくてはどこで使えるか。
 「この子は知り合いなんですが。この子の知り合いがこの映画館の中にいるんです。本当なんです。それで用があって中に入りたいんです。この子とわたしのふたり分の料金を払いますから中に入れてくれませんか」
「鑑賞券さえ買ってもらえればなんの異存もないさ」
ばあさんのガードは意外に簡単だった。金を払って飯田かおりと中学生はそのピンク映画館の中に入ることにした。入り口のドアの裏側に、壊れかけた傘立てが置いてあって客が忘れていったのか安物の傘が五、六本立てかけてあった。入ってすぐのところの通路の壁に花畑で女の子が花をつんでいる、そのうしろに顔を縫い合わせた人造人間が立っている映画のポスターが張られている。ピンク映画館でなぜこんなポスターが貼られているのか飯田かおりにはわからなかったが一般の映画も上映されることがあるらしい。そのポスターの下のほうには人造人間フランケンシュタインと書かれている。飯田かおりはそのポスターをちらりと見ただけだった。自分でもなんでこんな行動をとったのか、飯田かおりはよくわからなかった。飯田かおりが中に入って行くと中学生はうれしいのか悲しいのかわからないがとにかく中について来た。映画のほうは上映中で中は暗い。暗い中でぼんやりと見えるがぽつぽつと観客はいる。だいたいが座席の背もたれの上のところに頭がある。みんなが足をさきのほうにのばして寝ている姿勢をとっていることの証拠だった。飯田かおりと中学生は並んであいている座席に腰をおろした。ようよう暗闇に目が慣れてくると座席のほうもなんとか見えてくる。近所の年寄りが座っている。授業をさぼった学生らしいのが座っている。前のほうではまだ十代らしい若者で恋人らしいのが座っていることに飯田かおりは驚いた。
 スクリーンのもとを霧のかたまりのような光のつぶの三角の頂点のほうに戻ると映写室があって映写機から光りのつぶが客席のほうに放射されている。映写室のなかでは人影がちらちらとしていてそれが映写機を操作している技師だろう。光のつぶの量が増えたり減ったりして画面が明るくなったり、暗くなったりして客席も明るくなったり、暗くなったりする。飯田かおりはスクリーンの横にぼんやりと見える旅館の看板に興味があった。雪見灯籠と旅館の建物が描かれている。それは千亀亭かも知れない。自分の家の台所から見えるその姿をなんとなく彷彿とさせる。映画館の両脇におかれたスピーカーからは俳優の声が少し割れて聞こえる。スクリーンの中には突如として海に面している見たことのないような建物が出てきた。海が見えたのはスクリーンの両脇にその建物が建っていて真ん中が抜けていて海に面していたからである。その建物はアールヌーボー調というのだろうか。それが実際の建物ではないことは平面的な感じとなんとなく線がぼやけていることから飯田かおりにもわかった。実はそれは特殊効果のための絵でもなんでもなくて実際の絵で画面が変わって高校生がその絵を描いている場面だった。横にいる中学生を見ると食い入るようにしてスクリーンに見入っている。
 飯田かおりはなんでこの中学生がこんなものを見たがるのか理解できない。スクリーンの中ではなまこがからみあっている。たしかにその年の頃、飯田かおりにも性欲があった。しかし少し違っていたような気もする。そこで飯田かおりはある考えが浮かんだ。きっとこの中学生は初恋をしているのだ。そのやり場のない思いがこの中学生を動かしてこんな行動を起こしているのではないかと思った。きっとこの中学生は同じクラスの女の子、そうでなかったら違うクラスかも知れないが好きな女の子がいるんだ。だからその思いがこんな行動をとらせているんだ。そう思うと女の裸にこれほど執着しているこの中学生のすがたが微笑ましくもあった。二本立てのその映画を見終わって飯田かおりはその映画館を出た。外はまだ太陽が頭上にきらきらと輝いていて、飯田かおりにめまいを起こさせるような光線をあびせた。飯田かおりは自分の中の平衡感覚が麻痺させられたような気がした。
 映画館のあるほうの道は線路に平行に小川が流れている。小川の土手には柳並木が続き、川から吹く風が心地よい。飯田かおりはこの中学生と並びながら春の土手を歩いた。穏やかになった日の光が飯田かおりの豊かな顔や体を照らし出す。飯田かおりの肉体を語るとき豊かと云う表現がぴったりだった。太っていると云うのとも違う、古代の女神はきっとこんな外観をして地上に現れたに違いない。
その肉体を横に見ながら中学生は生まれたての赤ん坊の視力について学校で習ったことを思い出した。生まれたばかりの赤ん坊は視力と云ってももののかたちを判別する力はなく、明るいか暗いかの光量をはかる力しかない。中学生も自分がそんな赤ん坊のようだと思った。飯田かおりと云う光のかたまりしかないような気がするのだ。いま模写しているルノアールの裸婦像も似ていると思った。学校の美術の時間に習ったことだが、晩年にはルノアールは視力が衰えていて女の身体を光りのかたまりととらえていたのかもしれない。もしかしたら自分は中学生ではあるが飯田かおりを前にして同じ感覚を味わっているとするならルノアールの孫の孫の孫弟子ぐらいかもしれないと思った。その光のかたまりはなにも言わずに前を歩いていく。中学生は半歩遅れて飯田かおりについて来る。
「クラスに好きな女の子がいるの」
中学生はなにも言わなかった。