ぶんぶく狸  002 | 芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能人の追いかけを、やったりして、芸能人のことをちょっとだけ知っています、ちょっとだけ熱烈なファンです。あまり、深刻な話はありません。

ぶんぶく狸 第二回
それで老人は家の売買においてその地主が不当な利益をあげていることを知ってあらためてその地主が悪者だと云うことを確認して自分の心の落ち着くさきを見付けようとしているのだろうか。
「あいつにわしは騙されたのですじゃ」
「騙されたとはどういうふうにして」
光太郎は目の前に置かれていた小豆アイスを食べ終わっていた。
「あいつに変な女を紹介されたのだ」
そんな言葉の二、三の断片を言われても光太郎にも飯田かおりにも理解出来なかった。
「あいつはいたち柱が欲しいのじゃ」
「いたち柱」
老人の話はますます飛躍した。そして光太郎にはますます理解できなかった。
「わしの家の何代も前の言い伝えじゃ。そもそもあの料理屋が生まれるきっかけは徳川家光公が東北を歴訪するさい、江戸から出て最初の宿としてこの地を選んだことに始まるのじゃ。家光公つまり徳川幕府の怒りを買わないため、地元の殿様は素晴らしい料理屋を建てなければならなかった。そこでこの地の当主はここにいる名人と呼ばれる大工を集めてあの料理屋を建てたのじゃ。しかし最初の設計のときと違ってあの料理屋の柱は一本だけ多かったのじゃ。しかしどの柱が余計な柱なのか大工たちはいくら頭をひねっても分からなかった。そのうちわしの祖先がそこに住み込み料理屋を始めた。しかし毎晩用意した料理の一人分がなくなった。奉公人を調べてもその料理を食べたと云う人間はいなかった。しかし毎晩必ず一人分の料理がなくなるのじゃ。しかしある日こんなことが起こったのじゃ。あの料理屋の中の若夫婦の部屋に生まれたばかりの赤ん坊をひとりで寝かせていたとき、その部屋に火事が起きたのじゃ。赤ん坊が火事で焼き殺されると誰もが思った。みんな絶望した気持でその火事の炎を見ていたのじゃ。すると火事の炎の中からなにかが急に飛び出した。それは赤ん坊をくわえたいたちだった。いたちは赤ん坊を外に置くとまた料理屋の中に飛び込んで行った。外に置かれた赤ん坊は泣き叫んでいたが母親がその赤ん坊を抱き上げた。そこにいたみんなはいたちが火事の炎の中で死んでしまったと思ったのじゃ。しかし夜の空の雲行きはおかしくなった。そして急に滝のような雨が降り始めて料理屋の火事は消えてしまったのだ。それから誰言うこともなく、千亀亭の柱の一本はいたちが姿を変えていると言われるようになった。しかしその何代かあとその言い伝えを知らない嫁が千亀亭に嫁いで来たのじゃ。ある日裏庭でいたちが店の料理をあさるように食っているのを見かけたのじゃ。嫁は怒って犬をつれて来て何日も待ち伏せしていた。そしていたちが店の中の料理を持って来て食っている。嫁は犬を放した。いたちは首のあたりから血を流しながら千亀亭の中に逃げ込んでいった。すると千亀亭の柱のすべてに赤い血のようなしみが出来たのじゃ。それから千亀亭で飯を食った客が食中毒になったり、いろいろな祟りが続いた。それで真言密教をよくする坊主をつれて来て祈祷して柱のしみがなくなると同時に千亀亭にもわざわいがなくなった。それから代々、千亀亭の主人は犬年生まれの女とは交わってはいけないと云う家訓が出来たのじゃ。しかしあいつがわしに犬年生まれの女を紹介したのじゃ」
老人はその話しを何度もしているらしく話によどみはなかった。
 光太郎はふたつ並べた寝床の中でうつぶせになりながら枕元にあるスタンドの明かりで本を読んでいた。隣りの寝床で上を向きながら目をつぶっていた飯田かおりが枕の上に乗っている頭を光太郎の方に向けた。
「まだ、寝ないんですか」
「うん」
「何を調べているの」
「本当に弘法大師が千葉のこんな田舎にやって来たかとうかと云うことを調べているんだ」
「昼間のおじいさんの話を気にしているんですか」
「気にするって、どこを」
「この家を売った地主が因業だと云うこと」
「そんなことではないよ」
「じゃあ」
そう言ったまま、飯田かおりは形の良い鼻を向こうに向けてしまった。
若い頃から光太郎は迷信や伝説と云うものを信じなかった。わからないことがあると何かに落ち着いて取り組むと云うことが出来なかった。すべてのことは割り切っていなければ我慢が出来なかったのである。もちろんそんな若い頃でも自分の思考の限界と云うものはもちろん認めていた。しかし思考の限界内で起こる割り切れないものは認めたことがなかった。そしてその一見不思議なことが起こる現象を筋道をたてて説明しなければいられなかった。しかし最近はそんなせっかちな光太郎の性情はすっかりと影を潜めていたのである。それがなにを意味しているのか光太郎にはさっぱりとわからなかった。調べなければならないことが、わからないことが多すぎるのか、そういった意欲が摩耗してしまったのか、ずっと昔に存在した弘法大師が現在の光太郎の生活にどういうように作用していると云うのだろうか。光太郎はスタンドに照らされている一般向けの歴史解説書を開いてみた。弘法大師のページを見ると次のページにわたっているようなので次のページをめくってみると、もうそこには別の人物のことが書かれている。そこで光太郎はまたページをもとに戻した。
 弘法大師、空海、平安時代の人。讃岐多度郡生まれ。延暦二十三年、最澄とともに入唐、恵果につき密教の奥義を究める。帰国後、真言宗を開き、高野山に金剛峰寺を創立する。のち京都の東寺を密教の根本道場とし、東大寺別当を兼ね、書においては三筆の一人である。
と、とおりいっぺんのことが書かれている。そして解説文の下の方にはたこ入道のような空海の一筆書きのような肖像画が載っている。光太郎はその絵を見て何故だかある相撲取りを思い出した。書かれていることはきわめて簡単だった。たんに一般的なよく知られているすべての歴史上の人物を網羅して書かれている本であるから当然のことと云えば云えた。手元の電気スタンドに照らされたそのページから目を離して妻の飯田かおりの方を見るとふとんを被って向こうを向いている。光太郎には自分が空海のことを調べていることが妻の飯田かおりを傷つけていると云うことがわかった。昼間の小豆アイスをふたりで食べているとき千亀亭のもとの主人が自分たちのテーブルに寄って来ていたち柱などと云うわけのわからない話しをしたとき、その話しの内容のあるくだりに光太郎が興味を持ったと云うことが妻の飯田かおりを傷つける原因になっていると云うことはわかっていた。しかし光太郎は空海が本当に弘法池に来たかどうと云うことを知りたかった。もっとも空海のことを専門に調べている歴史書でもないかぎりそのことは肯定も否定も立証することは出来ないだろう。
 妻の飯田かおりは美人ではなかったが、どことなく男を引きつけて放さない何かを持っていた。そのために飯田光太郎は飯田かおりと結婚したのである。それは神秘的な言葉を使わなければ性的魅力と云ってもいいだろう。いろいろな理由から相手を求める理由があるだろうが、まず性的なものに重点を置くものもいるだろう。そして生活のための同伴者としての資質を重視するものもいる。それにはお互いに信頼しあえるか、価値観が同じと云うことが第一に来る。そこからさらに発展して自分の妻を宗教的に崇拝するものもいる。その宗教的な崇拝のうちにも二種類ある。全くの現世的な利益を求めず、自分の妻をただ崇拝して奉仕する対象だと思い続け、そのように行動するもの。つまり信心の対象だと考えるのである。そしてもう一つが宗教的な崇拝の対象であるが、その妻が自分にどういう現世的な利益を与えてくれるかと云うことをいつも考えているものもいる。つまり世に言う、あげまん、さげまんと妻の分類を行うものである。
 精神年齢による成熟度と云う観点からは性的な魅力によって相手を選んでいると云うのはもっとも若者らしく、本能に近いとも云える。光太郎はある時期ある場所でこれに束縛されて飯田かおりを獲得したのだった。しかし、宗教的理由と現世的利益を自分の中で折り合いをつけている輩からすれば、妻の飯田かおりはさげまんと云えた。飯田かおりと結婚してからの光太郎の生活はあきらかに下降線を辿っていたのである。そのことは妻の飯田かおりも知っていた。だから昼間のいたち柱の伝説の妻をめとらばと云うところに光太郎はひっかかっていると云うことを妻の飯田かおりもわかっていたので向こうを向いてふとんを被ってしまつたのだ。飯田かおりの目は涙でうるんでいたのかも知れない。しかし飯田かおりも知らない体験を光太郎はしていたのだ。そのために世捨て人のように飯田かおりを自分のすべての世界として弘法池のほとりに住んでいなければならなかったのだ。
 自分のとなりに寝ている妻の飯田かおりの丸い姿を見ると、その性的な魅力と自分の運を食いつぶしているのではないかと云う複雑な感情が光太郎の心のある部分をしめた。
「あなた、わたしのことを疫病神だと思っているでしょう」
ふとんに丸まって向こうを向いたまま妻の飯田かおりはつぶやいた。
「そんなことは思っていない」
「だったら、なんで弘法大師のことなんか調べていらっしゃるの」
「昼間、変なじいさんがいたち柱なんて云う変な柱があると云ったからだよ」
「なんで、いたち柱に興味を持ったんですの。千亀亭の変な家訓に興味を持ったからでしょう。千亀亭の人間は特定の年回りの女と結婚すると不幸になると云う」
「そんなことはないよ」
「うそよ」
光太郎はなんと言ったらいいかわからなかった。光太郎は自分の右手に川端童心舎で買ったおもちゃがあることを思い出した。そして右手の方に手を伸ばした。そこには万年たますだれにラッパと管のついたようなおもちゃが置かれていた。ラッパはたますだれの両端についている。光太郎はたますだれの片方の端を持ってすだれの二つの棒を縮めるとたますだれは伸びて云って、飯田かおりのふとんの中にすべり込んだ。これは幼稚園児の使う糸電話の一種でふたつの糸電話の距離をどういうふうにも変えられるおもちゃだった。ラッパの片方は飯田かおりの頭のそばに辿り着いた。
「もしもし、飯田かおりさんですか」
「・・・・・・・」
「今晩は素晴らしいことがありますよ」
「・・・・・・・・・」
「ラジオを聞いていたら、知ったことなんですが、ロシアが飛ばした人工衛星があと十五分でこの家の頭上を通過します」
「それ、本当」
飯田かおりは枕の上に載せた頭をこちらに向けた。飯田かおりの睫毛のあたりはやはり濡れているようだった。
「本当だよ」
光太郎の家のはるか上空をロシアが飛ばした気象衛星が一周り半、地球の上を回転してだいたい光太郎の家の真上を十五分後に通過すると云うことは事実だった。
「なんでそんなものがわたしの家の上空を飛ぶんですか」
「気象衛星だよ。気象観測をするんだよ」
「でもなぜ」
「大きな国は農業なんかでつねに自分の国の気象条件を正確に把握しておかなければならないんだ。それでその情報をもとに計画的に農作物なんかを作らなければならないんだ。ちょうど昨日の夜明け方にロシアがロケットを飛ばして衛星を打ち上げたんだ」
「あと十五分ぐらいでわたしたちの家の頭上に来るんですか」
この平屋建ての家のはるか上空、宇宙空間の中に人工衛星が飛んでいると云うことは飯田かおりにとっても不思議な気分がしたのかも知れない。飯田かおりの頭の中には自分の家の屋根と人工衛星の奇妙な形が同時に存在しているらしかった。
「だから」
「だから、なんですか」
「飯田かおりが変なことにこだわって変な顔をしていたら人工衛星から見たら、人工衛星が変な気持ちになるよ」
「へえ、人工衛星がわたしの家の上を通るんだ。こう話している間にも時間が経っていくから、あと十分くらいで真上に来るかな」
「来るさ。明日は休みだから気持ち好い気分で寝ようね。飯田かおり」
「うん」
 次の日は光太郎の休みの日だった。廊下を突き当たったところにある洗面所に立って隅のところの水銀が少しはげている鏡に自分の顔を映してみるとすっきりした顔をしている。昨晩はぐっすりと寝られたようだった。白い陶器の洗面台の左隅にふせられているガラスのコップをとって水を注ぐとコップの中には透明な水と空気の粟粒が入っていった。そこに少し毛先のなまったはぶらしをつけてそのさきに歯磨き粉をつけた。それを口の中に入れる。歯ブラシを歯につけて動かすと歯のぬめりがとれた。縁側の向こうにいつも見える大きく滑らかな稜線を見せている山、筑波山が見える。遠くから朝刊を配達する五十シーシーのオートバイの音が聞こえる。家の前の舗装されていない道を走ってくるようだった。玄関の引き戸をがらがらと開ける音がして新聞が玄関に投げ込まれた音が聞こえた。
 歯を磨いて冷たい水に顔をさらしてタオルで顔をふくと飯田かおりが卓を出している六畳の部屋から呼ぶ声が聞こえた。その部屋は台所につながっていて台所で作った料理を卓の上に運ぶようになっていた。卓の上には御飯とみそ汁が載っていてた。醤油の瓶と海苔、小皿も用意されていた。光太郎が卓の前に座ると飯田かおりは玄関に投げ込まれた朝刊を取りに行っていた。
「見て、見て」
飯田かおりが女子学生のような声をあげながら新聞を持って廊下を小走りに走って来る。
「飯田かおり、どうしたの」
「光太郎さん、見てよ」
そう言って飯田かおりは光太郎にこの千葉県の特定の地域にしか出されていない新聞を箸を持っている光太郎に渡して自分は光太郎の横に平行に座ってその新聞の内容をのぞき見ている。
「見て、見て」
そう言って飯田かおりは新聞を開いてその地方版のその地方のことだけを取り扱っている部分を指さした。その記事の見出しは驚くべきものだった。
 れんげ平にユーフォー飛着か。
昨晩の十一時半にロシアの飛ばした気象衛星がこの町の頭上を通過したが、と同時に思いがけない訪問者がこの町にやって来た模様である。それがロシアの飛ばした人工衛星となんらかの関係があるのかどうかはわからない。しかし複数の目撃者の証言によると同時刻にこの町の南西に位置しているれんげ平に同時刻、光る飛行物体が飛来して来て着陸、およそ十分後にまた空中に上昇して北東の方向に飛び去った複数の付近の住民が証言している。これが未確認飛行物体か。
「ほら、すごいじゃない。私たちが糸電話で話しているとき、ユーフォーがこの町に飛んで来ているのよ」
「本当かな」
「でも新聞にはそう書いてあるじゃない」
光太郎はその新聞の日付を確認した。しかし四月一日にはなっていなかった。そして妻の飯田かおりがこんな記事でなぜ喜んでいるのかも理解出来なかった。時代を飛び越えるような画期的な新たな推進装置や空中浮遊機構が開発されたとしても光太郎の生活には直接にはなんの影響ももたらさない気がしたからだ。それよりもそんなことで喜んでいる妻の顔を見ているほうがおもしろかった。
その記事を読んでいる光太郎の横で飯田かおりは言った。
「ねえ、光太郎さん、今日はれんげ平に行ったらよろしいんじゃないでしょうか」
妻の口調は学校を卒業していない女子学生のようだった。光太郎はしばらく考えながらそうするかと言った。少しその記事に興味もあったからである。光太郎はここに引っ越して来てから休みになるとこの町のいろいろな場所を歩くことを趣味にしている。別にとりたてて奇岩絶景があると云う景色ではなかったが、まだここに越して来てからそれほどの年月も経っていなかったので休みのごとに訪れる景色は新鮮に映った。特別とりたててどういうこともない景色なのだが、さいふの底の薄い身にはちょうど好い道楽だったのかも知れない。もし光太郎にもっと経済的余裕があったのなら、この片田舎から銀座にでも乗り出して一貫何千円もする寿司を食ったり、大きなクルーザーを買って千葉の海を釣りをするために乗り出したかも知れない。しかしそう考えたときにある悲しみとも不安とも知れない感情がわき起こってくるのだった。それは現実問題としてさいふの中に金がないと云う不安や悲しみとも違っているような気もするのだった。そういった感情が子供のときから光太郎にあったとは考えられない。子供のときはいつも新しい太陽が朝になれば上がってくるし、どこへ行ってもふかふかの御飯が盛られたお膳はついてまわってくると思っていた。そして今となって太陽は上がって来ることを確認したし、お膳を探し出すやりくりはなんとかたっている。しかし、しかしである。その太陽はあの鮮やかな色を失っていたし、ふかふかの御飯に味や香りを意識せずに口から胃の中に飲み込むがむしゃらな食欲もなくなっていたのだ。もしかしたら歴史を変えるような大きな事件に係わっていたり、人間の生活を少しでも変えるような発見をすればこの気持ちは変わっているかも知れない。しかしそんなことの出来るのも遠い昔のことのような気がするのだ。さいふの底が薄いと云うこと、それは一方にはすべての空虚さにもつながっている。有ってもいい場所に何もないと云う感覚だった。そしてもう一つが自分の周囲をある障壁が囲んでいてそこから飛び出すことが出来ないと云う圧迫感だった。それから逃れるためにこうやって限られた金の中で近所を散歩したり、妻の飯田かおりの笑顔の中になぐさみを求めたりしているのかも知れない。しかしこの自虐的な心情の中にねぐらを見付けている光太郎の内面を飯田かおりはどこまで理解しているのだろうか。しかも飯田かおりの知らない自分の過去もある。
玄関を出て散歩に行こうとしている光太郎を飯田かおりは追って来た。飯田かおりはこの遠足で光太郎の昼飯に塩と胡麻だけの簡単なむすび飯を握って横にたくわんを三切れほど添えたものを竹のこおりの弁当入れに入れて光太郎に持たせた。
「行ってらっしゃい」
「行って来るよ」
光太郎が玄関の引き戸を開けると向こうの方からきゃはきゃはと笑う笑い声が聞こえる。揃いの帽子を被った六才と十歳の姉妹らしい女の子が向こうから歩いて来てぺこりと頭を下げた。ふたりとも可愛らしい女の子だったが森の中に住む下品な妖精のような感じがした。自分の座っている前に果物や木の実をたくさん置いてあぐらを組みながらむさぼり食っているイメージである。光太郎も思わず頭をぺこりと下げた。そのふたりが通り過ぎてから光太郎は飯田かおりの方を振り返って聞いた。
「飯田かおり、あの僕らにぺこりと挨拶をしたのは誰なんだい」
「あら、光太郎さん、知らなかったの。あれがわたしたちにこの家を売ってくれた地主の下平さんのふたりの娘さんじゃないの」
下平と云うのは光太郎の住んでいる家を建て、千亀亭と弘法池を買いとり、千亀亭をだまし取ったともとの千亀亭の主人が酔っぱらいながら話したその人物である。光太郎が道に出て振り返るとそのふたりの娘はすたすたと向こうの方に行ってしまっていた。
 れんげ平はこの町の南西にあった。その名前のとおり春になるとそこにはれんげの花が咲き誇った。しかしただのれんげ畑ではなかった。どういう自然現象かわからなかったがれんげの花のあいだあいだに地中から飛び出した一メートルほどの高さの蟻塚のようなものが数え切れないほど立っており、それは石灰質で出来ていてその蟻塚それぞれに野球のボールほどの穴がたくさん開いていてそれが地下に続いているのだった。
 光太郎の家からそのれんげ平までは歩いて一時間ほどかかった。春の光と田舎のにおいにつつまれて光太郎は歩いた。その道の途中には壊れて動かなくなった大八車がうち捨てられていた。
 光太郎がそのれんげ平に着くと十時になっていた。青空にはひばりが弧を描いている。その弧がもっと大きくて後ろから飛行機雲が流れていたら光太郎はそれをジェット機だと思ったかも知れない。れんげの花のあいだから子供たちの歓声が聞こえ、色とりどりの運動会で使うような帽子がれんげの花のあいだに見え隠れした。ゴムボウルを投げている子供、鬼ごっこをしている子供といろいろだった。光太郎はその蟻塚のひとつの根本のところに腰をおろして一時間歩いて来た休息をとっていた。すると笛をピーと吹く音が聞こえて
「みなさん集まって下さい」
と子供たちの中で一人だけ背の高い大人が声を発した。来ているのは小学校の低学年の子供たちだったからその大人は子供たちを引率してきた先生だったに違いない。その声に散らばっていた子供たちはひとつの場所に集まって来た。たくさんの子供たちみんなに聞こえるようにつづみのようなかたちをしたメガホンでその教師は話していたから聞く気もなかった光太郎の耳にもその声は聞こえた。
「みなさん、今日の遠足はなぜここに来たかわかりますか」
すると元気のよい生徒が手を挙げて答えた。「はい、先生。ここに昨日、ユーフォーが降り立ったとお父ちゃんが言っていました。そのユーフォーを捜すためです」
「ユーフォーがここに降り立ったと云う記事は先生も知っています。雨田くんはそれをお父さんから聞きましたか。でもそのために来たのではありません」
「先生、ではなんでここに遠足に来たんですか」
雨田と呼ばれる生徒の横に座っていた生徒が問いかけた。
「みなさんがこの町の歴史を勉強するためです」
「先生、じゃあ、ここがこの町の歴史に重要な場所だと言うんですか」
このクラスの学級委員が尋ねた。
「うちの父ちゃんは役場の許可を貰っているからあと一週間もするとここに牛を連れて入って来るんだよ。れんげ草は花が落ちると牛のよい餌になるんだ」
ここのそばで牛を飼っているうちの子供が答えた。
「ここに来るのはユーフォーを捜すためでも牛の餌を集めるためでもありませんよ。この町の歴史を勉強するためです」
と言って教師はれんげの花のあいだに立っている無数の蟻塚を眺めた。
「この蟻塚がどんなものだかわかりますか」
すると子供達は一斉に声を揃えて答えた。
「わかりません」
「これは蟻塚に見えますが蟻が建てたものではありません」
その話しを聞いていた光太郎はでは誰が建てたんだと心の中でつぶやいた。
「実はこの蟻塚のように見えるものはもぐらが建てたんです。この地中にはもぐら神と云うものがいてもぐら神がもぐらに命令して建てさせたのです。この町がまだ宿場町だった頃に悪い代官がやって来ました。代官と云うものがなんだかみなさんにはわからないかも知れません。徳川幕府の下で許可されて大名と云うさむらいがそれぞれの地方を政治的、経済的に治めていました。大名からさらに命令されて大名の部下の代官と云うものが税金を取り立てたり、いろいろなその地方の政治行政司法の実務を取り扱っていました。だから公正な人間がその役をやればいいのですが悪代官がこの町にやって来ました。まだその頃はこの町のほとんど多くの住民は田圃や畑を耕したり、牛や馬を飼って生活していたのです。みんなは年貢と呼ばれる税金を払っていました。しかし、悪代官は私服を肥やすために不当に多くの税金を取りました。そこでお百姓さんたちはもぐら神に頼みました。するともぐら神はこのれんげ平にもぐらたちに命令してこの蟻塚のようなものを建てさせました。そして住民たちを集めてゴムボールより小さくしてしまったのです。そしてこの蟻塚のそれぞれは地下のもぐら王国につながっていたのです。そこでこの町の住民は一斉に地下の中に潜ってしまったのです。悪代官は税金が取れなくなって大名に切腹を命じられて死んでしまったのです。だからこの蟻塚のいくつもある穴のどれかは地下のもぐら王国に繋がっているんです」
その話しを聞きながら光太郎は苦笑いをした。それでも幼い小学生たちは教師の話を本当だと思って聞いている。光太郎が苦笑いをしたわけと云うのが彼が同じ年頃の頃、親戚の大人からある木の枝を折って机の引きだしの中に入れて置き、一週間そのままにしておくとチョコレートに変わると言われたのを本気にしていてそのとおりにしていたことがあったからだ。もちろんそれが作り話だと云うことはあきらかでその木の枝はチョコレートには変わらなかった。それでもやはり小学生たちは教師の話を信じているようにじっと教師の顔を瞳を大きくして見つめている。
「これからお昼の時間です。みんなお弁当を持って来ましたね。十二時半までお弁当の時間です。お弁当を食べ終わったら自由時間です。三時まで自由時間ですからみんな自由にここで遊んでください」
そう言われて小学生たちは自分のリュクが置かれている場所までちりぢりに離れて行った。光太郎も飯田かおりから持たされた竹の行李のにぎりめしがあることを思い出してそれを取り出してぱくついていた。そのうち光太郎は春の日差しがぽかぽかと暖かく居眠りを始めた。この小学生の集団は光太郎がそこにいることもまったく問題にしていないように光太郎の前や後ろを走り抜けながら遊んでいる。
 光太郎が春の日差しの中で居眠りをしていたあいだに数時間が経ったらしかった。目が覚めると小学生たちがやたら騒いでいる。
「孝典ちゃん」
「孝典くん」
つれの教師も大きな声を立てて受け持ちの生徒の名前を呼んでいる。どうやら引率してきた生徒の一人が行方不明になってしまったようだった。れんげの花のあいだを生徒や教師が動き回っている。光太郎もこの事態に少し心配になった。このれんげ平のそばには小さな山があって切り立った崖のようなものがあったのである。光太郎はその教師のそばに行った。
「どうかしたのですか」
「受け持ちの生徒のひとりが見つからないのです」
「わたしも捜しましょう」
「お願いします。孝典くんと言う名前なんです」
光太郎が「孝典くん」と叫んで走りだそうとした矢先だった。
「先生、先生、孝典くんが見つかりました」生徒たちが三、四人、教師のところに走り寄って来て口々に叫んだ。
「こっちだよ。こっちだよ」
生徒たちが教師の手を引く。教師は生徒たちに先導されて走り出した。光太郎もそのあとをついて行くことにした。不吉なことだったが光太郎の頭の中には子供の死体の映像が浮かんだ。光太郎の想像ではこの近所にある崖から転落して子供は死んでいるはずだった。しかし事実は違った。小学生たちが囲んでいる場所はやはりれんげ平の中だった。無数にある蟻塚のひとつのまわりを小学生たちが取り囲んでいる。教師や光太郎たちがその場所に行くと蟻塚の根もとでひとりの小学生が眠り込んでいる。教師はその小学生のそばにかがみ込むと声をかけた。ここでも光太郎はこの小学生が不慮の事故で死んでいるのではないかと思った。
「孝典くん」
少し間をおいて教師は小学生に話しかけた。「孝典くん」
すると小学生は目を開けた。
「先生、ここに座っていたら、穴の中から暖かい風が吹いて来て、白いひげだらけのこびとのおじいさんが出て来て手招きをするんです。それから眠たくなって寝てしまったんです」
するとそこにいた小学生たちはもちろん教師もその小学生を囲んで一斉に手を叩いた。
「おめでとう、孝典くん、君が会ったのはもぐら神です。ここはもぐら王国の入り口です」
光太郎はばかばかしくなった。たとえそこが本当にもぐら王国の入り口だとしても小学生にはその穴の中に入って調べる方法はないからだ。しかしその小学生が死んでいるとどうして思ったのだろうか。もしかしたらそういう否定的な結論を自分は望んでいたのかも知れないと思った。小学生が仰向けに死んでいる映像がまざまざと浮かんだのだ。小学生が死ぬことを望んでいたのだろうか。さもなければ死と云うものをそれ自身を考えることを自分自身抑圧していたので、その反動として無意識として死と云うものが現実味を帯びた映像として浮かんだのかも知れないと思った。光太郎には微かな罪の意識が浮かんだ。幸福そうな小学生たちのすがたを見て嫉妬したのだろうか。それとも死と云う言葉に何かの魔力があるのだろうか。光太郎の過去には封印して置かなければならない死と云うものが置き去りにされていた。その死の原因も光太郎には少しもわからなかった。れんげ畑の中の蟻塚と云うものも見ようによっては墓石に見えないこともない。そこでいつも気になっていながら実行していない責務が光太郎の頭の中で束縛をされずに浮かんで来た。この町に引っ越して来てから一度も行っていなかった。
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