第九回
その九
石川田りかはマンションで押収した写真に関してある疑問を持っている。疑問と言うよりも謎と言ったほうがいいかも知れない。疑問であればある解答の選択肢があってそれから選ぶことが出来るわけだが、その選択肢も見つからない状態だったからだ。それを引き起こしたのは写真に書かれていた変な文様である。見方によっては竜がからんでいるようにも蛇がからまっているようにも見える。なにかの符号には違いないだろう。しかしそれがなにを意味しているか石川田りか警部にはわからなかった。
警視庁に戻るとなにかものものしい雰囲気が警視庁の内部を包んでいた。正面玄関から広い廊下を通って捜査一課の特別室の前を通るとけやきで出来た昔見た映画のような大きな扉の前には「ブリジット・リン事件捜査本部」と大きな模造紙に墨で書かれてそれがべったりと扉の正面に張られている。その紙が真っ白いところを見ると昨日か今日、とにかく最近それが張られたらしい。捜査一課が一丸になって大々的に取り組むと云う腹づもりや意思のようなものがその張り紙から見てとれる。
ブリジット・リンというのは石川田りかがあのマンションで押収した写真に書かれていた名前だ。石川田りかはその捜査本部の重くて大きな扉を開けた。ギィーという重たい音がして中にいた刑事たちがいっせいにこちらを向いた。よけい者を見るような目でこちらを見ている。
「ブリジット・リン事件ですが」
刑事石川田はその部屋の中におそるおそる首を突っ込んだ。
「石川田くん、困るじゃないか。これは特別捜査本部だよ。きみはこのチームに参加していないじゃないか」
石川田りかの上司が無理矢理、彼女を外に押し出した。
「これは秘密捜査本部だからね。他言は無用だよ。きみ」
中にいた構成員は正統捜査一課の主だった刑事たちだった。捜査一課総出でブリジット・リン事件というものに取り組む気らしい。しかし自分が捜査上得た情報にブリジット・リンという名前が出てきた。だからその捜査本部の部屋の中を覗いてみようと思ったのだった。そのうえに中国人らしい妖艶な女性の写真も出てきたのである。このことも知らずに正統派捜査一課はその事件に取り組んでいるらしい。それがどんな事件であるかは刑事石川田りかは知らないのだが。
警視庁の社食に行くと裏捜査一課の構成員の一人である小川田まこと警部補が竹輪の竜田揚げをおかずにしながらうどんをすすっていた。石川田りかは彼女の横にカレーライスを持って腰をおろした。
「正統捜査一課の連中がやっきになって捜査している事件というのはなんなの」
「あの大きな張り紙を張ってあるやつですか」
「そうよ」
「わかりません」
「ブリジット・リン事件とは捜査一課が総出になって取り組むような事件なんですか」
「そうかもしれません」
それを聞くと石川田りか警部補はカレーライスのルウをスプーンですくいながら口元がほころんだ。
「それに対して重要な手がかりを私は持っているのよ。私が石田川ゆり子のマンションで押収した写真があるでしょう。裏捜査一課でブロマイドのように出回っているものよ。実はあの写真の裏にはブリジット・リンと云う名前が書かれているのよ。しかも変な文様も添えられているわ」
「そのことを正統派捜査一課の連中に伝えたんですか」
「うんにゃ。私が捜査本部の中に入ろうとしたら追い出されたわ。そこにいた刑事たちの顔を見たら、全部、正統派捜査一課の連中だもん。よほど重大な事件に違いないわ。そしてその手柄を自分たちだけで一人占めにするつもりなのよ。気色悪いわ。だからそれは教えないであいつらを出し抜いてやろうかと思っているの」
「それはいい考えじゃないですか。石川田先輩」
ふたりは目を合わせてくつくつと笑った。ふたりは出し抜いて「ブリジット・リン事件」を解決したときの正統派捜査一課の連中のあわてふためいたた顔を思い浮かべた。
「それはそうと、白滓有伸に会ったんですか」
「ああ、会ったわ」
「あれは大変な人物だそうですよ」
「経済学者だと言っていたわ」
「中国マフィアを調べていると言わなかったですか」
「言ったわ」
「中国の黒社会の専門家だそうですよ。警察もときどき意見を聞きに行くそうです。その文様のことを知っているかも知れないですよ」
石川田りか警部は小川田まこと警部補の意見にしたがうことにした。日華大の白滓有伸の研究室に行くと押収したあの写真のコピーを取りだした。
「この女性は中国人ですね」
白滓有伸は断定した。
「この文様ですが」
差し出したその文様の書かれている資料を白滓有伸はまじまじと見つめた。そしてロッカーのところに行き、資料を取り出すと石川田りかの座っているテーブルのほうに持って来た。
「珍しいですな」
「そんなに珍しいものですか」
「これは北方騎馬団のものですよ」
「北方騎馬団」
「中国の黒社会の発生は北方の清が漢民族を支配して反清組織として発生したものです。だから南方のほうにその根城を置いている組織が多いのですが、清とロシアのあいだにあって秘密結社を組織している犯罪集団があります。これはまだ日本の一部の人間にしか知られていません。伝統的に機動力にすぐれているマフィア組織です」
「そんな組織があるのですか」
「日本にはまだ上陸していないと思っていました」
「今度の心中事件には北方騎馬団に関係している人物が関わっているのでしょうか」
「わたしにはわかりません。しかし、草なぎ山くんがそういった人物に関わっていて殺された可能性もありますね」
「草なぎ山くんは真面目な中国人留学生ではないのですかい」
「マフィアはいろいろな場所に根を伸ばしていますからな。黒社会の人間はひとめ見ればわかりますよ。しかしそれにつらなっている人間はふつうの中国人といっしょに生活をしているのです。どこでどういう接点があるかわからない。それに中国人は本当に重要なことは用心して言わない。仲間の組織のあいだだけで持ち得ている秘密も多い。草なぎ山くんのことを僕は一部しか知らないようだ」
「そうですか。ブリジット・リンという名前でなにか知らないものはありませんか」
刑事石川田は目の前の人物の顔を見つめた。
「ブリジット・リン」
白滓有伸は首を傾げた。
「その北方騎馬団の首領の名前だという話もありますよ。ただし、女の名前だが名前が女なだけで、首領は男だという噂もあります」
「ブリジット・リンの姿を見たことのある人間はいないのです。この写真の女がブリジット・リンだという可能性はないんですか」
「北方騎馬団は知られていない部分が多いのです。しかし、北方騎馬団の連中ならブリジット・リンの姿を知っているでしょう。それにこの中国女の正体も知っているはずです」
警視庁に戻った石川田りかは小川田まことが刑事ロボットを作っている地下室に行った。刑事ロボットはすでに完成していた。
「なにか、おもしろいことはわかった、りかちゃん」
「わかった部分もわからない部分もあるわ。北方騎馬団というものを習ってきたわ。しかし、この写真の美女がなにものかということになるといっこうにわからない。これが本当はなんにも関係がなくて映画女優かなにかで近くに紙がなくてメモ用紙がわりにそれを使ったなんてことになったら目もあてられないわよ」
「じゃあ、その写真の女がなにものかということを特定するのが第一歩ですね。石川田先輩」
「そうだわよ」
「あれを使ってみる」
「あれって」
「犯罪履歴のある外国人の顔写真を調べる機械があったじゃないですか」
「勝手に使っちゃうか」
「使っちゃえ」
ふたりは休憩に出て操作員のいない警視庁の資料室に行って機械を操作した。しかしその資料は得られなかった。
石川田りか刑事は自宅に戻り、まず歌番組のテレビのスイッチを入れた。そして冷蔵庫の中に冷凍ピラフの袋を切ったものが半分ほど残っているのを思い出した。田んぼで蛙の鳴いているのを聞きながら電子レンジで冷凍ピラフを暖めて食っていると電話がやかましく鳴った。窓の外には洗濯物が風を受けてひらひらとひらめいている。石川田りかは半分ほどピラフを口にほうりこんだまま電話に出ると例の女子大生から電話がかかってきた。
「刑事さん、わかったことがあるんです」
「なんですか」
石川田りかはおもおもしく言った。口の中に暖めたばかりのピラフがまだ入っていて飲み下していなかったという理由もあるかも知れない。
「あの写真の女の人が誰だかわかったんです。たぶんその人じゃないかと思うんですけど」
「どういう人」
「刑事さん、会えますか」
「今、行くわよ。待っててくれる」
石川田りかは田んぼの横に停めてある軽自動車を走らせた。女子大生の家のそばにある二十四時間営業のファミリーレストランで待ち合わせることにする。しかしお姉さんと呼んでいた女性が死んだといえ、自分とあまり関係のないことで随分とこの女子大生は労力を払っていると石川田りかは思った。ファミリーレストランに入ると客がいないがらんとした店内でその女子大生の後ろ姿が見える。女子大生の目の前にはコーヒーカップがただひとつ置かれている。
「待ちましたか」
石川田りか警部が声をかけた。他人が見たらきっと精神カウンセラーが患者にあっていると思うかも知れない。
「刑事さん、あの写真の主が誰だかわかったんですよ」
女子大生の片手には薄汚い雑誌が握られている。
「有名な人ですよ。その写真の人は女優なんです。中国の映画によく出ている人だそうですよ。ほら、ここにそのことが載っている中国の雑誌があります」
石川田りか警部は失望した。いくら重要な人物でも中国にいるならなんの役にも立たない。しかしそんな有名な女優だったのか。しかし刑事石川田は彼女のことを知らなかった。
「実は同じ名前の人が日本にいるんです。橘大の石田川ゆり子さんの遊び友達から聞いたんですけど、いかがわしいバーで働いているそうです。もちろんその女優そのものではないですよ。源氏名って言うんですか。同じ名前を名乗っている中国人の女性がいるそうです、顔もそっくりだそうです」
「いかがわしい」
刑事石川田りかは低く息を吐いた。
「女の人が客になっているバーだそうです。レズビアンバーだそうです」
そんなものがあるのか。石川田りかは耳を疑った。遊び友達というのがそのレズビアンバーに行ってその名前を覚えていてたまたま雑誌を見たら同じ名前の女がいて、女子大生がブリジット・リンという名前のことを話していたので、そのことを女子大生に教えたそうだ。その女子大生はそこへは石田川ゆり子と遊びに行ったことがあるそうだ。その店があるのは代々木だそうである。まずその女性がまだいるか特定しなければならない。近所にあるキャバレーへ客を装って店長と世間話をすると水商売のライバルだと思っているのか、うしろめたいことをやっているという警戒心からか、うさんくさい目で刑事石川田を見た。たしかに中国人でブリジット・リンという芸名の女がいると言った。顔も本家にかなり似ているという。そのビルの三階に寝泊まりしていて店にも出ているという話だ。しかし、正統捜査一課の連中がこんな明白なねたに食いついてこないことが刑事石川田には不思議だった。
しかし裏捜査一課は色めきたった。ブロマイドとして配られている女のそっくりさんにお目にかかれるかも知れないからだ。刑事石川田りかは捜査の人員を要求した。そのレズビアン・バーに踏み込むつもりだ。もちろん石川田はブリジット・リンというその名前は出さなかった。すると上司は言下にそれを却下した。この忙しい状況でそんなものに人員をさけるか。そう言われればたしかに警視庁の内部の正統派捜査一課は多忙を極めている。それになぜだか知らないがときたま政治家が正統派捜査一課にやって来たりする。しかし急がなければならない。キャバレーに聞き込みに行ったことがブリジット・リンなる人物に気づかれないともかぎらない。またはそのキャバレーの中で働いている女を逃がす可能性もある。
トイレに入って警視庁の建物の階段を下りようとすると階段の下のほうから小川田警部補が背広を着たプロレスラーのような男をつれて上がってくる。
「石川田りかちゃん、この男をつれて行こうよ、この殴り込み、わたしも参加するつもりよ」
そのレズビアンバーが中国の黒社会の連中が仕切っていることはあきらかだった。あの連中のやることである。パチンコ玉をつめた鉄パイプ爆弾くらいは爆発させるおそれはある。トカレフあたりも持っているだろう。不死身の鋼鉄刑事を仲間にすることはおおいに意義がある。まず最初の突撃はこのロボット刑事にさせなければならない。石川田りかと小川田まことは店の他の出入り口をおさえておかなければならない。そしてどんな攻撃にもひるむことなく、活動を停止することもないこのロボット刑事が店の中に突入するのだ。そしてその女を捕まえてなにかの理由をつけて警察にしょっぴかなければならない。
「どういう理由でその女を署まで連行して来たらいいかな」
石川田りか警部はコーヒーショップのカウンター席に座りながら隣の小川田まこと警部補に話しかけた。その向こう側には背広を着たロボット刑事が座っている。すると小川田まこと警部補はズホンのポケットからビニールに入った白い粉をとりだした。
「ふへふへ、これですよ」
「これって、お前、証拠をねつ造するの」
「こんなことは****あたりではよくやられていることですよ。ようするに署まで引っ張ってくればいいんでしょう。きっかけはなんでもいいんですよ。ちょっと手品みたいなことをやってその女の洋服のポケットの中からその白い粉のふくろを取り出せばいいんですよ」
「ふがー」
向こう側に座っているロボット刑事が排気を出した。
「きみたち、またおもちゃを作っているのね」
ふたりは気づかなかったがカウンターの向こうのほうの席でモモンガのように小さく固まって冷やし中華をすすっていた女がふたりのほうに寄って来た。
「おもちゃじゃないわよ」
小川田まことがその女をちらりと見ながら聞こえないぐらいの小さな声で言った。するとその女も聞こえないぐらいの小さな声で「いつか、やめさせてやるからな」と言った。ふたりの声は聞こえないような小さな声だったがやはりふたりには聞こえていた。それほど仲が悪いというわけでもない石川田りか警部補がその女に声をかけた。
「ここで昼飯ですか」
「ああ、噂によるときみたちが変なことに首を突っ込んでいるらしいわね、でもおもちゃ作りで満足しているのよ」
「後藤田さんも変なおもちゃを抱え込んでいるらしいじゃないの。ブリジット・リン事件とかいう」
「あなたたちが首を突っ込めるような事件ではないわ。高級事件だわよ」
「じゃあ、わたしたちが取り組んでいるのが低級事件みたいじゃないですか」
「ぶっ殺してやる」
小川田まこと警部補が聞こえるか聞こえないかわからないような低い声でつぶやいた。
「ふん、この税金どろぼうたちが、せいぜい年金がもらえるようになるまでむだに年を食っていくんだわな」
コーヒーバーの入り口のところで黒いシルエットが手を上げると後藤田と呼ばれる女は振り返った。戸口のところに立っている男は逆光で顔形がよくわからないがなんとなく日本人という感じではない。警視庁正統捜査一課後藤田まき警視正はその男を見ると急に愛想がよくなり、出て行った。
「あいつ、出て行ったわよ」
「やはり、ブリジット・リン事件というのは重要機密なんだわ。あいつらの鼻をあかしたときのことを考えるとわくわくするわ」
「あいつ、わたしの可愛いロボット刑事のことをおもちゃとか呼びやがって。こうなったら警視庁に居座るだけ居座ってやるわよ」
「そうよ、わたしはここでの経験をもとにしてベストセラーを書いてやるわよ。あなたは」
「わたしも本を書く、それも警視庁の暴露ものよ。今、上にいる連中が顔を青くするようなものよ」
それからふたりは勤務中だというのにビールを注文した。よく冷えたビールのジョッキをふたりで飲み干した。
「それはそうと、週刊誌に苦情を申し込んでやると息巻いていた石田川ゆり子の両親はどうしたのかしら。石川田先輩にうな重までごちそうして事件の再調査まで依頼してきたじゃないですか」
「それがね。どうしたと言うのだろう。急にトーンダウンだわよ。自分の娘を過信していたのかも知れないと言ってね。東京での娘の生活をぜんぜん知らなかった。あんなに毎日夜遊びにふけっていたことは上京して娘の噂話を友達から聞いてはじめて知った。小さな頃は姉のほうがいい子だったんだけど、妹があんなに有名になってちやほやされているからひねくれてしまったのかも知れない。お金も東京での生活に困らないようにと湯水のように与えたのもよくなかったのかも知れない。もっとも中国の留学生と心中をしたとはいまだに信じられないけれども娘の生活も浮ついていたことは認めなければならない。事故で死んだのなら仕方ないが、もし他殺ならやはり犯人を見つけて欲しいと力なく言っていたわよ」
「なにか、本当の親じゃないみたいだな。なんでそんなに冷静になってしまったんでしょう」
「知らないわ。もちろん自分の娘がレズビアンだったのを知っているかと聞く気にはならなかったから聞かなかったけど」
「とにかく、明日、このロボット刑事と踏み込んでその女をしょっぴけばすべては明らかになるわけよね。ここじゃ、場所が悪い。警視庁の連中が絶対にやって来ない穴場を知っているんだわよ。そこに行きません」
第十回
その十
石川田りか警部、小川田まこと警部補、ロボット刑事の三人は覆面パトカーに乗り込んで朝の六時にそのレズビアンバーに向かった。ふたりは前の席に座り、ロボット刑事は後部座席に座った。ロボット刑事はシートの中央に座ったが二人分の場所をとり、その重さで深くシートは沈んだ。
そこに来る途中何度もからすがゴミ箱を漁っているのに出くわしたがそのうちの何羽かはハンドルを握っている刑事石川田りかと目が合い、からすはじっと石川田りかの顔を見た。石川田りかはなぜか本来は人間に使われる言葉、目は心の窓であるということわざを思い出した。
代々木にあるそのレズビアンバーは警察が突入するのには都合がよかった。警察と言っても三人しかいないが。左手は空き地になっていてぶた草が生え放題に生えている。右手は細い路地を一本はさんでキャバレーになっている。表は道路に面していて見通しがよく、後ろは三メートルぐらいの崖になっていて石垣が組まれていてその崖の上には小さな神社がある。しかし神殿だけがあって人は住んでいない。まだそのレズビアンバーはひっそりと静まり人も起きていないようだった。左手のほうに出入り口はなく、道路に面した正面に客用の出入り口、右手のキャバレーに面したほうに勝手口がある。
計画としては正面からは小川田まこと警部補と刑事ロボットが踏み込んで行く。勝手口からは石川田りかが突入するという段取りだった。それ以外に中の人間が外部に脱出することは出来ない。二階でさえ窓はなかった。その女が中にいることは確認してある。
覆面パトカーをそのレズビアンバーの前に音もなく停めると石川田りかはキャバレーの前に四輪駆動のオフロード車が停まっているのを認めた。中には誰もいない。石川田りかは警察無線を切った。警視庁に今回の作戦を知らせることはできない。秘密裏の計画だった。裏捜査一課のまたの名は無法者刑事である。そうでもなければこの法治国家の日本で麻薬所持のでっちあげで署に容疑者を引っ張ってくるなどという発想は浮かばないだろう。
ふたつのグループはそれぞれの戸口の前に陣取った。刑事石川田りかの腕時計の秒針はかちかちと時を刻んでいく。「ちょうど時間だ」石川田りかは前もって作っておいた合い鍵で勝手口のドアを開けると静かに中に入り外からも内からも出られないようにする器具を取り付けた。暗がりの中で玄関のほうを見ると小川田まこと警部補も同じことをやっている。ふたりは手で合図をした。中にいる人間は深い眠りに入っているらしい。めざす容疑者は三階に寝ているという情報は確かだ。
三人は階段を上がって行った。そして三階に上がるとドアをあけた。畳敷きの部屋の中に場違いな豪華なベッドが置かれ、早朝の窓から差し込む光の中に軽い寝息が聞こえる。三人はそれの目を覚まさないようにそのそばに近づいた。
つぶった瞼の上に強い線のまゆがある。かたちのよい鼻の線がある。筆で書いたような優美な線の唇があった。カーテンを通して入ってくる朝の光の中でまるでミルクの固まりのように見える。それは石田川ゆり子のマンションの隠し金庫の中から発見された写真とも女子大生が持って来た写真ともよく似ている。映っている角度は違うが同じようなものだった。
「なに、見とれているのよ」
その女の寝顔をじっと見ている小川田まこと警部補を石川田りか警部が叱責する。
小川田まこと警部補はあわててポケットの中から白い粉の入ったビニール袋を取り出すと枕もとにある電話台の引き出しの中に入れた。
「よし、準備は万端だわよ。起こすわよ。手錠の用意はいいわね」
「もちろん」
「文句は麻薬所持容疑で逮捕するだわよ」
石川田りかは警察手帳を取り出した。石川田りかが耳元でささやくと容疑者は目を開けた。
まだ自分の置かれている状況を理解できない女は目を開くとじっと石川田りかの顔をにらんだ。美しい瞳だ。声は出さない。
「麻薬所持容疑で逮捕する」
すかさず小川田まことが電話台の引き出しをあけてビニールの袋を取り出す。
「これが証拠だ」
「ブォー」
ロボット刑事が排気音を出した。石川田りかは手錠を取り出す。
すると怪鳥音が聞こえて入り口のところにつなぎの体操着を着た人影があった。
「チョエー」
またその男は怪鳥音を発するとロボット刑事に向かって飛んで来た。直線距離で三メートルもあるだろうか。
なにか、中国語を発した。ロボット刑事はびくともしなかったがこの異常な事態に石川田りか警部と小川田まこと警部補はうろたえた。その男のほうに目を奪われていると裏手の窓を開けて女は飛び降りようとした。そして飛び降りた。しかし随分と高いはずである。裏手から逃げられないと計算したのは誤算だった。飛び降りたと思ったのは実は違っていて裏手の崖の上にある人手のない神社からはしごのようなものを渡して女はそれを伝わって向こう側に渡りきっていた。そこには車が用意されている。
「しまった」
石川田りか警部は裏手の窓から向こうにいる女が車に乗り込むのを見て舌打ちをした。もうはしごははずされている。
「その男をつかまえるんだわよ」
小川田まこと警部補はロボット刑事に命令した。しかしロボット刑事は鈍重な動きでいいようにあしらわれている。刑事石川田りかは拳銃をとりだした。すると男は何かわからない中国語をはっすると階段をかけおりて行った。ふたりもそのあとを追って階段を下りて行くとその男はキャバレーの前に停めてあった四輪駆動車に乗り込んで走り去った。
そのあとにロボット刑事も一階に下りて来た。
「わたしたちも逃げるのよ。なんの許可もなくこの捕り物をやっているとわかったら大変だわ」
「手榴弾を持たせて爆発させてもびくともしないんだけど、・・・」
警視庁の地下室の中でロボット刑事の腕のあたりをぺたぺたと叩きながら小川田まこと警部補が言うとロボット刑事は排気音を出して「ウゴー」と返事をした。
「あんなに動作が遅いんじゃ、捕り物の役に立たないわよ」
石川田りか警部は地下室の椅子に腰掛けて不良のようにたばこを吸うと小川田まこと警部補は猛烈に抗議をすると思いきやいやにゆとりのある態度を示した。
「腕力が強いだけならロボット刑事とは呼ばないわよ」
「じゃあ、どんな取り柄があるというのよ。教えてくれる」
小川田まことは部屋の隅にあるモニターを机のそばに置いた。そしてロボット刑事の作り物の頭部をはずした。それは全くなんの機能もない頭部でたんなる装飾の意味しかない。それから首のつながっていた肩の部分をいじっているとふたが開いてなにかの端子が出てきた。彼女はそこにコードをつないでモニターの電源をいれる。
するとあの女の寝姿が出て来た。
「おっ、あの女じゃないですか。するとこいつが見たものはすべてこいつには記録されていているんですね。少しは役に立つじゃないの」
「それだけではないわさ。ほんのちらりと見ただけでもその映像は記録されていて過去に何回それを見たかも調べることが出来るんです」
それから小川田まこと警部補はまた機械を操作した。するとモニターにはあの捕り物の場面が出てきて捕り物の邪魔をしたカンフー野郎の顔が映し出された。
「おっ、あいつだわ。下に二回と表示が出ているわ」
「過去にもう一度見たことがあるということだわ」
「いつ、見たのよ」
「戻してみようか」
その映像の中には正統捜査一課の後藤田まき警視正の姿も映っている。
「後藤田まき」
「そうだ。後藤田まきも一緒に映っている」
「いつ映したのよ」
「今度の捕り物で打ち合わせにコーヒーカウンターで座ったわよね。そのとき後藤田がカウンターのはじのところで冷やし中華を食べていたわ。そのあと中国人らしいのが後藤田を呼びに来た。ふたりは落ち合って出て行った」
「ということは後藤田がわたしたちの捕り物の邪魔をしたということなの」
「暴露本を書く必要がなくなったわ。後藤田のところに恐喝に行くのよ」
重要な参考人を逃す手助けをしたということは後藤田もうしろめたい部分があるに違いない。
ふたりは捜査一課の後藤田のところへ行くことにした。もちろんあのカンフー野郎と正統捜査一課後藤田まきが一緒に写っている写真を持ってである。
しかし後藤田の部屋まで行く必要もなかった。あのものものしい「ブリジット・リン事件捜査本部」の前を通ると疲れ切った顔をしてとうの後藤田まきが出てきたのだ。
「後藤田警視正、話したいことがあるんですが」
「後藤田警視正、ずいぶん今までわたしたちのことをこけにしてくれたわよね。一緒に来てよ、訊きたいことがあるんだから」
「ふん」
後藤田まき警視正は無視をして口も聞かなかった。
「こんなものがあるのよ」
小川田まこと警部補は例の写真を取り出した。
「話だけは聞きましょう」
後藤田まきはどっかの役人のような口をきいた。
三人は空いている会議室に入ると入り口のドアを閉めた。
「後藤田さんよ。ずいぶんふざけたまねをしてくれるわよね。お前さんがカンフー野郎と結びついているのは明白だわよ。カンフー野郎はいかがわしい奴だわよ。それがお前さんみたいな正統捜査一課と結びついていることがわかったらどうなる。お前さんの輝かしい経歴に泥がつくだけじゃないだわよ。お前さんには子供も親もいるんだろう」
小川田まこと警部補はよたった。
しかし後藤田まきはまだ二十歳を少し出たばかりで結婚もしていなければ子供もいない。
「後藤田さんにそんな言葉を使うもんじゃないわよ。わが課のホープなんだからな。わたしたちは捜査一課の話だけをしているんじゃないんですよ。警視庁の威信と云うか」
「それだけですか」
「えっ」
「それだけですかと言っているのよ。きみたちが捕り物ごっこをやったらしい話は耳に入っているわよ。しかし、許可を受けたのかな。許可だけじゃない。法律にしたがってことを運んだのかな」
「・・・・・」
「それに代々木のほうにあるバーの内部が壊されて住人が失踪しているという報告を受けている。それにとなりのキャバレーの支配人があの女がブリジットと呼ばれていると言っていたろう。それは間違い。あの女の本名はビクトリアだわよ。わたしの話すことはそれだけよ」
後藤田まきは黙って部屋を出て行った。
第十一回
その十一
「エポの歌はいいなあ」
小川田まことは重役用の椅子に寝そべりながら目の前にはられたあの女の寝姿を大きく伸ばしたポスターを眺めながら言った。重役用の椅子だけは立派だがあとの机やロッカーは廃棄処分にするようなものばかりである。裏捜査一課が会議室の一つを勝手に占拠している。そこが裏捜査一課のたまり場のようになっていた。
「結局進展はなしか」
「この女はどこに雲隠れをしたのかしら」
中国の映画スターのそっくりさんの写真を見ながら刑事石川田は舌打ちをしながらつぶやいた。
「出前です」
ドアをノックする音がしたので石川田りか警部がドアをあけるとカリフラワーみたいな変なヘアースタイルをした新垣田りさ警部補が立っている。
「お姉さんたち、相変わらず仕事不熱心やないか」
「うるさい。出前が来たと言うならカツ丼でも持って来なさいよ、さもないとどたまかち割るわよ」
「お姉さん、そんなに怒らないで下さいよ。いい情報ですよ。いい情報」
「なんだわよ。言ってみなさいよ」
「ブリジット・リン。わかりましたわよ」
「本当なの」
「本当でがんな。お姉さんたち、ブリジット・リン、ブリジット・リン、言うやさかいブリジット・リンが見つからないのやないですか」
「うるさいよ。お前」
石川田りか警部は捜査一課に赴任してから三ヶ月しか経っていない新垣田りさ警部補に言われてむっとした。
「お姉さんたち、機嫌なおしてくださいよ。わてお姉さんたちを尊敬しているのやさかい」
「とにかく、ブリジット・リンって何者なんだわよ」
「ブリジット・リン、わかりましたで」
「誰なんだ」
「石田川ゆり子と心中した草なぎ山剛」
「ええっ、なんだって」
石川田りか警部と小川田まこと警部補は同時に驚きの声を上げた。
「草なぎ山剛は男でしょう」
「わてかてブリジット・リンが本名なのかどうかわかりませんで。とにかく草なぎ山剛はブリジット・リンという名前を持っていた。それがあのホステスの本家本元の映画女優の名前だと思っていたら大間違い。草なぎ山剛はくわせものでっせ。あいつ、学生の身分で商社を持っていたんでっせ。それもあやしい会社でがんな。収支がめちゃくちゃでね。中国に日本から特殊な金属を輸入していたんですよ。その金属のこともなんやむずかしい理屈でよくわからないんですけどね。その金の決済をやるときの名義がブリジット・リンになっていたんですがな」
「なんだ。草なぎ山剛がブリジット・リンだったのね」
石川田りか警部は一応納得した表情をしてみたがそのくせ全然ことの真相を理解していたわけではなかった。なんのことやらさっぱりとわからない。
「そうじゃないわね。草なぎ山剛が架空名義を作るために作った名前でつまり実体は存在しないと云うことなのよね」
「ちぇっ、つまんないわ。この絶世の美女がブリジット・リンだと思っていたわよ。まあ、それはそれで正しいんだけど。それが事件の核心だと思っていたのに、少しずれているかも知れないの。少しは夢を持たせてくれたらいいのに」
「お姉さんたち、かえってその方が重要じゃないの。そうなると心中事件というのも、もう一度ちゃんと調べてみる価値はあるんじゃないの。これは心中事件やないで」
するとまたドアが開いて後藤田まきの一の子分の紺野田あさみ警部が顔を出した。
「あなたたち、ここを不当占拠しているんでしょう。今日の午後までに出て行くのよ。今日からお客さまの控え室になるわ」
「何よ」
「何よとは何よ」
「ほら、かっかとしている」
石川田りか警部がドアの向こうを見ると制服を着た人間が立っている。しかし警察の制服ではない。
「なんだ。いらしていたんですか。捜査一課の方で休んでいてください。すぐ控えの部屋も出来ますから」
その制服は海上自衛隊のものだった。紺野田あさみ警部は自衛官をつれて向こうに行った。
それから警視庁捜査一課の中に自衛隊の人間が出入りすることが目につくようになった。ときどきは政治家もやってくる。それらの人間は「ブリジット・リン特別捜査本部」の中に吸い込まれていく。
しかし裏捜査一課の連中はその中に入ることが出来ないのでその理由はわからない。
「おい、聞いた。今晩、大捕物があるという噂だわよ」
「どこで」
「場所はわからない。ブリジット・リン事件に関係していると云う噂だわよ」
「なんだって」
石田川ゆり子の事件が全く解決していないのにブリジット・リン事件が大きな展開を迎えるなどとは許せない。石川田りか警部はさっそく後藤田まき警視正のところに談判に行った。今晩おこなわれる大捕物に参加させろとだ。後藤田まきはしばらく腕を組んで考えていたが見学ならいいだろうと云うことで今晩の大捕物に参加することを許可した。裏捜査一課なりに足を棒にして裏をとっていたことを知っていたからだ。少しは同じ職場としての思いやりを見せたのか、それとも裏捜査一課のことなど眼中にないというゆとりを見せたのか石川田りかにはわからなかった。
石川田りか警部、小川田まこと警部補、ロボット刑事の三人は覆面パトカーに乗り込むと後藤田まき警視正の乗る覆面パトカーのあとをつけた。環線道路のところどころで警察が網を張っているのがわかった。ライトを消した仲間うちではそれとわかる車が物陰に停車している。最後まで行き先は伝えられなかった。後藤田まき警視正の乗った覆面パトカーは東京を過ぎ、神奈川に入った。石川田りか警部はこの車が三崎のほうに向かっているということはわかった。案の上、車は横須賀のさきにある小さな漁村に入って行ったがところどころに警察の車が停まっていてその上、自衛隊の軍事車両まで停まっている。松林をおれて後藤田まきの車は海岸に向かって下りて行った。ここは漁村といっても遠い昔に海軍の施設があって海岸線は深くえぐられている。
警察車両のあいだをすり抜けて後藤田まき警視正の覆面パトカーは停まった。
石川田りか警部の車も停まった。
「きみたちは見ているだけでよい」
「なんで」
「もう失敗のしようがない。大きな計画ほど融通が利かないということよ」
「おい、あそこ」
小川田まこと警部補が指でつっくのでそのほうを見るとパトカーの中に白滓有伸が手錠につながれて押し込まれている。そしてもう一台のパトカーの中にはあの写真のそっくりさん、妖艶な中国美女がやはり押し込まれている。隣の席には婦人捜査官が座っている。手のあたりには布がかけられていてわからないがその手には手錠がかけられているのだろう。
「おい、後藤田警視正、あれ、あれ、あのパトカーに押し込まれている女」
小川田まこと警部補がパトカーのそばに立って後藤田まき警視正に話しかけても無言のままでちらりとその逮捕された連中を見てほほえんだだけだった。それから後藤田まき警視正は堤防のそばに行き、誰かと話している。
石川田りか警部は驚いた。それはあのカンフー野郎ではないか。
変な部分はそれだけではない。三人が堤防のそばに行って下を見るとドラム缶が堤防の壁に沿ってずらりと浮かんでいる。
石川田りかの眼下の暗い海の上でドラム缶が一列に並んで波間に上下に揺れている。小川田まこと警部補もロボット刑事もそのドラム缶をのぞきこんだ。どうやら水中でそれらのドラム缶はつながれているらしい。ドラム缶の動きは連携している。微妙に周期をずらして上下動している。
「あなたたちの頭じゃ、これがなんのドラム缶だか、わからないだろうな。こんなガラクタしか作れないじゃ」
「なにを言うのよ」
「・・・・」
うしろには紺野田あさみ警部がにやにやしながら立っていた。ロボット刑事は自分のことを言われているということがわからずにぽかんと警部の顔を見ている。
「これはソナーだわよ。水中の未確認物体を特定する。自衛隊で演習に使っているときの十倍の機材を投入しているのよ」
後藤田まき警視正が答えるかわりに紺野田あさみ警部が答えた。
「なんのために」
石川田りか警部が紺野田の顔を見ると後方のパトカーで警察無線のマイクを握っている後藤田まき警視正の方に目配せをした。
「予定ポイントの三十メートル手前に入りました」
後藤田まき警視正はマイクのトークボタンを押した。後藤田の横には自衛隊の幹部が立っている。そのパトカーのうしろの木の下にテントが張られていてその下にレーダーのような機材が置かれていて自衛隊の人間がたむろしている。その自衛隊が何かの命令を下した。
石川田りか警部が海上のほうを見ていると夜の海の中に水柱が立った。
「これを使って見て」
紺野田あさみ警部が双眼鏡を渡した。双眼鏡だと思ったのは実は漆黒の闇夜でも使える暗視装置で夜の海がみえる。
石川田りか警部が水柱の上がった海面のあたりを見ているとてらてらと輝いているが、海中に浮かぶプランクトンでもくらげでもなく、機械油が海上に浮かんでいるのかも知れない。さらに海中で爆発したらしい残骸が海上に浮かんでいる。石川田りか警部は暗視装置の倍率を上げた。岸に控えていた処理船が近寄って行く。その残骸の一部に文字が書かれている。彼女にはそれが何と書いてあるか読むことが出来た。
「B・・・、それからなんだ。BのつぎにはR」
石川田りか警部は海上に浮かんでいるその文字を読んで言った。
「おっ、おっ」
石川田りか警部は思わず声をあげた。
そこには英語でブリジット・リンと書かれていたのである。
第十二回
その十二
「ブリジット・リン事件特別捜査本部」の張り紙は取り払われてそこは正統派捜査一課の祝宴が張られていた。もちろんこの事件の全面的な解決を祝ってである。
その席には自衛隊の幹部も座っていた。ある政治家も顔を出していた。祝杯が行き交った。
「石田川ゆり子の父親が来ています」
紺野田あさみ警部が後藤田まき警視正に耳打ちをした。
「今、行くわ」
後藤田まきがその場を離れて面談室に行くと石田川ゆり子の父親の石田川庄三が静かに座っている。
「ゆり子の事件が完全に解決してその事件の全貌が明らかになったという話を聞きました。話の説明もしてもらいました。だいたいの話は聞いたんですが、今いちはっきりしないところがあります。気持ちの整理をつけるためにもここにお伺いしたしだいです。ゆり子がどうして殺されなければならなかったかもう一度よく話してください」
石田川庄三はじっと後藤田まき警視正の目を見つめた。
「そうですね。まず、中国人留学生、草なぎ山剛の正体をつまびらかにしなければなりません。彼は経済学を勉強をしに来た留学生ということになっていますが、実は中国政府の役人です。しかし、おおっぴらに出来るような身分ではありませんでした」
「どうしてです」
「軍事用の資材を輸入するのが目的です。そして架空の商社を日本で立ち上げて極めて少量しか取り扱われない特殊な金属を輸入することが彼の仕事でした。それはある軍事兵器の開発にどうしても必要で、その試作品が秘密裏に制作されていました。その試作品というのが小型の潜水艇です。それは画期的なもので詳しい理屈は専門的なことで、よくわからないのですがイオンエネルギーと云うものを使って相手のレーダーにはほとんどつかまらないものだそうです。そのため草なぎ山剛は大量の資金を持ち、いつでも大金を右から左へと自由に動かすことが出来たのです。彼は決して貧乏な中国人留学生ではなかったのです。そしてその潜水艇はほぼ完成していました。しかし草なぎ山剛は金が自由になっていたのでキャバレーやバーで遊ぶようになりました。そこで知り合ったのがお嬢さんです。ただの金持ちだったらお嬢さんは草なぎ山剛に興味を持たなかったかもしれません。しかし、自分のスパイじみた仕事の一部を見せたりして興味を引いたのでしょう。それでゆり子さんは草なぎ山剛とつき合うようになったのです。お嬢さんの住まわれていたマンションをご存知ですか。あの秘密の金庫に自分の秘密の書類を、かえって安全だと思い、置いたのかもしれません」
「白滓有伸とレズビアンバーで働いていた中国女性、ビクトリア・リンとはなんなのですか」
「ふたりは蛇頭のメンバーです。白滓有伸は驚くことに蛇頭のメンバーだったのです。彼の言った北方騎馬団などというのはまったくの作り話です。なにしろ彼自身がマフィアの一員なんですからね。蛇頭はその潜水艇の話を聞きました。そしてそれを欲しがっている国があり、手に入れられることが出来ればいくらでも金を払うことを知っていました。まずその潜水艇の秘密をさぐらなければなりません。白滓有伸は草なぎ山剛の指導教官でしたが、その秘密資料はどうしても手に入れることが出来ませんでした。その資料さえ手にいれればその潜水艇を奪取するのは用意です。その船の暗号や秘密ルートも知ることができるのです。そして草なぎ山剛が日本の女子大生と恋愛関係にあり、その秘密資料を彼女の金庫の中に隠していることも知りました」
ここで後藤田警視正はのどにからんだたんを切った。
「お嬢さんの性癖を利用しようとしたのです。レズビアンだということを」
石田川庄三は複雑な表情をした。
「ゆり子さんはビクトリア・リンに夢中になってしまったのです。そう、中国の映画女優ブリジット・リンのそっくりさんです。だからお嬢さんの隠し金庫の中にはブリジット・リンの写真が入っていたのです。それを見てお嬢さんはビクトリア・リンがいつも身近にいるような気持になっていたのでしょう。それから草なぎ山は自分の資料をお嬢さんの隠し金庫の中に入れておいたということはいいましたね。その方がかえって安心だと思ったのでしょう。そしてそういう関係になってからお嬢さんのマンションの金庫から秘密資料を奪いました。そして草なぎ山剛との心中にみせかけて殺してしまったのです。しかしあの建物が変わり者の建築家が建てたということを知らず、金庫が二重になっていてブリジット・リンの写真を保管していたことを知らなかったのです。そしてまたブリジット・リンには二重の意味があったのです。ブリジット・リンがなんのことなのか、疑問にもたれたでしょう。当然です。草なぎ山はちゃめっけを出してある意味を持たせて秘密預金の名義の名をつけました。どんなことかと言うと、それが草なぎ山剛の秘密預金の名義という意味しかないという理解だけだったら片手落ちです。もちろん、ビクトリア・リンに似ている映画女優だけだとしてもです。ずっと以前から警視庁でも防衛庁でもブリジット・リンのことは知っていました。ブリジット・リンというプロジェクト名が中国にあって軍事兵器の開発をしていたということは。それが潜水艇だということは最近になってわかりました。そしてその潜水艇の横にはブリジット・リンと英語で書かれていたのです。高性能潜水艦ブリジット・リン号です。そしてブリジット・リン号は蛇頭の手に落ちる一歩手前だったのです」
石川田りか警部、小川田まこと警部補、ロボット刑事の三人は警視庁のビルの屋上に上がっていた。屋上から横須賀のほうを三人は眺めた。
「それにしても、なんなのよ。石田川ゆり子の事件は全面的に解決したからもういいだなんて、ふざけているわ」
「・・・・」
「あの女は中国に送還されるって話しじゃないの。もったいない。わたしはあの女こそブリジット・リンだと思っていたのよ。あのカンフー野郎が連れていったんですって」
「まあ、いいわ。写真だけでなく、実物も見られたんだからね」
「自衛隊の奴らもいなくなったことだし、裏捜査一課のたまり場も元に戻るわよ」
空には青空がどこまでも広がっていた。彼らは事件の真相をほとんど知らなかった。しかし、全面的に解決である。いや、草なぎ山剛の架空名義を突き止めたのは裏捜査一課である。しかし、それも赴任してから三ヶ月しか経っていない新垣田りさ警部補の功績であった。そのとき排気音がした、ロボット刑事があくびをしたのである。****************終わり***********************