八島かよはあの高級車か大衆車かわからない、中途半端な車で食事につれていくのかと思ったが、そのとおりだった。
まわりはすっかりと暗くなっていた。
助手席のドアを開け、にやにやと運転席から八島かよの方を見ている。
長月はじめは車のハンドルを両手で握って前後に身体を振って、それはまるで遊園地ではじめて、お猿の電車に乗ろうとする幼稚園児のようだった。
八島かよが助手席に乗り込むと、長月はじめは腕を伸ばして助手席のドアを閉め、ロックをかけた。長月はじめは自動車のスターターのボタンを押すとインディケーターの照明がつき、エンジンがぶるぶると震えたが、それもまた、中途半端な調子だった。
アクセルシフトを入れると前輪がごろごろと動き出し、長月はじめは少しハンドルを切った。ヘッドライトは白々とこの洋館の敷き詰められた砂利を照らし出している。
ひどく寒々としたこの家か、事務所かとにかく食事へ行きましょう。わからない敷地を、こけおどしのような装飾をされた鉄製の門から出ると、道は舗装されていない大きなあぜ道のようだった。
長月はじめは門を出ると右にハンドルを切った。その道はあぜ道のようだったというのは比喩ではなく、両側に収穫されたあとで、茎だけになっている作物が乾いた土の上に残されていたからだった。
それでも自動車は四十キロぐらいのスピードを出していた。
道のはるか向こう側には暗闇の中に山の稜線がみえる。山と言っても丘と呼んだほうがいいかも知れない。
広いあぜ道は平たんだったが、両側には電柱がどこまでも続いている。
そして、十字路が見えた。十字路には交通信号機が立っていて青色の光がみえる。
十字路の角のところには藁ぶき屋根の売店があり、きなこ飴やコッペパンや魚肉ソウセジをはさんだホットドッグなどがガラスの平台の中に置かれている。ガラス戸の中には電球がついていて、そこだけが明るい。今度は長月はじめの自動車は左に曲がった。
すると、また直線のあぜ道が続いているが、対向車も後ろからも車はやってこなかった。
こうやって、新しく採用した社員をいつも 食事に誘っているのですか。
横で運転している長月はじめに八島かよは聞いた。そんなことはありません。特別に気に入った新入社員だけです。それにほとんど、助手席に誰かをのせたことはありません。この車は私のお気に入りでしてね。
長月はじめがお気に入りというわりには、一流企業のオーナーが乗るには貧弱すぎる車だった。
平たんな道の向こうは上り坂になっていてその向こうは橋になっている。
自動車は暗い川を下に見ながら、コンクリート製の橋を越え、橋を越えるとき、下り坂になっているので、一瞬、重力がなくなったような感じを八島かよは感じた。橋を越えてからすぐに明かりの塊のようなものが見えた。
あそこなんですよ。
長月はじめはうれしそうな顔をして、その光の塊を目で合図した。
私のお気に入りなんです。
暗い景色の中にうかびあがっている、光の塊、それは作物も何もない畑の中にあったが、なんのことはない、それは日本でも一番見かけることのあるファミリーレストランだった、ファミリーレストランの駐車場に長月はじめは車を乗り入れたが、広い駐車場の中には三、四台の車がすでに停まっていた。
さぁ、行きましょうか。
長月はじめはうきうきとしていた。
そのファミリーレストランの屋根には巨大なネオンが輝き、入り口には蘇鉄の木が植わっている。
長月はじめはずんずんとそのファミリーレストランに入っていく、八島かよもそのあとをついていくほかなかった。店の中はファミリーレストランとしては高級な部類で、一組あたりのテーブルも大きくとってある。
その中には客は分散して入っていたが、顔は見えない、客たちはみんなくつろぎ、かつ楽しんでいた。
長月はじめはこのファミリーレストランの常連らしく、ずんずんと店の中に入っていくと、店の中にある黒い玉砂利をしいて、そこに観葉植物が生えている横のテーブルに座ったので、八島かよも向かいに席をとった。
私、ここの常連なんです。
長月はじめはうれしそうだった。
やがて ウェイトレスが注文に来ると、
長月はじめは
ジャンボハンバーグ、目玉焼きのせを二人前、それに食後のコーヒーを一緒に持ってきてくれるかい。
長月はじめはすでに置いてあるフォークとナイフを嬉しそうにいじっている。
よく、この店に来るんですよ。
同じ せりふをもう一度、繰り返した。
やがて、ジャンボハンバーグ目玉焼きのせが二人分運ばれてきたが、前のウェートレスとは違っていた。チーフ長か、コック長か、わからないが、あきらかに、前のウェイトレスよりも地位の高い従業員らしかった。
その男は長月はじめにウィンクをすると、
パイナップルものせておきましたよ。と言ってにやにやした。
長月はじめもにやにやを返した。
パイナップルという言葉に、八島かよは不愉快な感じを感じたが、日本有数の財閥の一族である、長月はじめのことが少しもわからなかったが、これが、庶民もわからないような世界なのかも知れないと思った。
ライスもスープも水も運ばれていた。
かちゃかちゃと音をたてながら、ハンバーグを食べていた長月はじめだったが、急にナイフとフォークを持つ手をとめると、
八島かよの方を上目遣いで見上げた。
あなたにお伝えしたいことがあるんです。
長月はじめは服の腰ポケットのあたりをがさがさすると、きれいな銀色の中東の装飾模様をした小箱を取り出して、
これが、なんだか わかりますか。
と言われても矢島かよにはわかるはずもなく、
長月はじめはまたにやにやした。
目を丸くしている八島かよの表情に満足したのか、その小さなきれいな箱を開けた。
婚約指輪です。あなたにさしあげたい。
箱の中にはダイヤの指輪が入っていたが、それがいくらぐらいのものなのかは、八島かよにも想像もつかなかった。
どうか、受け取ってください。
長月はじめは八島かよの手をとると無理やり指にはめた。
********************
家に戻ってきた八島かよは指輪を貰ったことを母親のとしこに言うべきか、どうか迷ったが、思い切って言ってみた。としこは相手がくれるというなら貰っておけばとあっさりと答えた。
ふとんにもぐってから、八島かよは指輪をはずした。
天井からつるされている四角いカバーのついている小さな電球がゆらゆら揺れている。
今日の出来事で長月はじめが婚約指輪を渡すときの条件というものを出された。そのことは母親のとしこには言っていない。
金山財団医療病院というところに行って検査を受けてほしいということだ。その検査がどんなものなのかは長月はじめは答えなかった。病院の方には伝えてあるからと長月はじめは言った。
八島かよはこの婚約指輪の出来事よりも鉄の扉の男に道案内されていたとき、暗闇の中で急に現れて鉄の扉の男にどなられて姿を消した男の方が、ずっと気になっていた。その気になっている理由というのが、最近どこかで見たことがあるが、思い出せないという理由からだった。たしかに、八島かよはその男をどこかで見たことがあると思った。
自分の家の六畳のたたみまでテーブルの上の昆布のつくだにをごはんの上にのせたとき、その男の顔がふたたび浮かびだした。
まだ、記憶力がかなり劣っているという年齢ではない。二十八才である。数字や記号を覚えるのはむずかしいが、アナログ人間の八島かよにとっては人間の顔を覚えることは、そんなに困難なことではなかった。まして同じ人間である。
箸が昆布の佃煮をつかんだときに思い浮かんだ。
金山財団医療病院で検査を受けたとき、家に帰ってきて、自分の家の玄関で出会った人物ではないか。
かあさん、何日か前にうちに来た男性を覚えている。
私の家のプライベートの写真なんかを見せてくれって言った男。
あんたが、絶対、うちのアルバムなんかを見せたらだめだと言った男だろ。
そう、その人の名前なんか、わかる。
そうだ、その人のことなんだけどね、なんか、本を置いて行ったよ。
その本、まだ、置いてある。
母親のとしこは奥の六畳の方に行くと、本を持ってきた。文庫本でよく、駅の売店なんかに置いてある本である。
ABC文庫、大きさは文庫本と同じで二百ページくらいの文庫本である。
八島かよがその本のタイトルを見ると
卑弥呼は小島に住んでいた。
そして、著者名を見ると
田上京治と書かれている。
これって、歴史の本。
八島かよはその本の表紙と裏表紙を本をひっくり返しながら眺めた。
その本の中身をぱらぱらとめくって見ると、
島根県の沖にある小島の地図などが描かれている。どうやら、歴史研究家のようだった。その歴史研究というのもアマチュアの歴史愛好家の史実を元にしたものではない、ほとんど自分の妄想を書いただけのもののようだった。
田上京治、
八島かよは自分のスマホを取り上げると、田上京治と入力してみた。
すると、その男のホームページみたいなものが上から五番目くらいに出てきた。そこをクリックして開けると、田上京治のホームページが開いた。
そこに出てきた顔は自分の家の玄関で見た顔であり、鉄の扉の男に案内されているときの道すがらに見た顔とも一致している。
そして、信じられないことに自分の住所、というか、古本屋をやっていてその古本屋の住所まで書かれている。
八島かよはその古本屋まで行ってみようと思った。
至近の駅に行くと駅の前には四トンくらいのエンジンの長いトラックが停まっている。それをダンプカーと呼ばないのは車体が思いのほかきれいで、藍色の金属光沢で、荷台には砂利ではなく、ダンボールに入っている洋服なんかが大量に積まれているようだった。それはまるで子供の漫画に出てくる巨大ロボットのようだった。そのトラックの頭の方を通ると、近所の映画館のポスターの立て看板が立てかけてある。三か月くらい前から、宣伝されていた日本の巨匠映画監督の時代劇で、主人公の侍と美形の尼さんが並んで描かれていた。その横を通って駅の中に入ると、無人駅で
いつものクリーム色にアクリル製の線路図の描かれている切符の自動販売機で切符を買うと線路をまたいで駅のホームに立った。ホームには誰もいなかった。ホームの両側は背の低い針葉樹に覆われていて、そのあいだに電柱があり、電線は空中配線されている。
やがて、渋い赤色の電車がやってきて、ホームの前に停まったので、彼女はその五両編成の一番前の車両に乗り込んだ。線路は緩やかな坂道になっているようだった。低い針葉樹の林の中を五十分走って田上京治の古本屋のある駅に着いた。
駅と針葉樹のあいだは枕木が縦にささった柱と柱を鉄線でつないだ柵で隔てられている。
ホームを降りて往復の線路を越えて右に曲がると京かべのような道に出て、ホームから見ると上り路になっていた。そのあがり道の片側に店が並んでいる。
まず、一軒目の店は中国風の造作になっている、飲み屋だった。飲み屋の左側は小道になっていて小道を抜けるとただの草っぱらになっていて、草っぱらの途切れたところはコンクリートの胸壁になり、幅が十メートルくらいの、水面までも十メートルくらいの川になっている。その草むらを背後にして小さな店が並んで建っているのだった。
中国風の飲み屋の隣は下半分が杉の木を縦にはりつけて、上は白い漆喰で固めた居酒屋、その隣が古本屋になっていた。店の前は木枠にガラスをはめた引き戸になっていて、店の全部が引き戸になっている。店の中にはコンクリートで固めた床の上に平台がふたつほどおいてあり、本が平積みになっている。
平積みの本を置いてある平台よりも、何もない床の面積の方が広かった。
店の中に入ると、客は一人もいず、店の中に座れる畳敷きの場所があり、そこに男が座っていた。
八島かよが入ってくると、座っていた男はすぐに反応した。
八島さん、いらっしゃい。わざわざ、ここを調べていらっしゃったんですか。ということは私のお願いを聞き届けてくださるということですか。
田上京治は満面の笑みを浮かべて八島かよの方にやってきた。
そういうわけではありませんが、田上さんが置いて行った本に興味をもちまして、
卑弥呼の本ですか。
そうです。
じゃあ、私を少しは信頼しているという良い兆候ですね。私は決して怪しいものではありませんから。
失礼ですが、その結論はまだ決定させないでください。私がまだ、私というよりも私の一家のプライベートの情報をあなたに提供するというわけではありませんから。
すると、田上京治は本当はあなたのことはすべて知っているんだぞ、という、ちょっと挑発的な表情をしてきたので、それに少し反撃しなければならないと八島かよは思った。
私の家以外の場所で私に会いませんでしたか。
すると、田上京治はちょっと、びっくりしたような表情をした。
あなたは自分が何者であるか、まだご存知ないようですね。しかし私は知っています。
八島かよはこの貧乏学生風の男は大変に失礼な奴だと思った。
一体、何を知っているというの。
田上京治はうすら笑いを浮かべた。
あなたが、ある病院へ行き、検査をされたことを 私は知っています。
その宣言は八島かよにとっては大変に不安を掻き立てられるものだった。
田上京治は店のガラス戸の前に行き、すべてのガラス戸に鍵をかけ、薄汚れたカーテンを閉め切った。
あなたは心に重荷を負っていらっしゃいます。こちらにいらっしゃいませんか。
そう言った田上京治は店の後ろの部屋を開けるとそこは四畳半くらいの部屋がついていて布団が敷かれ布団の四隅にはつけられていない太いろうそくが四本置かれている。
あなたにこれから何かが起ころうとしています。さぁ、こちらに来て、このふとんの上にあおむけに寝てください。四畳半の部屋にさきにあがって手招きをした。八島かよはそこへ行くと、こしかけ、靴を抜いであがった。
八島かよはそのふとんの上にあおむけに寝ると田上京治はふとんの四隅にあるろうそくにライターで点火した。
四畳半の電気を消したのでふたりの姿はろうそくの明かりで照らされているだけだった。
静かに目を閉じてください。
田上京治は八島かよに声をかけた。
八島かよが何も言わずに目を閉じると、田上京治は八島かよの頭のつむじのあたりに両手をそろえて指先で優しく触れた。
何がみえますか。
海岸が見えます、打ち捨てられた漁船も。
そこがどこか、わかりますか。
子供の頃に見たことがあります。もしかしたら、日本海のどこかの海岸かも知れません。
その海をたどっていくと何がみえますか。
たくさんの船が見えます。
どんな船ですか、
木造の船です。それは漁船ではありません。
漁船ではないとすると、どんな船ですか。
戦争のための船だと思います。
さらにその海を越えていくと何がみえますか
ものすごく険しい山が見えます。その山には、きゃあ。
八島かよはびっくりして目を開けた。
八島かよが何を見てびっくりしたのかは、八島かよ自身にも理解できなかった。
何を見てびっくりしたのですか。
田上京治は八島かよに聞いたが、きっと答えることが出来ないだろうと理解しているようだった。
そのあとの準備も出来ているようだった。
部屋の隅に置いてある箱の中から化石の板みたいなものを取り出して八島かよに見せた。
その化石の板というものも、板の表面に文字らしいものが書かれているのだが、その板にはところどころ穴が開いていて、本来はそこに何か、わからない文字が書かれていたのかもしれない。
知りません。見たことがありません。八島かよは答えた。
*******************
八島かよが千九百二十年代に出来たビルにある地下鉄の出口から出ると目の前には自動車が行き来している。出口の左側には花屋と雑誌、新聞がたくさんさしてある店がある。そこには橙色や、黄色や青色や色々な色彩がちりばめられている。
そのスポーツ新聞の束の中のひとつに八島かよは自分の名前を見つけた。
急いで、その新聞を一部買った。
その紙面には大きな文字で、でかでかとそのうえ色違いの文字で
長月はじめ、八島かよ 婚約とかかれている。
トライアンドアミューズメントの本社ビルの中に入っていくと、誰も話しかけてこないが、好奇の目が八島かよに集中していた。八島かよは背中を丸めて歩きたい気持ちになった。
会社の中の自分の席に着くと内線電話がかかってきた。
八島さん、社長室に来ませんか
八島かよは自分の机から離れると、エレベーターのある廊下へと向かった。
廊下を早歩きで進んでいくと、社長室のある階まで行くことの出来るエレベーターのあるホールまで進んだ。金属の静電気、もしくは電圧の変化を利用するエレベーターのボタンを押すとやがてエレベーターはやってきた。
すでにエレベーターの箱の中には四、五人の社員がのっていたが、内心、八島かよに興味津々なくせに彼らはひどく無関心な風を装っていた。
社長室のある階にエレベーターが停まったので、
八島かよはそのフロアーに出た。
そして誰もいない廊下を通って一番奥にある社長室に入っていくと、大きな机と椅子の中にくるまっている社長の長月はじめはマーモットのような表情をしてニタニタと笑った。正直なことを言うと何度見ても長月はじめはきもい。
八島くん、みんなにばれちゃいましたね。いったい誰が見ていたんだろう。でも、僕は少しも迷惑だなんて思っていませんよ。
社長の長月はじめは机の上に両手を組んで、八島かよを見つめた。
私も迷惑だとは感じませんが、少し恥ずかしい気がしますわ。
八島かよはあのドライブでの出来事を誰かが、見ていたのではなく、長月はじめ自身がスポーツ新聞に書いてくれと頼んだのではないかと、考えた。
君が心配しているのではないかと思って心配していたんだ。そうじゃないなら、うれしいよ。
八島かよはこういうのが、予定調和というのかもしれない、もしかしたら言葉の使い方を間違えているかも知れないが、と思った。
八島かよがこの社長室に入るのは初めてである。
部屋の中はマホガニーの色で統一されている。まるでひと昔前のホテルニューオータニの最上級の部屋のようである。
部屋の側面にはやたらに長い棚が置かれ、棚の上には呪術に使うような気味の悪い人形や太鼓や笛が置かれている。
その中に八島かよが見たことがあるものがあった。
社長、あれは。
八島かよは石板に目をとめた。それは田上京治の古本屋の中で見たものと同じだった。
化石をきれいに磨いて、そこに見たこともない、記号、たぶん、文字ではないかと思われるのだが。
田上京治の店で見たものの違いは穴など開いていない、完全な化石をつるつるに磨いた平面になっているということだった。
ああ、あれかい、アフリカのある村で手に入れたものなんだ。あれを買って日本に持ってきたあとで、その地方は内戦で村自体がなくなったと聞いている。
それで、ちょっと悪いことをしたなと思うのは村がなくなる前にその村では誰も話をすることが出来なくなったとあとで聞いたが、本当に呪いの石板だよね。
長月はじめは八島かよの方を見て、またにやにやと笑った。
社長、そのアフリカの石板と似たようなものを私は見たことがあります。
一体、どこで、
長月はじめはまた、にやにやと笑った。
ちょっと、おもしろい話じゃないか、話してごらん。そこに座って。
社長の机のすぐそばには、革製の高級なソファーが置いてあって、長月はじめはそこに座るように言ったので、八島かよはそこに座ると、足を組んで、右手の指先をあごの下に置いた。
少し、その話を僕も聞いてみたいな。
アマチュアの歴史家なんですが、古本屋もやっている人がいるんです。
八島かよは、その男が自分の家にやってきて、かよやかよの一家のプライバシーを知りたがっているということは言わないほうがいいだろうと思ったので、隠した。
たまたま、その人を知って古本屋もやっているし、その場所もわかったので、行ってみたんです。古本屋は駅のそばにあって、坂道に小さな店が並んでいるうちの一軒でした。その店の並びの裏側は草のはえている空き地になっていて、ごみなんかもそこで焼いていたみたいです。錆びた一斗缶が転がっていたのでそう思ったんですけど。空き地の後ろはコンクリートで枠を作ったかなり深い、川になっていて、底の方で水が流れていました。その古本屋というのも、コンクリートの土間の上に平台がちょっぴりしか置いていなくて、本の方もちょっぴりとしか置いていなかったんです。店の前は木枠にガラスがはめ込まれている戸だけしか、ありませんでした。
そして、八島かよは途中の話をちょっと端折った。自分の実家のことが持ち出されると困るからだった。
売り場の奥に四畳半みたいな部屋があって、あなたは何か、悩み事があるようだからセラピーをしてやろうと言われて、その四畳半の部屋に寝かされました。
ニタニタ笑っていた長月はじめの顔は少し、しんけんみをおびてきた。
その具体的な連想治療みたいなもので、八島かよが連想した内容は言わないほうがいいだろうと思ったので黙っていた。
そこにその石板みたいなものがあったんです。
ひととおり話を聞き終わった長月はじめは社長机の引き出しをごそごそとかき回すと、おもむろに その引き出しから取り出したものを机の上に置いたので八島かよも身を乗り出すとそれを覗き込んだ。
ABC文庫、卑弥呼は小島に住んでいた。
田上京治 著
社長もこの本、持っているんですか。ABC文庫。
それはかよの家にある本と一緒だった。
社長は読まれたんですか、私は最初の数十ページくらいしか、読んでいませんが、
僕は全部、読んだ。なんか、かいつまんで言うと日本海にある小島の言葉がすごく、特徴があるという話だったなぁ。君の田舎はどこだっけ、まだ、聞いてなかったけど。
島根県です。
島根の方言って、知ってる。
知りません。
八島かよは答えた。
***********************
昼食はこの本社のなかにある社員食堂でとることが出来る。おぼんを取ったかよはレールの上にそのおぼんを載せ、列に並んだ。冷凍食品をそのまま解凍したような揚げ物と水分の少ないキャベツの載ったおかず皿をとり、ライスと玉ねぎの入った味噌汁を選んで会計をすませると窓際の一列になっているテーブルを選んだ。テーブルそのものが高くなっているので、椅子の背も高い。隣の席が空いていたので、この会社に入ってから知り合いになった天木ゆりえが隣に座った。
婚約、おめでとう。
長月はじめと八島かよの婚約のニュースはスポーツ新聞にでかでかと載っていたから社員はみな知っている。もちろん、街を歩いている八島かよと何の関係もない人間も。
今まで、
天木ゆりえはフオークのさきで、コロッケを弄んでいたが、言おうか、どうか、迷っているようだった。
今まで、何人の女性が社長の婚約者になったか、ご存知。
知らないわ。
生きているのは十一人、死んでしまったのは八人。これが社長の婚約者になった人の運命よ。社長はあたり見境なく、婚約者にしてしまう。婚約の経緯を教えてくれる、
採用されて社長に会うことになり、最初は社長だとわかっていなかったけど、社長に会ったとき、社長みずからに合格だといわれて、そのまま、食事に誘われて、食事先で婚約指輪を渡された。そしたら、それがスポーツ新聞にものっていた。
ふーん、だいたいはそのパターンなのよね。
天木ゆりえは納得していた。
生きているので最上のパターンは今アメリカで宇宙飛行士の訓練を受けている女性のパターンかしら。悪い方は八人、八人が死んでいるのよ。北海道の名前も知らないような沼で溺死した人がひとり、登山中に道に迷って白骨死体になったという例もあるわ。
八島かよは不安になった。会ってすぐに婚約になるというのが、そもそもおかしい。婚約の解消の理由というのはなんだろう。そもそも、その婚約指輪が本物かどうか、多いに疑問がある。
その人たちはみんな婚約指輪をもらっていたの。
八島かよはまだ自分がもらった婚約指輪の鑑定はしていなかった。
それはまたばっちりよ。婚約指輪は全部問題なし、婚約者になった人たちは指輪を贈られて、数千万円の収入になっていることはたしかだけど、死んだ人の中には不審な場合もおおく、警察も動いて、そのうえ社長が疑われた例もあったわ。
八島かよは少し安心した。もののはずみで長月はじめの婚約者になったが、それも会社に採用されてすぐのことであるし、長月はじめのことをほとんど知らない状態だった。婚約指輪をもらって数千万円の収入になれば、決して悪い話ではない、変な病院での検査をされて気持ちの悪いという部分もあるが、
それにしても秒で婚約者を選んで、秒で婚約を破棄する、長月はじめとは一体何者なのだろう。経済界の名門、サラブレッド、大金持ち、婚約をする基準、婚約を破棄する基準、とくに婚約を破棄する基準については興味のある問題である。
会社の勤務時間が終わって、八島かよは駅のそばにある少し大きな、園芸店に入って観葉植物を見ていた。フィカス、モンステリア、カランコエ、いろいろな観葉食物がある。それらを眺めていると八島かよは誰かの視線を感じた。振り返ると八十メートルぐらいさきに、赤、青、黄色のピエロのような帽子をかぶり、やはり、ピエロのような服を着て肩から革鞄を下げた男がこちらを見ている。八島かよがその男を見るとどこかに消えてしまった。そして、いつも帰り道になっている道の途中にある公園の砂場の横にある沖縄まいまいえびすみたいなかたちをした滑り台の影にやはり、そのピエロみたいな男は遠くから八島かよを見ていた。それが何者なのか、八島かよにはわからなかった。次の日は日曜日だった。
長月はじめから電話がかかってきた。
家に来ませんか。
例のセイタカアワダチソウの空き地のそばに建っているクリーム色の五階建ての鉄筋アパートは雲の多い空を背景にして立ちながら八島かよを見つめていた。そのそばに建つクリーム色の電話ボックスは八島かよを追い詰める共犯者だった。
電話ボックスの影に昨日から八島かよのあとをつけているピエロがいる。ピエロのかぶっている頭巾は先が三つに別れ、さきに鈴が付いている。服はダブダブのピエロの服でけばけばしいパジャマみたいなもので、そんな気持ちの悪い男が八島かよの方を見ている。肩には皮鞄を斜めにかけて八島かよの方を見ている。
八島かよは不愉快になってピエロを睨み付けた。
その隙を見て八島かよは小走りに例のセイタカアワダチソウの群生の場所に走り込んでいくと、れいの四角い鉄製の長方形の建造物の前に立っていた。
ガチャガチャと取っ手をいじってもそれは動かなかった。
扉を何度か叩くと、中から鉄の扉の男が出てきた。長月はじめさんの家に行きたいんですが、後ろから、変なピエロみたいな人がついてくるんですが。
八島かよの言葉を聞くと彼女を中にひっぱりこんで、
扉を閉めると入り口の鍵をかけた。階段を降りていくと、また、足元の見えない世界がひろがっている。
歩いていくと昔のブラウン管テレビが山積みになっているが、その大きさも半端ではなかった。積み上げた高さは小さなビルのようだった。それらのテレビは電源が入っていて、南極のペンギンや白熊が氷の上で歩いている。そのさきを歩いていくと、平面になった人間がいったり来たりしている。それらの人間は正面や背面を向いている像はなく、側面の像しかなく、側面の像は前に進んでいくしか運動の方向は選べない、そのあとには麦の穂が数えきれないほどあって、そこを埋めつくし、そのあいだを侵入していくのだが、その中に入っていくのは不可能なはずなのだが、どんどんとその中に入っていけて、前に進んでいくことができた。やがて階段が見えてきた。
着きましたよ。
八島かよがそのドアを開けると、前にみた長月はじめの洋館があった。
*********************
洋館の入り口を叩くと、なかから長月はじめがでてきた
お待ちしていましたよ。
長月はじめはにたにたしている。
八島かよは洋館の中にまねきいれられた。
前きたときと同じように真ん中に大きなテーブルが置かれ左側に二階にあがって行く階段がついている。
二階に八島かよは つれていかれた。
二階には三つぐらい部屋がある。
そのなかの真ん中の部屋に招き入れられた。
ここで待っていてもらえますか。
八島かよがそこに入ると、そこは丸太小屋の家でベッドが置いてあり、そのベッドには白いシーツとふとんがしいてある。
八島かよはベッドに腰かけてから窓際にいくと、窓を半分ほどあけてみた。
あれは、
八島かよは目をこらした。
長月はじめの洋館の庭をあの皮かばんを肩からかけたピエロがあたりを気にしながら近寄って来る。洋館の中に入った。
八島かよの頭の中は混乱した。
どうやら隣の部屋には人がいるらしい。
それは長月はじめか、そしてあのピエロか、それからもうひとり人がいるようだった。
隣で人が言い争っている声がきこえる。
十六パーセント入っているじゃないの。
十六パーセント。
そして、木が擦れるような気味の悪い笑い声が聞こえる。
八島かよはその笑い声はあの気味の悪いピエロに違いないと思った。
八島かよが入っている部屋のドアが開いて沈鬱な表情の長月はじめが入ってきた。
悲しい知らせなんだけど、君との婚約は解消しなければならない。
なんでですか。
君は純粋な日本人ではない。
十六パーセントの外人の血が はいっている。
どこの血ですか
朝鮮半島の血だ。
**************************
八島かよの婚約は解消された。
しかし、八島かよは少しのショックもうけなかった。
かってに長月はじめが思い込んで、かってに話をすすめているだけの話だったが、意外なのは自分は純粋な日本人ではないということだった。
しかし、運のいいことは婚約指輪をただで貰えたことだった。お茶とみたらし団子をもって母親のとしこがやってきた。
今度のことはなんと言ったらいいのかね。
いいも悪いも、長月さんがかってに暴走したはなしだし、それより、私の先祖に朝鮮半島の人がいるんですって。
そのとき、玄関のチャイムが鳴って
八島さん、八島さん、
と呼び掛ける声がきこえた。
誰、
来た、来た。
あのアマチュア歴史家さんよ。
なんで、そんな人を呼んだのよ。
今度の婚約は必ず破談するだろう、その理由は、あなたの先祖にある。その先祖について説明してくれるって言うのよ。
それでみたらし団子を三人分、買っていたのかって、かよは了解した。
母親はアマチュア歴史家を玄関に呼びに行く。母親は田上京治をつれてきた。
田上京治は脇に荷物をかかえている。
かよは田上京治とは初顔ではない、お互いに軽く会釈をした。
としこは田上京治にあぐらをかいて座るようにうながした、と同時にみたらし団子を勧めた。
田上京治はみたらし団子の一番、先っぽについているのを口に入れると、お茶をすすった。
いゃあ、このお茶はおいしいな。
かよは田上京治を小憎らしく、思った。
早く、結論を聞かせてよ。
大変、いいにくいことなんですが、今度の長月はじめ氏との婚約話は破談になったのではありませんか。
母親のとしこは急須を両手でなでた。
そうです。
かよはぶっきらぼうに答えた。
でも、トライアンドアミューズに採用されてすぐに婚約を申し込まれたり、なんて、ふつう考えられないことですよね。まったく、本当に普通では考えられないことですよね。私もおかしいとは思っていたんです。
私は最初から、それはあり得ないと思っていました。すぐにこの婚約は破談になるだろうと。
田上京治は断定的に、かつ得意気にいった。
それはまたどうして、
母親のとしこはやたらに ありがたがって聞いているが、深く考えてその感情を持っているのか、条件反射的にそんな反応を示しているのかはわからなかった。
トライアンドアミューズの親団体、潮汐グループおよび、その一族は純粋な日本人だけしか、一族に加えないという鉄の掟がありました。しかるに長月はじめ氏が選んだあなたは純粋な日本人ではなかった。
あなたには朝鮮半島の血がまじっていたのです。
わたしは、何も、朝鮮半島、韓国、北朝鮮がいい悪い、どうのこうのという訳ではありません。あなた、あなたたち、一家が純粋な日本人ではなく、朝鮮半島の血が混じっていたということを言いたいのです。
朝鮮半島。
八島かよは口の中でつぶやいてみた。
でも、田上さん、私の夫も私も朝鮮半島の人と結婚した人がいるなんてことは聞いたことがありませんよ、おじいさんでもおばあさんでも。
実はもっと昔のことにさかのぼります。
これは朱印船討明伝記という昔の古文書に書かれていることなのですが。
そして、もうひとつ、北朝鮮にある天宝山という山にある写真です。この写真はアメリカの軍事衛星が写したものです。
田上京治はポケットの中から一枚の写真を取り出した。そこには峻厳な岩山の写真がのせられているが、おぼろげに岩の側面は古代の武人の上半身、五十メートルくらいの像が見えるような気がする。これが武人の像であるなら、全長は八十メートルくらいあるかも知れない。しかし、風化作用で表面はぼろぼろになっているので、それが武人像だということはかろうじてわかるだけである。
八島かよはその写真をのぞきこんだ、北朝鮮にある、聞いたことのない山とそこにある摩崖仏みたいなもの、それが私の祖先とどういうふうに関係しているのか、まったく理解できなかった。
結論から言いますと、あなたの名字は尹氏、そのルーツは朝鮮半島にあります。
ただ、それだけ言ってもあなたには何のことかわからないでしょう。
むかし、日本が黄金の国、ジパングなどと、言われて、コロンブスの東洋探検の一因になったと言われていますが、本当にルビーやダイヤ、サファイア、金などなど。
本当に、黄金の国と呼ばれていたのは、今のインドネシア諸島にある王国の方でした。そこから、出てくる富は李氏朝鮮経由で明に運ばれ、李氏朝鮮と明を潤わせることになっていました。
天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は戦国時代を経て禄を求める大名たちのエネルギーの余剰分を西への進出で解消しようとしました。
豊臣秀吉は李氏朝鮮に進攻しました。
亀甲船とか、中学の教科書で聞いたことがあるかも知れません。
当時、西の方は化学の知識が発達していて、毒薬、や毒ガスも開発していました。さらに病気の研究も進み、今でいう生物兵器を使い、疫病を自由に流行らすこともできました。
豊臣秀吉の方はというと、長く続く、戦国時代に火薬の扱いが進歩していたので、多くの亀甲船を延焼破壊することが出来ました。
しかし、何よりも、豊臣秀吉軍を強大にする要因は武人さまがいたことです。
武人さまは身長、八十メートル、体重九百トン、
象二千頭と同様な力を持ち、火の玉に変身すれば、空中を飛行することが出来ます。
李氏朝鮮と明は武人さまが日本にあることを知りました。毒ガスと生物兵器で有利な条件でしたが、この武人さまが動き出したときのことを考えはじめました。
そして、ここであなたたちの先祖である尹氏が出てきます。
色仕掛けで武人さまの動きを阻止しようとしたのです。
武人さまを動かせるのは特殊な呪法を使って日本の安倍晴明の一族とそれとつながった人、
つながった人というのも意味深ですが。
そのとき明の皇帝が色仕掛けで安倍晴明の一族を篭絡するために選ばれたのが、あなたの祖先、尹一族でした。
尹一族のあなたの祖先は日本に渡り、阿部の一族の安倍晴明の八代目の子孫と恋に落ちます。しかし、それもある目的があってのことです。
安倍晴明の一族とつながった、あなたの祖先は呪術を身に着けて、武人さまを動かします。そして日本海での大海戦のとき、安倍晴明の八代目の子孫と対峙して、戦うことをあきらめ、武人さまを今の北朝鮮の天宝山に退却させ、彼女自身は姿を消しましたが、実は日本に渡っていました。
それがあなたの先祖です。だから、あなたは純粋な日本人ではありません。
私の祖先が朝鮮半島出身だったなんて。
八島かよは不思議な大きな感情に包まれた。
それだけではありません。ここに来る前にあなたのお母さんに頼んでおいたのですが。
田上さん、仏壇の奥の方をさがしたら ありました。
母親のとしこは化石を磨いたような、謎の記号の描かれた石を何個か、とりだした。
田上京治は自分の持ってきた、穴がいくつも開いている同じ材料で出来ている謎の石板を取り出した。
八島家にあった、その穴にぴったりはまる石をつぎつぎとはめていくと、
タイムマシンのように、八島かよの心の中に何かが、ものすごい勢いで通り過ぎて行った。
それはまた 思念の集合体かもしれなかった。そしてそれはまた言葉とも言われる。