ぶんぶく狸 第三回 | 芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能人の追いかけを、やったりして、芸能人のことをちょっとだけ知っています、ちょっとだけ熱烈なファンです。あまり、深刻な話はありません。

ぶんぶく狸 第三回
都内の郊外に向かう私鉄のある駅で光太郎は電車を降りた。電車を降りるとまず真っ先に目に飛び込んで来たのはホームの外と内に面している境界線に立っている温泉の看板だった。この電車をどこまでも郊外の方に向かって乗って行くと山間にあるその温泉に行くのだろうか。その看板を横目に見ながら光太郎は改札口へと向かった。駅から外に出るとほこりにまみれた道を光太郎は歩いた。駅から出たところには喫茶店と洋食屋がそれぞれ一軒しかなかった。駅からは南と北のふたつの出口があって南の方はもっと流行っていたが光太郎の出た北口はその二軒しか店はなかった。その洋食屋と喫茶店のあいだの道を歩いて行くと道はさらに狭まり、両脇はコンクリートで出来た塀になっている。そのコンクリートで出来た細道は途中で壁にぶつかり曲がるようになっている。そこいらまで来るともう地面はもう砂利と泥だけの道になっている。曲がったところから両脇は生け垣になっていて生け垣の根もとのところはほこりを被っている。その生け垣の途切れたところに白い看板が立てかけられていて植木見本市と書かれていてその横に小さく植木職人組合と書かれていた。光太郎がその生け垣の中に入ると植木がいろいろなかたちに刈り込まれていた。象のかたちをしたものや、うさぎのかたちをしたもの、子供向けのテレビ番組の主人公を題材にしたものもある。その植木の根もとの地面には小さな看板がさされていてそれが何を表しているか書かれていた。植木職人たちが自分たちのわざを世間に示すためにやっている催しらしかった。しかし平日だと云うこともあり、誰もそれを見に来ているものはいなかった。その植木の少しうしろの方には植木に隠れるようにして名前もわからないような石仏が苔むして少し斜めになりながら立っている。その石仏は母親の足の隙間から向こう側を見ているような幼い子どものようだった。その彫刻のように刈り込まれた植木のあいだを光太郎は足早に通り過ぎた。そこを通り過ぎると錆び付いて開いたままになっている鉄の門のついている入り口があり、その入り口の左側には上野動物園の入り口にあるような大理石で出来たような小さな守衛の寄宿所のようなものがあった。今はなくなってしまったのだが上野の博物館の前の方に上野動物公園駅と云う駅の出入り口があったがその四角い箱のような基底部分にピラミッドをのせたようなかたちをしていた。その守衛の寄宿所のまわりすべてに、手をかざす火鉢が地中に埋められていてその中には水が張られていて金魚藻が入れられ、その中を色鮮やかな金魚が泳ぎまわっている。オリーブグリーンの金魚藻のあいだを赤い金魚が通り抜けしている。火鉢の碧の色とよい対照をなしていた。
 「だからさ、一口のらないかい。前の銀行をやめたときだいぶ貰ったそうじゃないかい。のって間違いはないよ。決して損はしないからさ。時代がこんな時代じゃないかい。自分で資産を増やすことを考えないとね。なにね、川崎に住んでいる甥っ子なんだけど、親戚の中でもこいつが一番出来がよくてね。仙台の方に単身赴任して研究所に勤めていたんだけど、むかしの回転式の洗濯機と云うのがあったじゃないかい。あれと似たようなものなんだけど特殊な金属を使ってね。もちろん原理があの洗濯機に似ていると云うだけだよ。大きさもずっと小さいし、見た目もぜんぜん違うんだよ。何よりもその特殊な金属を見付けたのが重要なことだと言っていたよ。それを仙台にいたときに発見したと言っていたよ。それを使うとマイナスイオンとプラスイオンの結合する速度と確率が五倍になると云っているんだよ。日本国中でそんな反応タンクを持っている工場がどのくらいあると思う。そのことを考えたら大変な利益になるよ。今度その甥っ子が独立することになってね。その経営が軌道にのったら大変な利益になるよ。あんただってたとえ一割の配当を貰うとしてもどのくらいなものになるか」
一人の老人はアルマイトのやかんからついだお茶を飲みながら、電気こんろのそばでするめいかをあぶっている老人に話しかけた。
「あんただってだいぶ前の勤めをやめるとき貰ったんだろ」
いかをあぶっている老人は後ろを振り返りながら言った。彼にはその反応タンクよりも電気ストーブの熱で縮れていくするめの方が重大な問題だった。椅子の端に腰をのせて身をかがめながら電気ストーブの方を見ていた。
「わしの場合は違うわな。会社をたたんだんだからさ」
瀬戸物の湯飲みの中に半分ほど残ったお茶を老人はぐびりと飲んだ。この上野動物園の守衛の宿直所のような場所は外観も中身も骨董的な感じがあった。流しは昔の豆腐屋のようにタイルが貼られていた。水道の蛇口は銀色のメッキがされていず真鍮特有のくすんだ金色をしている。
「たたんだと云ってもだいぶ貰ったんだろう。大番頭のようなことをやっていたと言っていたじゃないか」
いつも昔の自慢話を聞かされて辟易しているもう一方の老人が嫌味を少しとり混ぜて言った。
「たいして貰っていないさ。なにしろつぶれたんだからさ」
片方の老人が少し怒りながら答えた。
片方の老人から少しも金を引き出せないとこの老人は思ったのかも知れない。または本当はそんなことを少しも信じていなかったのだが話しのたねとして言っていたのか、もしくは自分の甥っ子の自慢話しをしたかつたのかも知れない。そのとき出入り口の鉄のドアをノックする音が聞こえた。
「久しぶり」
「若殿」
資金の提供を片方の老人にねだられていた老人は驚いて入り口の方を見た。その口調には喜びが含まれていたが本当に内心から喜んでいるかどうかは片方の老人にはわからなかった。片方の老人も入って来た中途半端に若い男の顔を見た。
「若殿はやめてくれよ。ばか殿じゃないんだからさ」
「結婚してから来ないんでどうしたのかと思っていたんですよ。もう一年にもなりますよ」もうひとりの老人の方も光太郎に軽く会釈をした。
「柳田、ここでしゃべっている暇はないんだ。お墓の掃除に来たんだから、水桶なんかを貸してくれ」
柳田と呼ばれる老人は光太郎といっしょにそこを出ると裏に置いてある水桶とひしゃくを渡した。
「いつもきれいに掃除してあるのできれいになっていると思いますよ」
「いいんだ。自分で掃除しなければ気がすまないから」
光太郎は柳田と呼ばれる老人から手桶とひしゃくを借りると外の小径をてくてくと歩き出した。
 「今のが三輪田の家の一人息子の飯田光太郎かい」
「そうだよ。わしは今でも若殿と呼んでいるんだけどね」
「三輪田グループがつぶれてからどうしているんだい」
「千葉の方に住んでいるんだ」
「時代が時代ならここの経営者と云うわけか」
 ここは都下の墓域でとなりが梅園に接していることで知られていた。むかしはここは飯田光太郎の父親の経営している三輪田グループの所有だった。しかしある経営の蹉跌から三輪田グループはこの地所を手放した。そしてここの墓所の経営はある大手の不動産会社の預かることになった。柳田は三輪田グループの大番頭のようなことをやっていて子供の頃からの飯田光太郎を知っていた。大番頭と云う呼び名からわかるように三輪田グループは近代的な会社グループと云うわけではなく、土地もちの金持ちの資産家が税金の対策上会社組織にしたと云うところだった。三輪田グループが多くの資産を手放してからそれを苦にして光太郎の父親は病死した。大番頭だった柳田克美はもとのグループのこの墓所に管理人として再就職したのだった。
「ここになんで来たんだい。若殿は。まさか昔の自分の持ち物だから栄華華やかし頃の想い出に浸りたくてここに来ると云うわけではないんだろう」
「当たり前だろ」
柳田はその栄華華やかし頃と云う表現の対象が自分のことを言われたような気がして憮然とした表情をした、もしかしたらもうひとりの老人は柳田のいつもの自慢話しの鼻を折ってやる気持ちになって、飯田光太郎を使ってあてこすりをしたのかも知れなかった。しかしもうひとりの老人は意外な怒った柳田の調子、怒ったことと云うよりもその怒った調子が思ったよりも大きかったので、少し話題を変えた。
「誰かの墓を見舞いに来たようじゃないか。誰の墓を見舞いに来たんだ。父親の墓の方は父親の生まれ故郷の方にあるんだろう」
「若殿の学生時代の友人で背振無田夫と云う男の墓なんだよ。なんでそんな人間の墓をわざわざ建てたのか、わしにはさっぱりわからないよ」
 光太郎はその墓の前に来ると深々と頭を下げた。その墓はまだ三輪田グループが存続していて光太郎が自由にお金が使えるとき建てられた。その墓所の一番奥まったところにさるすべりの木なんかを従者に従え、名前のわからない濃い緑色をした背の低い木の生け垣を背景に立っていた。その墓が建てられてからそれほど年月が経っていなかったからまだ御影石を磨き上げたままの状態でぴかぴかしていた。墓の前の線香を立てるところや花を生けるところは誰も最近ここに来ていないことを示すようにきれいになっていた。その墓に刻まれた背振無田夫と云う文字を見つめると光太郎の瞳には安らぎとも不安とも悔悟ともわからないような光が広がった。光太郎はその墓の前にひとりで立ちながらなにかを心の中で語りかけながら立ちつくしていた。
 「光太郎さん」
突然として華やいだ声がして光太郎は振り返った。
「なんで、なんで」
光太郎はうろたえて、二度目に繰り返した声の末尾はふるえていた。
「なんでここにいるんだ」
「光太郎さんが行く先も言わずに出掛けたからついて来たのよ」
そこにはにこにこして飯田かおりが立っていたのである。
「尾行していたなんてひどいぞ。夫婦のあいだでもプラバシーと云うものがあるんだ」
「なんで光太郎さんの行くところはなんでも知っていたっていいじゃないの」
「君が来る場所ではない」
飯田かおりはおこられて一瞬はしゅんとなったが光太郎の肩越しにその墓の名前を読みとった。
「背振無田夫」
その名前を飯田かおりも知っていた。事故で死んだ光太郎の友達の名前だ。しかしその友達にどうしてこうまでも光太郎がこだわるのかわからなかった。
 「ずいぶん立派な墓じゃないか。うちの墓所でも一番立派なところにあるし、墓石も立派だし、墓銘もふつうの墓よりも五ミリも深く刻まれているし、ただの友達の墓なのになんでそんなに金をかけるんだ。きっと若殿さんには後ろ暗い過去があるんだよ」
「どんな」
相棒の言葉には柳田も少なからず興味を持っているようだった。
「たとえば親友とひとりの女を争って、それも若殿はひきような真似をしてひとりの女を獲得したが、親友の方は失恋の痛手から自殺に追いやられたとか」
「まさか」
柳田はもちろん光太郎の妻のことを知っている。その妻と云うのは飯田かおりのことだったが、そうなるとひとりの女と云うのは飯田かおりと云うことになる。
「そもそも若殿の友達の背振無田夫とは何者なんだい」
柳田もそれほど詳しいことは知らなかった。柳田はアルマイトのやかんからお茶を自分の湯飲みについだ。
「そこに松月堂のカステラ巻きがあっただろう。いっしょに食おうや」
ここらへんの住人が少し気がきいていておいしい和菓子と云うと二駅さきの松月堂の和菓子と云うことになる。宿直小屋に据え付けられている戸棚の中に昨日買って来たそれが入っているはずだ。柳田は戸棚を指さした。もうひとりの老人が戸棚をあけるとテレビのコマーシャルでも流れているそのお菓子が入っていた。切り分けられたそれがふたりの座っているテーブルに置かれた。ほとんど仕事場と云っても隠居の茶飲み話しの場所と同じだった。
「若殿は学生と云っても同時に商売をしていたんだ。資金は三輪田グループのあととりだからいくらでもある。別に利益を出さなければならないと云うわけではない。要するに道楽なんじゃがな」
柳田はそう言うとカステラ巻きを切っておいしそうにその一切れを口の中に入れた。
「いつ食べても松月堂のカステラ巻きはおいしい」
「それでその商売、いや道楽と云うものはどんなものなんだ」
聞くほうの老人の調子も気を急く感じはなかった。
「骨董品の買い付けなんだよ。若殿は地方風俗研究会と云うクラブに入っていたんじゃ。どんなクラブかと云うといろいろな地方に行って伝承や古い風俗を掘り起こすのがクラブの目的だと言っていたな。若殿は金があったからずいぶんいろいろなところに行ったみたいだな。北は北海道から南は九州まで行ったらしい。そのクラブの仲間が背振無田夫なんだよ。そこから発展して若殿は地方の郷士の古い土蔵なんかに置いたままほこりを被ったりして金銭的価値がありながら眠っている骨董品なんかを見付けて来てそれを売りさばいていたんだ。クラブの中でもそれに係わっていたのは若殿と背振無田夫のふたりだけだったのさ」
 「今日はもういいんだ。帰ろう」
背振無田夫の墓の前でたたずんでいた光太郎は飯田かおりを前にしてそう言った。しかし飯田かおりの中では何も解決していなかった。なぜ背振無田夫の墓に光太郎がひとりで来たのか少しもその理由がわからなかったからである。飯田かおりは背振無田夫のことは昔から知っていた。いや、その表現は正しくないかも知れない。飯田かおりは昔のある時期の背振無田夫を知っていたと云う方が正しいだろう。いつでも何も包み隠さず話してくれる光太郎が背振無田夫のことになると何も話してくれないのが寂しかった。それ以外のことはなんでも光太郎のことを知っていると思っていた。飯田かおりがこの世の中でただひとり心を通わすことの出来るのは光太郎ひとりだと思っていた。もちろん会う人には誰でも笑顔を向けて親和的な感情を抱こうとつとめている。しかし、特別な身構えもなく心を開けるのは光太郎だけだと思っていたからだ。飯田かおりのこころには永久と云う言葉が思い浮かんだ。その永久と云うのは未来に向かっているのではなく、現在の一点から過去に向かっていた。遠いむかしからお互いに知り合っていたという感覚だ。どんなものかと言えばその感覚と云うのは見知らぬ人間が横町の角からひょっこりと現れて挨拶を交わしたがそのひとことの挨拶が悠久の昔から予定調和のように約束されていてあるべき場所と時間にそれがあり、安定したこころの状態がやどっている。この人は永久のむかしからの知り合いだと云うようなものまである。そういった信念と云うか盲信とか云ったものを飯田かおりは少し傷つけられた。
 「帰ろうか」
光太郎はふたたび言った。
「秋になったらここもきっとずいぶんきれいに紅葉するわね」
光太郎の横を歩きながら飯田かおりはここに生えている落葉樹が秋に色づく景色を想像していた。その言葉の中には秋になったらふたりでまたここに来ようと云う言外の意味が含まれている。
「秋になったらまたここに来ましょうよ」
飯田かおりは微笑みながら光太郎の横顔を見た。光太郎は霊と云うものの存在を信じなかったが死んだ背振無田夫の霊が墓の中から出て来て光太郎の横を歩いているような気持ちがした。なにごとも説明がついて物理的な現象としてとらえることが出来なければ光太郎は認めることが出来なかった。それがなぜ霊などと云う言葉を使って横にいる飯田かおりと云う存在をとらえようとしているのだろうかと考えてみた。そんなことを考えていることを隣りの飯田かおりはわかっているのだろうか。光太郎は物理のことはあまりよく知らなかったがそれが物質と運動と云うふたつの柱を根底にしていることを知っている。しかしすべてが物質から成り立っていると聞かれればうまく答えることは出来ない。ことばなどと云うものが物質から出来ているとは思えないからだ。ことばを表すためには音声にしろ文字による表記にしろ物質を必要とはする。しかし物質そのものではないはずだ。それはこころにも云える。こころが存在するために物質は必要かも知れない。しかしこころは物質そのものではない。飯田かおりと云う肉体の存在がこころにおいて死んだ背振無田夫と同じ作用を光太郎に及ぼしているのが不思議な気がした。そして光太郎は自分なりにもうひとつの哲学めいた考えが浮かんだ。人にはそれぞれただ一つの伴走者が存在するのではないか、たまたま肉体と云うかたちをとるかも知れないがそれはひとつのなにかかも知れない、それは男かも知れないし、女かも知れない、ある時期に共に歩いていた伴走者がいなくなっても、そのあるものがかたちを変えて違う伴走者になるのではないかと云うことだ。この意味で生活していく上での連続性があるのではないだろうか。と同時にこの広大な墓所のすべてがかつて自分が所有していたと云うことがその時点の自分と今の自分にどんな連続性があるのかと考えるとこころの中に空虚感と寂しさが生じた。もし飯田かおりがいなければ自分はその空虚感に堪えられず自殺していたかも知れない。そのとき飯田かおりが急に口笛を吹き始めた。その曲は光太郎の知らないものだ。
「なんだい、飯田かおり、急に口笛なんか吹き始めて、どうしたの」
「あんまり天気がいいから」
こういうのを自然に感応したと云うのだろうか。光太郎はそのときそう思った。
 帰りの電車の中で光太郎はあることを思いついた。このまま家に帰ることはもったいない。飯田かおりに何も背振無田夫のことについて話していない負い目もあった。帰路に大きな遊園地がある。今は貧乏しているふたりではあったがそのくらいの余裕はあった。
「飯田かおり、遊園地に寄っていかない」
「本当ですか」
電車がホームに停まるとかなりの人数の乗客が降りた。休日だからなおさらのことだった。まるで巨大な海竜の背中のような橋を渡って遊園地の入り口に着いた。夜だったら橋の欄干に附いている照明がすべて点灯してきれいなことだろう。まるで現実にいたよりも巨大な剣竜の背鰭がきらきらと輝いているように見えることだろうと思った。アラビアンナイトの不思議話しに出てくるような変なかたちをした入り口をくぐって中に入ると人間がたくさんいた。いろいろな時代の意匠を凝らしたいろいろなアトラクションがあって人が並んでいる。その行列を見ながら光太郎は飯田かおりといっしょに奥へ奥へと進んで行った。生け垣が迷路になっているところを横に入って行くと三角の迷路のような場所があった。ここは人が並んでいなかった。ふたりが奥に入っていくと太ったアラビア人のような男が入り口に座っていて小さな椅子に腰掛けながら客待ちをしていた。ふたりの姿を見ると声をかけた。光太郎と飯田かおりはフリーパスを持っていたからどこにでも入ることが出来たのだがなによりもそこは並ばなくてよいので助かった。しかし中にどんなアトラクションがあるのかわからなかった。
「お客さん、入っていきなよ。定員はふたりだよ」
「どんな趣向なんですか」
「つりだよ」
アラビア人はぶっきらぼうだった。
光太郎は自分の趣味に合っていると思った。「ふたつ仕掛けがあるだろう。それぞれのところに入って行って釣り竿を使って獲物をとるのさ。近くから遠くまでいろいろな獲物があるからね。それの合計でここにある商品をあげるんだよ」
そのアラビア人の後ろにはいろいろなキャラクターグッズが置かれている。ふたりはそれをやることにした。中にはふたり分の遊具が置かれていて、要するに円弧があってその上に獲物が置かれている。真ん中に入ることが出来るようになっていてそこから釣り竿を使って獲物を捕るようになっている。もちろん時間制限はある。光太郎と飯田かおりはそれぞれの円弧の中心に入って獲物を狙った。光太郎は円弧の中にある獲物を見回した。手近なところには枕とか電気トースターとか、身近なものがおかれている。遠い場所になると世界一周とか、大企業の社長の地位とかが書かれている。光太郎は当然遠くにあるものの方が得点としては高いものだと思いせっせと遠くのものを釣り竿でとった。飯田かおりの方を見ると、電気こたつとか、洗濯機とか犬小屋とかちんけなものばかり集めていた。光太郎はその様子を見て笑った。飯田かおりはあまり釣り竿を使ったことがないらしく難儀をしていた。やがて時間が来てゲーム時間が終わったのでアラビア人のところに行って取った獲物の得点を数字化した。するとアラビア人が言った。
「だんなさんの得点は二十一、奥さんの方は五十六だよ」
「おかしいじゃないか。遠くにある方が得点が高いだろ」
「それが逆なんだな」
飯田かおりが喜んでそのままふたりは弘法池のほとりの自宅に向かった。
 弘法池の朝靄に包まれてオートバイのエンジンをふかす音が聞こえて牛乳配達の牛乳の瓶がかちゃかちゃと鳴る音とともに光太郎は目をさました。飯田かおりはすでにふとんから抜け出していた。光太郎がまだ大金持ちだった頃は朝になると自動的に暖房のスイッチが入ってぬくい中を起き出してくることができたから彼の生活状態は零落している方に多いに変化していたと云えるだろう。隣りの敷かれているふとんを見ると飯田かおりが寝ていたふとんは彼女の身体の抜け殻がそのままにかけぶとんがトンネルのようなかたちをしている。枕もとにある蛍光塗料で光る文字盤を持った目覚まし時計を手を伸ばして取ってみるとまだ出勤まで時間はだいぶある。光太郎の中では寝ていることが彼の出来る数少ないぜいたくのうちのひとつだったからまたふとんの中に潜り込んだ。
 飯田かおりはサンダルを引っかけて弘法池に面した裏庭に出た。家の中よりも外のほうが明るかった。ばけつの中につけおきしておいた洗濯物を家の中に取り込もうと思ったのだ。松の木の根もとに石畳をひいてそこが雨でも濡れないようにしてある。その石畳の上にきのうのうちに洗剤の入った水になかなか汚れの落ちない洗濯物を入れておいたのだ。弘法池の上にはもやがかかっていてその切れ間に池にさしてある小舟をつなぐための竹の杭だけが見えた。裏庭も少しもやっている。石畳が濡れている。そしてばけつがひっくり返っていた。 「光太郎さん、ばけつがひっくり返っていたのよ」
ちゃぶ台の前に座って新聞に目を通している光太郎に少し目をふせながら飯田かおりは誰に抗議するともなしに言った。
「犬かなにかがひっくり返したんじゃないかい」
「でも洗濯物が少し汚れてしまったわ。また洗濯をしなおしたのよ。前にもこんなことがあったのよ」片手に飯田かおりは御飯のしゃもじを持っていたがその手は空中で止まっている。
「犬が興奮する何かがその洗濯物にあったのかな」
光太郎はあくまでもその洗濯物の入ったばけつをひっくり返したのは犬だと結論づけていた。また犬と闘牛の牛の違いもわからないようだった。
「洗濯物の入ったばけつだけではなかったのよ。この前はまんりょうの盆栽の鉢がひっくり返されていたんだから」
そんな盆栽が裏の庭にあるなんてことは光太郎は知らなかった。
「そんな盆栽があるなんて知らなかったな。きみが買ったのかい」
「違うわ。この家を買ったとき最初からついていたのよ」
「じゃあ、地主が最初からサービスで置いていったのかも知れない」
「そんなことより庭に柵をこしらえるのはどうかしら」
飯田かおりは裏庭に柵をつける姿を想像していた。
「でもお金がかかるよ」
「そう」
裏庭には柵がなかった。自分の家の敷地と他の部分の境がどうなっているのか、はっきりしなかった。もっとも土地は光太郎のものではない。借地だった。飯田かおりはなにかを考えているようだった。飯田かおりにはある考えが浮かんでいた。光太郎の家と隣の家の間に大量の木材が放置されていてどこかの大工がこの近所に建物を建てて余った木材を回収するのが面倒でそのまま棄てていったものだ。家の建築部材にするには寸足らずだったが柵を作るぐらいのことは出来る。
「隣りの家のあいだに木の廃材が棄てられているじゃない。あれで柵を作ると云うのはどうかしら」
光太郎は驚いた。
「きみが作るのかい」
「柵ぐらいはわたしでも作れるわ」
「いいよ。休みの日に僕が作るから」
飯田かおりは少し不満そうだった。もしかしたら経済的な理由からと云うよりも自分でそれを作りたかったのかも知れない。光太郎は飯田かおりの中に自分の知らないなにかを発見した。光太郎の頭の中には玄関の下駄箱に入っている大工の道具箱の映像がうかんだ。のこぎりひとつに金槌しか入っていない、そののこぎりも少し錆び付いている。
そののこぎりを不器用に扱って木の板を切っている飯田かおりの姿が頭に浮かんだ。もちろんその発想は光太郎にかかる負担を軽減しようと思っているからだろう。
 食べ終わった御飯の茶碗にお茶を注いで飲んでいると、ラジオのニュースで岩淵鉄源と云う名前が五球スーパのラジオのスピーカーから流れて来た。たまたま新聞を読んでいたらその名前が大きく載っていた。岩淵鉄源は保守党の大物政治家でいろいろなところに大きな力を持っていると云われている。裏ではいろいろとあくどいこともやっていたと云われている。それはもちろん週刊誌を通した光太郎の知識であり、まったく無力な庶民である光太郎とは縁もゆかりもなかった。しかしある外国で不当に政治犯として抑留されていた漁民をその国の大統領に直談判して釈放、帰国させた行為は最近のことであり、そのことを全くの非力な光太郎は英雄的行為として見ていたのだ。一種のあこがれめいたものもあった。ラジオのニュースでも新聞でもその岩淵鉄源がある問屋組合に不当な働きかけをしてその利益の一部が岩淵鉄源のふところに入るように役所にある部署を作ろうとしていたと云うことをすっぱ抜いていた。光太郎はあの英雄的活動と自分のふところをぬくませようとする行為の懸隔にとまどった。詳しい内容を知れば知るほどそのやり方と云うのがみみっちいものであり、一時は英雄として彼をあがめた自分が恥ずかしくなった。つまりその人を見る目のなさがである。
「まんまと騙されたよ」
光太郎は香のものをかじりながら、ある種の恥ずかしさと照れくささに堪えられず、飯田かおりにそういう表現を使った。ちょっとした話しのおりに光太郎が岩淵を賛美していたことをもちろん飯田かおりは覚えていた。
飯田かおりは光太郎が岩淵鉄源を英雄として上気した表情で語っていたことがあったのを覚えていたがそのことは言わなかった。
「いいじゃないですか。別にあなたが悪いことをしたと云うわけではないんですから」
この言葉にそのあと五、六行、岩淵鉄源を批判する言葉を用意していたのだが腹の中でなえてしぼんで消えてしまった。風船のせんを抜くほどの効果があった。
「そうだな、別に自分が変なことをしたと云うわけではないのだから」
光太郎はいつものとおり飯田かおりの用意した弁当を持って家の玄関を出た。自分の家の前の道に出ると田圃と池にはさまれた道を向こうから揃いの服を着た女の子が歩いて来る。もちろん以前見たことがあるから光太郎はその幼いふたりが誰だか知っていた。
「あれは地主の家のふたりの娘じゃないか。家が弘法池の向こうにあるのになぜこっちの道を通るのだい」
飯田かおりも家の前の道に出てそのふたりの歩いているのを見たふたりはまだ光太郎たちの会話が聞こえない場所を歩いている。
「向こう側の道を通って学校に行くと川で道が途切れるそうですよ。それで弘法池の外周を大きくまわってこの道を通って学校に行くそうですよ」
やがてふたりの女の子は光太郎の家のそばに近寄って来た。女の子の顔がはっきりと見えた。前に見た顔と同じだった。小さな顔のわりには口が大きく、まるで不思議な国のアリスに出て来るチャウチャウ猫のようだった。ふたりは口の両もとに力を入れてにやりと笑った。そしてぺこりと頭を下げた。過ぎ去ったふたりの姿を目で追いながら飯田かおりは急に思いついたように光太郎にたのみごとをした。
「光太郎さん、帰りにレモン堂のシュークリームを買って来てくださらない」
レモン堂は有名な洋菓子屋で東京にしか店がない。それで東京に勤めに出る光太郎にそれを買って来て貰うように頼んだのである。
 光太郎は駅のホームに立って線路の向こう側に見える崖を見ていた。ホームの片側は旅籠屋や陣屋、弘法池がある方になっていたが線路を隔てたもう一方の側は岡のようになっていて岡の一部を削って駅が建てられていたので急な角度のある崖のようになっていた。その崖の側面から中くらいの大きさの木が横から伸びて急に角度を変えて上方に伸びていっている。木の根もとあたりには苔がむしていた。千葉の田舎の町であるのに南洋の湿地帯にいるような気が光太郎にはした。
 光太郎は東京に向かう列車を待っていた。やがて小豆色をした列車が駅にすべり込んで来た。一番うしろの一両は郵便車になっていて列車が止まると駅員がカーキ色の郵便の入った袋を一番うしろの車両に投げ込んだ。その様子を光太郎は見ていられたから客車のドアが開いている時間には余裕があった。
 やがて列車は走り出し、見晴らしのよい場所に出た。この駅から乗り込んだ乗客はまだあまりいないので確実に座ることが出来る。光太郎は窓の側に席をとって緑色のモールの座席に腰をおろした。窓の外からは少し離れたところに海が見える。ところどころ漁師の番小屋が点在している。浜には小舟がつながれている。光太郎はそれらの景色を見ながら途中下車したことがないそれらの場所に思いをはせた。いつも列車の中から通り過ぎる景色を見るだけなのだが列車の中から見ているのとは違って降りてその場所を歩けばまた違う匂いがあるのかも知れない。ときどき勤めの帰りにその場所を尋ねてみたいと云う考えもあるのだが帰りにはいつも夕方近くになっている。そして途中下車をする理由がみつからない。理由が見つからなければ行動する意欲がわかなかった。光太郎の生活は自分自身と云うよりも外部のものに既定されていた。それをなにも勤めと云うつもりはない。勤めよりももっと大きなものかも知れない。しかし大きなものとはなんだろう。そこでまた光太郎の考えは自分の内部に向かった。やはり自分の内部にあるのではないか、自分の内部の大きなもの、勤めが大きい、東京が大きい、日本が大きいと言ったところで実はもっと大きいものが内部にあるのではないか、それらは物理的な大きさであり、光太郎には無関係な大きさであるとも云えた。光太郎はその大きなものに支配されて途中下車をする面倒をおこさないのであった。そして近所の散歩で我慢して、妻の飯田かおりの笑顔に心の満足を求めている。十年前の光太郎はそうではなかった。背振無田夫と供に日本国中を古農の土蔵の中に忘れられた骨董を求めて旅をしていたのだ。本当にすっかりと変わってしまったものである。
 やがて茶色の列車は東京に着いた。ここで光太郎は市電に乗り換えて勤めに向かった。勤めにはロボットのように人がその中に吸い込まれて行った。もちろん光太郎もそのロボットの一人である。光太郎は壁際にある九十九折りになっている階段を急ぎもせず、遅れもせず、のぼって行った。水色に近い灰色でその壁は塗られていて踊り場に一段上がるごとに壁には小さな四角い窓が切られていてガラスも入っていなかった。階段を上がりながらその窓を見上げると空が見える。いつだったか、そこに女子社員が花瓶に花をいけて飾ったことがあったが窓ガラスも入っていないので窓から外に花瓶が落ちて行ったら危ないと上司がとりかたずけさせた。しかしそのときの印象が残っているのか、光太郎はその窓を見上げるとその花瓶と花が見えるような気がするのである。
 光太郎が自分の机に座ると上の階から運ばれた仕事が机の上に置かれ、光太郎が来るのを待っていた。そして光太郎はロボットのようにそれらの束を持つとエレベーターに乗り込み、アコーディオンのシャッターをしめるとエレベーターは二階下のフロアーに着いた。エレベーターを降りた光太郎は左に曲がり、鉄板で表面に小さなばつ印が大量に滑り止めのために浮き彫りにされている床の上を歩いて少し下り坂になっている通路を降りて行って二階南作業室と書かれた看板のある部屋の中に入った。そこにはやはり机が置いてあって光太郎は自分の仕事をその机の上におろした。
 一枚仕上げるといくら貰えると決まっている仕事で光太郎は自分で午前中にやる分量を決めていた。しかし仕事の量は決まっているのであまり早くやりすぎても次の仕事はないのである。そのうえ早く帰ることは出来ないと云うきまりになっていた。夕方まで勤め場所にいなければならなかった。
 光太郎は自分で決めた分量の仕事を終えたのでここに勤めている人間がみんな使っている大きな食堂に行った。光太郎と同じように午前中の仕事を終えた人間がそこに集まっていた。そこはこの建物の地下にあり、もともとここはむかし大きなビール工場だったので、その地下はビールをつめた樽の倉庫になっていたからまるで中世の画家のプルューゲルの絵画に出て来る職人の工房を大きくしたような雰囲気があった。天井に大きく伸びたむき出しのはりなんかもその象の皮膚のような表面がそんな演出を手助けしていた。しかしここで働いている人間の慰労をねがって食堂をわざわざそんなふうにしたと云うのではなかった。前に述べたようにたまたまそういうところを仕事場にしたと云うだけのはなしだった。
 光太郎はまかないのところに行くと自分で選んだ食事の盆を取って広間の中央あたりにあるテーブルに座った。まわりには知り合いがひとりも居なかった。そのテーブルには光太郎の働いている階の上の上の階にある人間が座っていてグループで来ているらしく世間話しをしていた。その中のひとりも光太郎は知らなかった。光太郎はひとりで食事をしながらそれらの会話を聞くともなく聞いていた。
「岩淵鉄源が捕まったじゃないか。僕はあの男に一票を入れたんだぜ」
「岩淵鉄源ってなに区だったっけ」
「麹町区だよ」