大江戸パープルナイト  第三回 | 芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能人の追いかけを、やったりして、芸能人のことをちょっとだけ知っています、ちょっとだけ熱烈なファンです。あまり、深刻な話はありません。

大江戸パープルナイト  第三回
☆子犬のワルツ
すっかりと期待を裏切られて落胆の色がその背中にあらわれているくのいち井川遙が忍法博士マイケルくんの部屋を出て行こうとすると、急に思いついたようにマイケルくんは古びた机の上でにっと白い歯を輝かせて遙を呼びとめた。
「ちょっと待ってください。あの方なら、あの方なら、山田優のほっぺたのマークを消せることが出来るかも知れない」
「えっ」
呼びとめられたくのいち遙は座り机の前で正座して熱い視線を自分の方に向けている忍法博士マイケルくんの顔をまじまじと見つめた。
「あの方って」
「古今を虚しくする恋愛忍法の大家、武田鉄也導師です。今は市井の人となり、城下のどこかに住んでいるはずです。武田鉄也導師の恋愛忍法の精華に較べたら僕の忍法の研究などは児戯に過ぎません。そもそも忍法はすべて恋愛忍法をそのもとにしています。遠く平安京のむかしから恋愛忍法は脈々と続いているのです。われわれのやっている忍術、いや、くのいちの技などはみな恋愛忍法の一部に過ぎません。武田鉄也導師はそのすべての恋愛忍法に精通しています。恋愛忍法の世界は武田鉄也導師にとって自分の住んでいる小さな町に過ぎません。そして導師は町内会でその町のすみずみまで熟知している古株なのです。導師の年齢はすでに千才を越えているといわれています。これは導師の若い頃の話しなのですが遠く中国に渡ったことがあります。そこで貧乏な一族に会いました。一晩の食事と寝床のお礼に何かお礼をしたいと言ったとき、彼らは皇帝のきさきをわが一族から出したら、わが一族の繁栄は約束されるだろうにといいました。すると武田導師は小屋に飼われた一匹のうさぎをつかまえると恋愛忍法をかけました。すると、そこに絶世の美女が生まれ、お風呂に入りたいというのでお風呂につかわせると、その肌をつたう汗は白い花びらとなりました。その一族が栄華を極めたのは言うまでもありません」
「恋愛忍法なんて、いわれたって。でも、魔法みたいなものなんですね。でもそれを使えば優ちゃんのほっぺたのマークもきれいに消えるんですね。忍法博士さん」
くのいちはるかはその名前を口の中で繰り返してみた。
「導師なら逆ディープキス返しの技を解くことが出来るでしょう。しかし、そのための料金が必要となります。それはけして安くはありません」
「マイケル博士、ありがとう、ためしてみますわ」
くのいち井川遙の顔は急にバラ色に輝いた。
井川遙はマイケル博士に礼を言うとその部屋を出た。
翌朝、くのいち屋敷の雨戸を開けると前庭に植わっている竹林のあいだから上がってくる日が笹の葉にぶら下がっている水玉をきらきらと輝かした。
「いいお日より」
山田優の部屋に入って行くと壁の横についている寝床の中でふとももでかけぶとんをはさみながら、すやすやと寝息をかいている。くのいち優のふとももはあらわになっていた。くのいち屋敷の寝床は壁の横についていて、もし敵が襲ってきたときは壁についている秘密の戸を使って他の部屋に逃れることが出来るのだ。
そのために変な位置に寝床がついている。
山田優は目を閉じ、唇を少し開け、寝息をたてながら掛け布団をくしゃくしゃにして抱きしめている、天上での世界を夢見ているようだった。
「優ちゃん、起きなさいよ、起きなさいよ」
くのいち遙が寝ている山田優の肩を揺さぶると眠い目をこすりながら十一号は上半身を起こした。
くのいち山田優はふとももの半分のところまでしかない薄すみれ色のネグリジェを来ていたが、くのいちらしくない格好である。
「こんな姿で敵に襲われたら、どうするんですか」
山田優の太ももは半分以上あらわになっていて胸もそのための下着がないためにその束縛される不自由から解放されてその頂点を向く角度が九十度以上になっていた。
「鳴子を仕掛けてあるから大丈夫よ」
くのいち屋敷のまわりはてぐすが張られ、侵入者が来るとそれを知らせるようになっているし、庭にはいくつも落とし穴が掘ってある。
「優ちゃん、いいお知らせよ。これから城下に行くのよ。さあ、はやく服を着てちょうだい。あなた、気にしていたじゃないの、その変なほっぺたについているピンク色のハートのマークについて、いいお医者さんが見つかったのよ。忍法博士マイケルくんの紹介よ」
くのいち優は上半身を起こし、ネグリジェを脱ぎ捨てると、小麦色の肌の上に下着をつけた。
「マイケルくんの紹介じゃ、やぶ医者じゃないの」
くのいちはるかはその人物が恋愛忍術仙人だということは隠しておいた。
そして、ほっぺたに出来たしるしが忍法ディープキスが逆に阿部寛に返された結果だということも。
さらに、その逆デイープキスの技を仕掛けられたということも、阿部寛が山田優の運命の人かも知れないということも。
もし、そのことを山田優に言ったら、彼女は大騒ぎをして取り乱すに違いない。
それどころかむやみやたらに暴れ出すかも知れない。とにかく優にとって、あの男は唐変木のあごひげむしゃむしゃの男に過ぎないからだ。
ふたりはくのいち屋敷を取り囲んでいる森の中を、木の高枝から高枝へと飛び移っていた。
森の茂みが途切れるところにほとんど人が来ない寺があって、ふたりはそこの仏像の裏の隠し戸棚に忍者の衣装を隠し、町娘の姿に着替えた。
仲の良さそうな町娘がそこに現れた。
ふたりは田んぼの横の用水路につながれている小舟を盗んで、もやいを解くと小舟はまだ背の低い稲が水の上からちょこんと顔を出しているいくつもの田んぼを横に見ながら春の日の下をなめらかに下流に下って行く。
やがて小舟は江戸の町に入った。
ふたりは橋の下の人の目につかない場所にたくみに櫓をつかい岸に寄せると小舟を半ば朽ちた川面から飛び出ている杭につないで岸に飛び移った。
「江戸の町なんて久しぶりね、姉じゃ」
「せっかく来たんだから、何か、おいしいものを食べなきゃ」
ふたりの意見は一致したが財布の中に一銭もあるわけではなかった。
しかし、くのいちにとって財布の中が空っほ゜などということはなんのその行動の障壁ともならない。
「すっごく有名なおそばやさんがあるって言う話しじゃない」
「知ってる、くのいちナンバー3の裕子が言っていたわ」
くのいち屋敷には多数のくのいち達が住んでいた。どれもおとらずの手練れである。
夜な夜なむじなが出没するといわれている佐賀藩の下屋敷を三丁ほど下ったところに江戸でも評判のそばや玉露庵があった。
ふたりはその玉露庵に行くことにした。
最初ふたりはそこが小さな町家を改造したぐらいの店だと思っていたが、ちょっとした旅籠ぐらいの大きさがあり、何人もの女が働いていて、客もたてこんでおり、客たちのおしゃべりや蕎麦をすする音が華やかな雑音としてふたりの耳に入ってきた。ふたりが玉露庵と障子紙におお書きされた引き戸を開けると、月夜に照らされた夜の江戸の町の透明感とはまた違う、喧噪が充満しているもやった世界がそこにあり、座っていた客が振り返りながら注文したそばがまだ来ないと店の女に苦情を言っている。客席と下半分の高さしかない壁で区切られた、縄のれん越しに見える蕎麦をゆでている場所には天井の上の方にまで湯気がたちこめている。
「優ちゃん、あそこ、あそこ」
大きな杉の木を縦に割ってその割れ口を磨いて平らにしたみたいな机が空いているのを見つけて、くのいちはるかとくのいち優はそこに座るとすぐに店の女が寄って来て
「お客さん、何になさいます」
と言ったので山田優は盛り蕎麦十枚と答えた。
「すぐにね、別にあとから連れが来るというわけではないから」
とも付け加えた。
「優ちゃん、やだわ。盛り蕎麦十枚だなんて」
「姉じゃ、食べられるわよね」
「もちろん、食べられるけど、でも、どうして、つれが来ないなんて言うの」
「くのいち八号から聞いた話よ、くのいち八号、天ぷらそばとおかめそばと合鴨のせいろを注文したら、いつまでたっても料理が運ばれて来なかったんですって、そのあいだもあとから入って来た客にはどんどんと蕎麦が運ばれてくるし、一緒の時間に店に入った客は食べ終わってそば湯まで飲んで店を出たし、とうとうしびれを切らしたくのいち八号は
わたし、ずっと前に注文したのに、ぜんぜん料理が運ばれて来ないじゃないの、一緒に店に入った人はとおの昔に店を出て行っちゃったじゃないの。わたし、怒っちゃうわよ。
そう言ったら店の女の子が
お客様、随分とたくさんお召し上がりなさいますから、てっきりお連れ様が来ると思いまして、あまり早くお出ししてもまずくなってしまうと困ると思いましたので、お連れ様が来るまでお待ち申し上げておりました。
って言ったんですって、
くのいち八号、すっかり恥ずかしくなって顔を真っ赤にしてしまったって言っていたわ。
わたし達のところでも、いつまで経っても蕎麦が運ばれて来なかったら、困るじゃないの、
だから前もって言っておいたというわけ。
でも、わたし、そばって好きだわ、するするすとお腹の中に入って行くし、あののどごしがなんとも言えないのよね」
くのいち山田優が机の上に置いてある七味唐辛子の入った木製の小瓶をお手玉をいじるように触りながら言った。
「もうそろそろ始まるんじゃないの」
濡れた髪をうしろで束ねたままにしている湯上がりの女が前に座っている瓦版や風の男に話しかけると、その男は店の真ん中の柱の中くらいぐらいの高さのところに視線を移したので、それに興味をひかれてふたりのくのいちたちもその視線のさきの方を見た。
そこには変なものが飾られている。
何のまじないだろう。
それとも何か宗教的な意味合いがあるのだろうか。
店の中央に大きな柱が一本立っているのだがその柱の真ん中ぐらいの高さのところに仏壇や神棚を飾るための台みたいなものが拵えてある。
しかし、面妖なことにそこには民間宗教の信仰の対象にもなりえないものが飾られているのだった。
台上にはちょっとした木の台が置かれていて、その木の台自体には何の意味もなく、その飾られているものを固定するという意味合いしかないようだったが、その木の台の上に珍奇でかつ凡庸なものが飾られていた。
不思議そうな顔をしてそれを見ているふたりのくのいちに、首に手ぬぐいを巻いた大工らしい若者が話しかけてきた。
「お姉さんがた、江戸っこじゃないね、よそ者だね、どこから来たんだい」
と下心、見え見えで、色っぽい、ふたりのくのいちを見た。
目の玉がくるくると球面運動をしている。
「ふん、わたしたち、生粋の江戸っこよ。墨田川で産湯をつかったんだから」
「姉さん方、嘘、おっしゃい。これを知らないなんて、江戸っこは、みんな、これをはじめているよ、もう、そろそろ始まるんじゃないかな」
その木製の箱の上にはお茶碗が横向きに置いてある。
木製の箱があるのは茶碗が転げないようにするためだけだというのは明らかだった。
ふたりのくのいちは何が始まるのか、わからなかったが口は開かなかった。
すると、突然、音楽が流れ始めたのである。
それも何の変哲もない御飯茶碗からである。
店の中にいる江戸っ子たちはみんな聞き耳をたてた。
「さあ、エブリバディ、グットイブニング、ニダニダ、お江戸の夜に夢の一夜をお届けするヨン様ですニダ。お江戸のみんな、今夜はどんな夜を過ごしているかな。
神田明神の富くじは明日、発売だよ。みんなに幸運があるように。ニダニダ。
深川の植木職人の三助さんから、味噌屋の小梅ちゃに伝言だよ
小梅ちゃん、好きです、結婚してください。おいらは一度会ったときから小梅ちゃんのことが好きになりました。
さあ、熱い三助さんからの告白ですニダ。
今夜も素敵な夜を
キューウーーー
 ヨンさまの江戸紫の夜、始まるよ。
これから丑三つ時まで、みんなつき合ってくれよニダニダ」
それから、電気三味線の音が入り、
その音楽に合わせて、蕎麦屋にいる若者は身体を揺らしている。
「なに、これ」
「江戸の町は一体、どうなっているの」
この面妖な事態に、起こっている事象自体が面妖だというのではない。
確かに、この声は聞き覚えがある、それどころか、その声の主を山田優も井川遙も知っているのだ。
「阿部寛の弟、ペ・ヨンジュ」
ふたりのくのいちは期せずして声を合わせた。
そして、驚愕となかばあきれた感情を持って顔を合わせた。
ふたりの瞳の中にはお互いの驚いた顔が映っている。
何の変哲もないお茶碗の中から、ペ・ヨンジュの声が聞こえてくる。
「アンニョン・ハセミダ、葉書職人くりくり坊主からのお葉書ニダ
幼稚園児がお母さんといつも一緒にふとんに入って寝ることにしていたニダ。
ねえ、ママ、僕の願いを何でもきいてくれるニダか、
ええ、かわいい、かわいい、わたしの息子、子ヨンジュ、何でもいいわよ。
あなたの願いは何でもいいわよ、かなえてあげる。そのかわり、わたしのことチェ・ジュウ・ママと呼んで」
「いいよ、ママじゃなかった。チェ・ジュウ・ママ。恥ずかしくて言えないんだけどニダ。
僕のお手手、さっき外に行ったから冷たくなっているニダ。
暖めて、暖めてニダニダ」
「いいわよ、子ヨンジュ。暖めてあげる」
「ママのおへその穴に指、入れていいニダ。指が冷たいだもんニダ」
「いいわよ、子ヨンジュ」
しばらくすると子ヨンジュは変な感覚を覚えた。
チェ・ジュウ・ママも変な感覚を覚えた。
「やめて、子ヨンジュ、そこはおへその穴じゃないのよ、ああん、それに。子ヨンジュの指、大きくなっているじゃない」
「へへへへへ、僕が入れたのは指ジャナイニダニダニダ」
ばんとテーブルを叩く大きな音が聞こえた。
「下ネタじゃないの、下ねたじゃないの」
「確かに下ねたね」
「あいつの弟がやりそうなことだわ」
くのいち山田優は歯をぎりぎりとならした。
そして立ち上がり、あたりを見回したが息巻いたまままた座った。
「優ちゃん、落ち着いて」
「何よ、これ。江戸の町は一体どうなっているの。下品、下品、下品だわ」
山田優の憤りはまだ収まらなかった。
「やだあ、姉じゃ、わたし、弟がこんなことをやっている兄とディープキスをしたの。
やだあ、やだあ」
くのいち山田優はさかんに地べたにつばを吐く仕草をした。
「おえおえ」
「優ちゃん、そんなに気持ち悪がらなくても」
「これが気持ち悪い以外のなんなのよ。姉じゃはあの男に会ったことがないから平気でいられるのよ。顎から出ているあごひげの気持ち悪さや、鼻の穴から出てくるあいつの息を、私、吸っちゃったんだもん、ああ、思い出してもむかむかする、あいつの体臭が残っていたらどうしよう、ああ、寒気がするわ」
「馬鹿なこと言わないで、優ちゃん、お風呂に入ったんだから、あの人の体臭なんて残っているわけないでしょう。馬鹿ね、あんた」
ペ・ヨンジュの茶碗から聞こえてくる声はまだ続いていた。
「次は向島に住むおけいちゃんから来たお手紙ニダ。今晩はヨン様、いつもヨン様の江戸紫の夜、楽しみにしています。わたしは十三才です。近所のおばさんの家に行って裁縫を同じくらいの年の女の子と一緒に習っています。そこでもいつもの話題はヨン様の江戸紫の夜のことです。みんなヨン様のファンですよ。うれしいニダ。うれしいニダ。みんなで浴衣を縫っているところなんですが、そこでの話題はいつも彼氏のことばかりなんです。
みんな彼氏がいるみたいなんです。でもわたしには彼氏がいません。わたしは十三才なんですが、見た目はみんなよりも幼く見えますって、みんながそう言うからそんなものなのかなと思ったりします。そうかニダ、そうかニダ。みんな個人、個人で成長の速度が違うニダだから、あせる必要はないニダ。まだお手紙の続きがあるみたいニダ。さきを読むニダ。でもヨン様、最近、わたし、好きな相手が出来ました。その人は好物があるので、その人の好きななものをいつも持って行くと喜びます。でも、いつも誰かに追いかけられているらしく、わたしが行っても好きなものだけをくわえると高いところに駈け上って行きます。彼の最大の敵は魚屋です。彼の身体は毛むくじゃらです。わたしの身体は二色の毛が生えています」
「すごいニダ、すごいニダ。とうとう、ヨン様のところに猫から恋愛相談が来たニダ」
「馬鹿だねぇ、ヨン様、猫から恋愛相談が来たと言って喜んでいるよ」
さっきあんた達江戸っ子じゃねぇだろうと言った若い大工がくっくっと低い笑い声を漏らした。
「ねぇ、あんた」
「なんだい、姉さん」
くのいち山田優が顔を向けると、その若い男も優の方に顔を向けた。
「実を言うとわたし達、江戸っ子じゃないのよ。江戸がこんなことになっているなんて知らなかったわ。こんな変なことになっているなんて。茶碗の中から声が聞こえたり、ペ・ヨンジュの江戸紫の夜ってなんなの、江戸の住人がペ・ヨンジュの話しを聞いたりして、中にはペ・ヨンジュの家に文を出しているみたいじゃないの」
「そうなんだよ。不思議なんだけどな。あっしの場合はここで酒を飲んだときのことなんだ。杯の中から変な音が聞こえたんだ。小さな音だったんだけど耳を近づけてみると微かに人の声が聞こえたんだ。それがヨン様の声だったんだよ。江戸中の瀬戸物のがみんなそんなことになつたんだ。それでも瀬戸物の種類によって大きな音が聞こえたり、耳を近づけなければ聞こえなかったりといろいろなんだ。それで、あんな大きな声で聞こえるのは珍しいんだぜ。ほら、あの茶碗ぐらいにヨン様の声が流れてくるやつなんかは瀬戸物が千個くらい集まって一個ぐらいだよ」
ではペ・ヨンジュの方はつまり阿部寛の屋敷の方はどうなっているのだろう。
ペ・ヨンジュは書斎の中で机の前で話していた。ペ・ヨンジュの横には江戸の住人から届いた大量の文が置いてある。
最近はいつも決まった時間になるとペ・ヨンジュはこの作業を繰り返しているのである。
これもまた突然のことだった。
山田優に雷剣を盗まれたために阿部寛の屋敷に残された家宝は華剣のみとなった。
そのために阿部の屋敷にとって華剣の価値はさらに高まったのである。
当然、華剣を手入れする回数は増え、手間をかけるようになっていた。
たまたまペ・ヨンジュが華剣を鞘から抜き、その手入れをしていたときのことである。
台所の方から阿部寛の声が聞こえた。
「ヨンジュ、何か、言ったか」
阿部寛は台所で大根の葉っぱを刻んでいた。
「何も、言わないニダ」
また、阿部寛は台所に戻った。
そこでまた、阿部寛は微かにペ・ヨンジュが鼻歌を歌っている声が聞こえた。
「ヨンジュ、お前、鼻歌を歌っていただろう」
「そうニダ、でも、どうしてわかったニダ」
「お前の声が微かに聞こえた」
「不思議ニダ」
「今度は場所を入れ替わろう」
そうして今度はペ・ヨンジュが台所に行き、阿部寛が書斎にいると同じ現象が起こった。
「兄じゃ、これニダ、これニダ」