羅漢拳  第35回 | 芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能人の追いかけを、やったりして、芸能人のことをちょっとだけ知っています、ちょっとだけ熱烈なファンです。あまり、深刻な話はありません。

第35回
S高の食堂で牛乳をテーブルの上に置き、菓子パンをかじっていた吉澤ひとみの携帯に意外にも江尻伸吾から電話がかかってきた。食堂の中では少し離れたところに同じ学校の生徒が二、三人並んでしゃべっている、携帯電話が鳴ったとき一瞬、彼女たちは吉澤ひとみの方を見たが吉澤ひとみが携帯を取って電話に出たので着信音が聞こえなくなりすぐ向こうを向いた。吉澤ひとみは携帯電話をわしづかみにするとももんがのように身を丸めた。もちろんただの高校生が大阪府警のかなり変な警察官から個人的な電話が来るという事がかなり特異な事であり、他人にその電話を聞かれる事はまずかった。
「江尻さん、困るじゃありませんか。高校にまで電話をかけてくるなんて。まわりで誰が聞いているかわからないんですよ。」
「ひとみ殿、これは申し訳ござらん。大変、興味ある事が判明したでござる。村上弘明殿も来ると言ってござるので大阪府警に来ないでござるか。ミーは待っているでござる。」
「困っちゃうな、勝手に決められたら、興味ある事ってどんな事なんですか。」
彼女は声を潜めて問い質した。
「それは来てもらわなければ教える事はできないでござるよ。待っているでござるよ。」
そう言うと江尻伸吾は勝手に電話を切ってしまった。
「何よ、勝手に電話を切って。あの三日月顔、ばかにしてるわ。」
そこに向こうからテニス部の日色知子がテニスの道具一式を抱えてやって来た。彼女はテニス部の中でも一番スタイルがよく新聞部のクラブ紹介の記事で彼女の写真を撮るという話があった。具体的な日時はまだ決まっていなかったが。
「ひとみちゃん、テニス部の紹介で私の写真を撮ってくれるという話があったじゃない。今日はどう。」
「あっ、あれね。今日はちょっと忙しいの。そのうちね。」
吉澤ひとみはあわててかばんを取るとその場を逃げ出した。吉澤ひとみが小走りに食堂を出て行く姿を食堂の入り口のあたりで白い割烹着を着てガラス製の棚の中に菓子パンを入れてパンを売っているおばさんが不思議そうに見つめた。彼女は頭に白い三角巾を被っている。食堂が吉澤ひとみの下駄箱に行く通路は食堂にある別棟とS高校の本棟をつなぐ通路でもあり、よく彼女はそこで知り合いの生徒に出会うのだが今日は顔を合わせてもほとんど何も喋らずにそくさと下駄箱に向かった。大阪環状線に乗って大阪府警と旧交通安全協会に挟まれた三つ又の交差点に着いた頃には吉澤ひとみは大部空腹を感じていた。食堂でもう一つ菓子パンを食べておけば良かったと思った。食堂では薄いハムの挟まった調理パンを食べていたのだがガラスケースの横に置かれていた玉子パンも食べておけばよかったと思った。まだはち切れる青春の十代である。若いので食欲もそれなりにある。大阪府警の建物は二十年前、旧交通安全協会の建物は三十年前に建てられて、後者はその前はある保険会社の所有していたビルだったが安普請な割には大阪府警のビルよりも風格があった。昔はベージュ色だったのだろうが今は長年の年月のために建物の色は赤っぽい茶色に変わっている。ドイツ表現主義の映画監督ラングの作った映画メトロポリスの中に出てくる建物のように人間がまだ宇宙旅行に出る前に想像されていたロケットのような縦の線を強調した凹凸が大きくつけられている。ここは三つ又になっていて陸橋も三つの場所に降りていけるようになっている。そのうちの二つが大阪府警の玄関前の広場と旧交通安全協会の前の歩道を結んでいた。大阪府警の玄関前の広場には半分枯れかかったつつじの木がすかすかの状態で植えられていて花壇の地面の土が見える。。旧交通安全協会の方は歩道から直接ビルが立っている。もちろん吉澤ひとみは江尻伸吾の犯罪捜査装置開発研究室のあるビルの方へ向かった。花崗岩の三、四段の階段を上がって正面に入って行くと貨物用のエレベーターかと思うようなちゃちなアコーディオンの引き戸の扉のついたエレベーターに乗り込んだ。吉澤ひとみは普通警察の建物というものは玄関のところに警官が立っているものだが立っていないのが不思議な気がした。そして玄関を入ったところのエレベーターホールに立つとその土台全体が大きなモーター仕掛けの回転台の上にあって地面全体が回転していねるように感じた。そして天井の方を見ると三台のテレビカメラが付いている。そのカメラが普通玄関に立っている警官の代わりをしているのだろうかと思った。そしてそれらのテレビカメラに写った彼女自身の映像は江尻伸吾のいる部屋に置かれている訳の分からない機械類の一つに接続されているのだ、ここで手を挙げて挨拶をしてもいいのだがあまりにも子供らしいのでその考えは自分自身で取り下げた。アコーディオンのカーテンドアを開け古色蒼然としたエレベーターに乗り込み、中の行き先階ボタンを押すとガラガラという音がしてその乗り物自体が生きている生物のようにドアが閉まった。そしてガタンという音がしてエレベーターは上の階に向かって動き出すとがくんとゆれて停止階に着いた。そこが江尻伸吾の犯罪捜査装置開発研究室のある七階だった。吉澤ひとみが金色の真鍮製のボタンを押すとエレベーターの扉はあいた。江尻伸吾の部屋の扉を開けると例の大きなテーブルの向こうに座っていた江尻伸吾と村上弘明が研究用の植物の蔓の間から吉澤ひとみの方を振り返った。
「ひとみ、来たのか。」
「ひとみ殿、待っていたでごんす。」
江尻伸吾の部屋は吉澤ひとみが最初に訪問したときとほとんど変わらなかった。部屋の中央にテレビの埋め込まれた大きな机が置かれ、壁面にはわけのわからない犯罪捜査のための機械が置かれている。その間には毒性の化学物質を抽出するために栽培されている植物の鉢がいくつも置かれて変にうねっている蔓が伸び放題に延びて葉っぱが変な具合に茂っている。江尻伸吾は吉澤ひとみが彼の部屋に入って来るとにやにやしながらガス台の方へ行き、吉澤ひとみが飲む紅茶を入れて来た。
「ひとみ殿、いい香りでごんす。ひとみ殿はミルクかな。レモンかな。」
江尻伸吾はそう言ったがレモンが冷蔵庫の中に入っているのにもかかわらず冷蔵庫の扉を開けようともしなかった。江尻伸吾がいれた紅茶はティーバッグをカップの中に入れ、紅茶特有の色が茶碗の中の熱湯を満たすとティーバッグを取り出してミルクを入れただけだったが江尻伸吾は勿体ぶって英国紳士のようにその香りを嗅いだ。いつの間にか、江尻伸吾は吉澤ひとみの事を下の名前で呼ぶようになっていた。狂人と呼んでもよいような江尻伸吾にそう言われ、目の前に紅茶茶碗を置かれた吉澤ひとみはただ恐縮し、しちゃちほこばるほかなかった。吉澤ひとみがステンレス製のスプーンを取り上げて中の砂糖を紅茶に溶かすためにかき混ぜると村上弘明の横に座っている江尻伸吾の方がその回転する紅茶の表面のうずを見ながら話だした。
「これを見て欲しいでごんす。」
江尻伸吾が吉澤ひとみに差し出したのは新聞の学芸記事のコピーだった。村上弘明も同じものを持っている。コピー用紙特有の本来の何も印字されていず白くきれいなところにも遠くから黒いインクの粒をふったようにそばかす状の点々がついている。村上弘明の前の紅茶茶碗の横に同じものが置かれている。
「これ、何ですか。」
吉澤ひとみの目に入って来たのは太陽新聞の学芸欄のコピーだった。。吉澤ひとみが間違っても一番読まない分野でコピーされた新聞記事には外国人の四角張った顔の年寄りの顔写真が載っている。吉澤ひとみはとにかくその記事を読んでみる事にした。新聞の記事を書いているのはこの太陽新聞の学芸欄を担当している小貝郁夫となっている。最後の署名にそう書かれていてその名前が目についたのだ。
 有機化合物が二種類の原子から作られる?

イギリス王立科学員会員、マンチェスター化学研究所主任研究員、サー・ジャーミッシユ博士六四才は現在の有機化合物で構成されている物質と同じ世界がたった二個の原子から作られる可能性をマンチェスター化学研究所の実験室から示した。現在の地球上の常温、常圧、常気圧の世界は金属化合物、もしくは金属単体、それに有機化合物から成り立っていると言える。有機化合物とは炭素を含む化合物の一部を総称する名称で昔は生物を構成、もしくは生物から生み出される、生命に関する物質だと考えられていた。そのためそれらの化合物を生命に関係する化学物質ということで有機化合物という名称を昔の化学者はつけたのだがウェラーが無機化合物から有機化合物である尿素を合成した事からその定義は現在では誤っていると言える。有機化合物の有用性は炭素、水素、酸素、窒素、などの小数の元素を組み合わせる事により、多種多様な化合物を生成できる事にある。生物の生成している物質はアミノ酸であり、これも有機化合物の仲間である。有機化合物の構成元素は原子番号の最初の方にある原子であり、それらの原子の結合はそれらの元素の原子核の回りを回る自由電子であるということを学校時代に習った事があるという読者はテスト前の化学式の暗記として悩まされた事があるかも知れない。サー・ジャーミッシュ博士六四才はこれらの原子が原子番号の最初の方に出て来るという事に着目した。それぞれのメンデレエフの元素周期表を見れば一目瞭然の事であるが水素は自由電子の数が一個、酸素は六個、窒素は五個、炭素は四個、それぞれの自由電子の数がうまく八個になるように結合して二酸化炭素や水として安定した分子を作る。これがもっと原子番号の大きい原子について成り立たないかという事にサー・ジャーミッシュ博士は挑戦した。原子番号の大きな原子、自然界には一般に存在しないランタノイドやアクチノイドなどの元素の事だが、これらについてはオランダのスミス・ハーディ博士の発見があった。スミス・ハーディ博士は心臓病の化学療法に関する権威であり、彼は多くの心臓病に苦しむ患者を助ける薬を開発した。心臓病の薬を開発しているときに彼が発見した事は現実の自然界には存在しないような原子番号の大きな元素同士の結合は非常に大きな結合エネルギーを持ち、科学的に安定する事があるという現象だった。サー・ジャーミッシュ博士はそれを研究のよりどころとした。大きな元素番号の二つの種類の元素を何個か組み合わせて見かけ上、それが水素や窒素、酸素や炭素と同じ自由電子数、空間での陽子の存在確率が同じものを作る事ができないかという実験を繰り返した。そして水素、窒素、炭素まで自由電子数と陽子の存在確率の同じ分子を生成する原子番号の高い二つの元素を発見したと昨年の七月に開かれたハーグでの高分子学会で発表した。酸素の代替となる分子は開発中であるとサー・ジャームッシュ博士は解説している。またあらたな発見があり、陽子数が高いためなのか、その分子の結合力は原子番号の低い分子結合に比べて数百倍になり、ある反応ではその性質が完全に金属と同様になる。つまり自由電子の軌道がつながり電気的には抵抗が少なくなる。ただし博士は陽子の質量が非常に重くなるのでその物質は全てにおいて大変に重くなり、これから新たな現象の発見もされるだろうと述べている。もし酸素の代替となる高い原子番号の物質の化合物が発見されればたとえば飛躍的に強度の増した繊維が作られる可能性もあるかも知れないと同博士は述べている。ただしサー・ジャームッシュ博士はその高い原子番号の物質がなんなのか発表していない。スミス・ハーディ博士の発表した心臓薬から研究が始まっているので専門の研究者の間ではスミス・ハーディ博士がその元素が何であるか、知っているだろうと言われている。
吉澤ひとみはその新聞の学芸欄を読み終わると江尻伸吾の方を見た。
「この記事がどうしたの。」
吉澤ひとみは江尻伸吾の方を見たのだが村上弘明の方が答えた。
「日芸テレビの解説員の中にそのスミス・ハーディ博士の開発した心臓病の薬に詳しい人間がいてね。どんな化学物質を使って生成するか知っているんだよ。」
ここで江尻伸吾がまた口を開いた。
「ミーと吉澤さんたちで添田応化工場という福原豪の息のかかった工場に忍び込んだのは数週間前でござるな。村上弘明殿は福原豪の第二秘書から得た情報でその工場の倉庫に何かが秘密裏にはこびこまれているという事を知りその工場に忍び込んだのでござるな。しかしミーの方の入り方は違うでござる。不正な輸入を専門にやっているサンウェー貿易を調べて福原豪の息のかかっている添田応化工場を見つけたでごんす。しかしでござる。その倉庫に何が持ち込まれたかは分からなかったでごんす。しかしだ。独自のルートを調べたことにより、何が輸入されたかわかったのでござるよ。」
いつものとおり江尻伸吾は三日月型のあごをさすった。今度は村上弘明の方が身を乗り出した。
「それが不思議な事なんだよ。スミス・ハーディという外国の化学者の開発した心臓病の薬を作るのに必要な薬品が全てサンウェー貿易から秘密裏に輸入されているんだよ。サンウエー貿易を窓口にして添田応化工場の倉庫に同じ物が運ばれているとすればそれが何故必要なのかという事がわからない。福原豪は心臓病の薬でも作ろうとしていたということなのか。」
「それは確かなの。」
「ひとみ殿、確かでござる。」
「でも同じ化学物質を輸入しているからと言ってスミス・ハーディという化学者が発明した心臓病の薬を内緒で作っていたという事にはならないでしょう。」
「それはそうでござるが。」
江尻伸吾ははなはだ不満そうだった。
「福原豪についてまた一つ調べたことがあるんだ。」
村上弘明は自分の手帳を開いた。
「最初にK病院へ調査に行ったときゴミ捨て場で立っていた幽霊のような若者がいただろう。かなり薄気味悪い。」
吉澤ひとみもそこでそんな若者が村上弘明の横に立っていた姿が車のバックミラーに映っていたことを想い出した。吉澤ひとみは車に乗ったままでバックミラーに映っている姿を見て車から降りるのが面倒だったので車の窓から首を出すと少し離れた場所にあるゴミ捨て場のそばで村上弘明のそばにそんな幽霊のような若者が立っていた。
「あれが福原豪の一人息子なんだよ。強度の鬱病で精神病院へ入院した経歴もある。これは確かだよ。その精神病院へ行ってカルテを見せてもらったのさ、そこの院長が僕の番組をよく見ているらしくて彼が入院していたときの事も教えてくれた。やっぱりそこに入院していたときも幽霊のようだったそうだ。それから栗木百次郎の逆さの木葬儀場で彼のたんすの引き出しに入っていた脅迫文や何枚かのメモをカメラで写しておいたじゃないか。あの中に英語で書かれた住所が載っていたがそれが松田政男がアメリカに住んでいたときの住所だったんだ。」
この事は吉澤ひとみにとっても意外だった。松田政男がアメリカにいたときの住所がわかったなんて。でも何故何の接点もないような松田政男のアメリカでの住所が栗木百次郎の引き出しの中に入っていたのだろうか。
「松田政男がアメリカに居たとき研究していたものの事はわかったの。」
「矢崎泉の言っていたとおり軍で使う向精神薬だったらしい事は確かなんだ。しかし軍事機密の壁があって詳しい事はわからずじまいだったんだ。しかし矢崎泉が軍関係で松田政男の近いところで働いていた人物というのを紹介してくれて電話で聞いたところさっき言ったオランダの化学者トマス・ハーディの開発した心臓病の薬にかなり近い薬らしい。それからこれは江尻伸吾さんが調べてくれた事なんだけど松田政男が軍で彼の新薬の副作用から採用されない事になってその傷心旅行からか、それは僕の推測なんだけどこの故郷である栗の木市に戻って来た事があるよね。そこでひようたん池で土産物屋をやっている太田原善太郎を訪ねた。ただ単にひょうたん池で遊んで帰ったというだけじゃないんだ。松田政男は帰国しても実家に立ち寄らなかったし。ただ遊びや気晴らしのために日本に帰って来たのだろうかという疑問がわく、それで松田政男が帰国していたときにどこに宿泊していたか調べた江尻伸吾さんはつい最近彼がどこに泊まったかさぐりあてた。それは大阪にあるライトウイングホテルだったんだけどね。」
ライトウィングホテルなら吉澤ひとみも知っていた。航空会社と契約していて空港に近い場所にあるホテルだ。実家にも戻っていないぐらいだから家族に帰国している事も知られたくなかったんだろう。それで少し離れた場所にある大阪にあるホテルに泊まった事も考えられる。
「そのホテルのラウンジでぼんやりと新聞を読んでいる姿をよく見たと話してくれた人間がいる。それが何故松田政男だとわかったかと言うとその姿を見たのがS高の生徒だったからだ。彼はS高で松田政男の講演を聴いている。そして夏休みの小遣い稼ぎのアルバイトでライトウイングホテルで働いていた。しかしあまりに彼が意気消沈しているような様子だったので声をかけられなかった。しかしあるときから松田政男の表情が急に明るくなったそうだ。」
「その原因はわかるの。」
吉澤ひとみは思わず身を乗り出した。
「その生徒はかなり確信を持って言える事だと言っているのだがあの人に会ったときからだと言っている。やはりホテルのロビーでその人物と話しているの見たと言っている。」
「その人って誰。」
ミルクティを口につけて村上弘明の方を見つめているひとみの瞳は大きくひらいた。
「ひとみは知っているかな。次田源一郎という人物なんだけど。」
「次田源一郎なんていかさま師でごんす。何も実証されていないオカルト研究者でござる。」
横に座っている江尻伸吾は紅茶をすすりながら口を尖らした。
「江尻さん、お言葉ですが次田源一郎がいかさま師であるかどうかはともかくとして僕に話させて下さい。」
江尻伸吾は多いに不服そうな表情をしたが村上弘明はかまわず話し続けた。
「そのS高の生徒の話によるといつもならホテルのラウンジで松田政男はひどく脱力感におそわれている表情でソファーに腰をかけながらまだ誰もラウンジに来ない時間にそこにある新聞をぼんやりと眺めているというのがお決まりだったんだけど、その日は少し様子が違っていたそうだ。朝からひどく楽しそうな様子だったし、髪もとかさず着ているワイシャツの襟もよれよれだったのがきちんとアイロンをかけていた。そしていつものソファーのところに腰掛けて誰かが来るのを待っている様子だった。松田政男はきっと誰かを待っているのだろうと彼は思った。その生徒が玄関の灰皿を片づけていると自動ドアがあき、体格の良い老人がホテルのロビーに入って来た。彼はその人物を知っていた。」
「それが次田健一郎というわけなの。」
「彼は次田源一郎を知っていた。次田源一郎は栗の木市ではかなり有名な人物らしいんだ。変わり者の著述家として。それに自宅の一部を解放して自分の集めた資料を自由に見られるようにしている。彼の家は代々続く材木問屋なんだけど商売そっちのけで彼の研究に没頭しているらしいんだ。次田源一郎の自宅に行くと彼の集めた資料が部屋の一室に堆く積まれているらしい。ホテルのロビーに入って来た次田源一郎はあたりを見回した。ラウンジのソファーに腰掛けている松田政男をすぐに見つけた。それから彼はソファーのところにやって来ると挨拶をまじわして二人で外へ出て行ったそうだ。それから二、三週間ほど松田政男はそのホテルに泊まっていたそうだが、ここに来たときとはひどく違っていて表情なんかもかなり明るくなっていたそうだ。そうですよね。江尻さん。」
村上弘明は隣に座っていた江尻伸吾に同意を求めた。江尻伸吾は相変わらずにがにがしそうな表情をしていた。江尻伸吾は次田健一郎の事をオカルト研究者としてとらえているらしい。と言う事は江尻伸吾が自分自身の事を科学者としてとらえているという事か。
「次田源一郎というのは単なるオカルト研究者でごんす。彼の書いている牛若丸伝説考究というわけのわからない本があるのでごんすがその内容たるやまったくの陳腐奇天烈な事ばかりでごんす。なにしろ牛若丸に剣術を教えたからす天狗が本当に実在していたなんていう事を言うんでがんすからな。さらにそのからす天狗は自由に十五メートルもの高さのある木に飛び上がる事ができたし、本州の端から端までを半日で駆け抜ける事ができたなどと言う戯れ言を言うに当たっては笑止千万でござるよ。」
吉澤ひとみは次田源一郎の著作、牛若丸伝説考究を読んでいたが何も言わなかった。
「彼の略歴を少し調べたでごんす。その本の後付にも載っているでござるが、千九百二十一年生まれ、大正十年生まれとなっているでごんす。それから千九百四十年に芝浦工業専門学校を卒業していのでごんす。そのあと日本陸軍の少数民族調査部隊というものに入って中国の奥地に入っているのでごんす。そこでヒマラヤ山脈の裏側の方にあるカンティテ山脈というところに調査研究に行くと書かれているのでごんす。軍の命令で行っているとすればきっと政略的な意味合いで軍部が他国支配をするのに都合の良い歴史事実をねつ造する目的があったのかも知れないでごんす。しかしその部分は詳しくは書かれていないのでごんす。それで、中国の奥地に少数民族の調査に行ったとき常識では考えられない事実に出会ったということを言っているでごんす。それがつまり彼のオカルト体験の最初の出会いだったようでごんす。酸素濃度の低い異常な気象条件の場所に探検に行っていたわけであるから地元の住民がそれらの自然条件を克服するために使っているような麻薬類を知らずに食していた可能性もなきにしもあらずでそのために幻覚を見た可能性もあるのでがんす。それが次田源一郎の言うところの超常現象の秘密に違いないでござる。」
江尻伸吾はあくまでも次田源一郎に対しては否定的だった。
「江尻さんは次田源一郎に対しては随分と否定的なんですね。」
「次田源一郎は警察の記録にも残っている人物なんでがす。ただ単にでたらめなオカルト信奉者というだけではなくてね。」
その事実は村上弘明にとっても意外だった。村上弘明はその事を知らなかった。
「次田源一郎が何をしたんですか。」
「1999年の一月という記録が残っているでがんす。上野駅にとまっている常磐線の中で置き引きをしようとしたでがんす。ちょうど上野駅を出発しようという時刻に電車の中に乗り込んで石岡に行こうとしていた乗客の鞄を持ち逃げしようとしていたでがんす。それに気がついた乗客が次田源一郎をつかまえて鉄道警察に引き渡しでござる。乗客の方は二十代半ばの屈強な若者で泥棒をしようとした方は七十近い老人でしたからつかまってしまうのに違いないのでござった。本当に鉄道警察隊はあきれてその老人に何をしているのかと問いただしたそうでござる。そこで鉄道警察隊は次田源一郎の調書をとろうとしたのでござるが若者の方が急いでいると頑強に逃げ出したので調書も不完全な記述のままで次田源一郎は放されたでごんす。」
「何て言う人の持ち物を置き引きしようとしたの。だっておかしいじゃないですか。次田源一郎の実家というのは富裕な材木商なんでしょう。」
「荷物を持ち逃げされそうになったのは無双弘という一種の冒険家でごんす。日本の高い山をいくつか踏破してこれから外国の山にも挑戦するとか周囲の人間に言っていたらしいでがんす。」
「言っていた。」
隣に座っていた村上弘明が江尻伸吾の方を少しおどろいた表情をして見た。すると江尻伸吾は彼の方を見て口元を変な風にゆがめてにやりとした。
「その若者はすでにこの世にいないでがんす。事故でなくなったでがんす。しかしその若者には不審な点が二つあったでごんす。」
いつものようにあごをさするではなく江尻伸吾は自分でいれた紅茶をすすった。ミルクティだった。江尻伸吾が紅茶のカップを受け皿に置いたとき紅茶の鳥の子色をした表面が揺れた。
「一つはその若者、無双弘でがんすが、登山家というか冒険家のような事をやっていて今度は新しい山に登る事になっていたでごんす。そのための訓練として八王子の方に高層住宅街の開発地があって山を切り崩してコンクリートのブロックで固めた切り通しがあるでごんす。高さが二十メートルぐらいあって子供がそこを登ったりするので近所では有名な場所らしいでがんす。子供だとだいたい十メートルぐらいのところしか登っていけないでがんすが時々登山家みたいなのが練習にとそのその切り通しを登って行くので有名だつたそうでごんす。無双弘もそこに登って登山の練習をしたでごんすが一番上の場所から手を滑らして一番下の舗装されたコンクリートの道路に叩き付けられて死んでしまったでごんす。しかしそんな激しい衝撃を受けて死んでしまったにしては外傷はほとんどなかったという話でごんす。落ちたときのショックで脳の一部が損傷して心臓が停止したのが死亡原因だったという話でごんした。そしてもう一つ不審な点は無双弘は一度国内で遭難したでごんす。ニュースにもちらりと出ていた事があったという話でがんす。真冬に二日分の給料しか持っていずに和歌山の方の山を縦走して来るとか言って二週間も戻らずに捜索隊まで出た始末でした。しかし人里近くに彼の姿は発見されたのでごんした。彼の肩のあたりには熊に襲われたらしい傷跡もあったでごんした。彼の装備の中には食料は一切なくなっていたでごんす。熊にかまれた傷の大きさからすると彼は当然死んでいなければならないはずでごんした。しかし病院に収容されて驚異的な回復力を見せて社会復帰をしたのでごんす。」
テレビのニュースか何かでほんの少しそんな遭難事件があったかも知れない。しかしニュースの中でもほんの一、二分の事だったら村上弘明は忘れているだろうと思った。
「それはいつの事だったのですか。」
「1999年の二月の事でござる。そして無双弘が切り通しを登っていて転落事故を起こして死んだのが二千年の一月二十一日でごんした。」
「その無双弘の鞄を次田源一郎は常磐線の電車の中で盗もうとしていたんですか。」
「そうでござる。それだけではないでござる。無双弘が遭難して救助された後に入っていた病院にたびたび次田源一郎は訪れているのでごんす。」
「次田源一郎はその登山家の無双弘に興味を持っていたのね。」
「そうかも知れないでごんす。」
「次田源一郎の書いた牛若丸伝説考究、あれは随分と古い本ね。昭和三十六年に書かれた本でしょう。あれから次田健一郎のオカルト信奉に進化はあるのかしら。」
「それから次田源一郎は何冊か自説に対する小冊子を出しているでごんす。つい最近に出された小冊子を詳しく読む機会があったでごんす。それによると次田源一郎は人間に関する超常現象について二つの考えを持っているでごんす。一つは秦の始皇帝の不老不死の妙薬という考えに似たものでごんすが、薬によって人間は不老不死になれたり、自分の姿を他人に見えなくさせるようにできるという考え方でごんす。八百比丘尼の伝説というのをご存知でござるかな。福井県の小浜というところにある日人魚を釣って来た漁師がいてその娘に人魚の肉を食べさせたら八百年間生き続けたとい話でごんす。これらはみんな薬、つまり何かの物質を食べたり、飲んだりして人間の超常現象が起こるという話でごんす。その一方で物質によら吉澤ない超常現象についても小冊子の中で次田源一郎は論じているでごんす。役の小角をご存知でござるか、霊力を身につけていたと言われているでござる。空を飛んだり、念力で物を動かしたりと科学でこじつける事もできないような現象も気のエネルギーという説明をとっているでござる。ここには何も物理的、化学的なものは存在しないでござる。物理法則を離れた気のエネルギーの話でござるからである。それは幽霊や霊魂にも通じる話でござる。そして次田源一郎は後者を前者より上位に位置させているでござる。つまり秘薬を飲んでどんな怪力を得たとしても気の力による念力にはかなわないと。」
「次田源一郎の妄想ね。そんな非科学的な事が起こるわけがないじゃない。」
「何を持ってして非科学的というかはっきりしないんじゃないか、ひとみ。心なんて言われても見えるものじゃないしね。あくまでも物理現象として現れた心が引き起こす運動を観測しているだけじゃないか、ひとみ。」
「きっと次田源一郎は中国の奥地で何かを見たのでござるよ。それからオカルト信奉者になったのでござるよ。たとえそれが幻覚を起こさせるような毒カビだとしてもでござる。」
説明も証明も不可能な超常現象についてここで語るのはやめようと江尻伸吾は言いたかったのかも知れない。現代の科学文明は物質を基礎にしている。物質の原子核を構成しているクオークから始まって陽子、中性子、電子が生成されてそれが原子となり、分子となって我々の世界を構成しているという事ぐらいしか村上弘明はわからなかった。宇宙の始まりというような話になると村上弘明はちんぷんかんぷんになってしまうのだ。筋力増強剤を使って筋力を増す事はできる。それによって怪力を得る人間も生まれるかも知れない。しかし気という話になると眉唾ものだ。気とは本来この世界に満ちている何でも姿を変える事のできる全ての生成物でそれ自体が運動している。その気を遣って離れた場所にある巨大な岩石を動かしたり、空中を浮遊したりというのが次田源一郎の説だ。次田源一郎が登山家の無双弘を追いかけているという事は次田源一郎の自説を証明する何物かを無双弘が持っているという事なのだろうか。
「吉澤殿、ひとみ殿にあの鍵の事は話したでござるか。」
宙を見て方針状態の村上弘明は江尻伸吾にそう言われて吉澤ひとみに栗田光陽と井川実のアトリエで起こった出来事について話していない事を思いだした。そこには吉澤ひとみはいなかったのだ。そして改めて松田政男の周辺に起こった事件について整理しなければならないと思った。
「江尻さん、メモ用紙はありますか。松田政男を中心にして起こった出来事を自分なりに整理してみたいんです。」
江尻伸吾は立ち上がると三人の空になった紅茶茶碗をお盆の中に入れると流しの方へ持って行った。三人の紅茶のおかわりをいれてくれるらしい。流しのところでごそごそしている。流しの横には江尻伸吾お気に入りの文房具用の整理戸棚が置かれていてそこでも江尻伸吾はごそごそと何かやっていた。江尻伸吾はお盆の中に入った三つの紅茶茶碗とメモ用紙と鉛筆を持って来た。
「これを使って欲しいでごんす。」
江尻伸吾は村上弘明の横に座ると鉛筆を差し出した。尖った鉛筆の頭のところには子豚の人形が付いている。どうやらこれが江尻伸吾のお気に入りの鉛筆らしかった。
「この鉛筆を使っていいんですか。」
村上弘明は鉛筆を受け取った。紙の上で鉛筆を少し動かしてみる。黒炭の粉が紙の繊維の間に絡まっている。
「まず、ひとみは一緒行かなかったからわからないだろうが、一昨日江尻さんと栗田光陽と井川実が一緒に住んでいるアトリエに行ってきたんだ。もちろん彼らには知られないようにしてね。」
そこで何が行われようとしていたかは吉澤ひとみには言わなかった。そこでまずK病院の患者である小沼が送って来た鍵と同型のものが栗田光陽と井川実のアトリエから何故みつかったかという事、それに二人とも働いていないように見えるのに何故あんな裕福な生活が出来るのかという事が疑問。それらの事を村上弘明はメモ用紙に書いた。
「松田政男の事だけど彼は最初に秘密に運営されている化学会社の研究所に入った。そこで矢崎泉という同僚を得た。それからアメリカに渡り、高性能の油を開発した。それでも満足がいかず軍事研究に手を出し、向精神薬を開発したがその薬は副作用が多くて軍に採用されなかった。戦闘のとき恐怖心をとりのぞく薬だそうだ。またそれは鬱病にも利くという話だ。その薬を開発した当初、1998年の七月には松田政男は元の同僚の矢崎泉に意気揚々と電話をかけている。しかしいろいろな副作用からその薬が認可されない事になると傷心旅行なのか、松田政男は1999年の七月、日本に戻って来てひょうたん池のあたりでくつろいでいる。しかし単なる傷心旅行でなかったらしい。それが本人の意図したものか、偶然によるものかはわからないが希望を抱ける条件に出会ったらしい。それは彼の事を知っているS高の生徒の目撃談なのだがある人物に出会って急に表情が明るくなったと言う。それが次田源一郎という町のオカルト学者らしい。次田源一郎は自分の学説として牛若丸の超人的な伝説は真実であり、不老不死になる事も不可能ではないと主張している。その人物に会って松田政男が感化されたとしたら松田政男自身がかなり追い込まれた状態だったのかも知れない。仮にも秀才化学者として知られた松田政男が荒唐無稽なほら話を信ずるとしたら。そのうえ次田源一郎には奇矯な行動がある。遭難から奇跡的に生還した無双弘という登山家を追い回して常磐線の電車の中で置き引きまでしている。そして松田政男は調査によると二千年の二月三日にK病院に入院して二千年の六月十七日にK病院の中で死んでいる。これが松田政男のおおまかな行動だ。そしてK病院の方へ目をやれば福原豪がどういう目的で建てたのかははっきりしないがまるで中世の要塞を思わせるこの病院の建設にはこのあたりの政治的、経済的な支配者の福原豪が大きく関わっている。最初にK病院を村上弘明が調査に行ったとき幽霊のような若者をK病院のゴミ捨て場で見た。それが福原豪の一人息子である福原一馬である事を村上弘明は後で知った。福原一馬は極度の鬱病で精神病院で入退院を繰り返していたらしい。二千年の九月二十一日に吉澤ひとみや松村邦洋たちはプロレスの観戦に行ったのだがそこには巨人プロレスラーのゴーレムが来日していた。そのプロレスラーもお忍びでその前後にK病院にやって来たらしい。K病院に関しては疑問がさらに続く、病院の中を自由に出入りしている小沼という患者だ。ここまで村上弘明は松田政男とK病院を軸にすえて動いている事件に関して小沼という男は一体何物だろうかと考えた。江尻伸吾のサジェスチョンによれば小沼が送って来た鍵は重要なものらしい。それと同型なものが栗田光陽と井川実の住んでいるアトリエにあるという。ここまで思いつくままに村上弘明はメモ用紙に書いて来たが少し不安になったので真向かいに座っている吉澤ひとみに見せる事にした。
「思いつくままにここまで書いてみたんだけどこの栗の木市で起こっている事件はこれだけだよね。」
「兄貴、忘れているわね。私たち一家がここに引っ越して来る前からここで起こっていた事件、犬の連続虐殺よ。」
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