私はある時、ある疑問がふと浮かびました。

 それは、「優しさとは何だろう。相手にとって都合がいい事をする事が、優しさなのだろうか。」という疑問です。そこで、 「優しさとは」でインターネットで検索したら、すごく腑に落ちる答えが掲載されている記事があったので紹介します。

 「優しい」の語源である「やさし(優し・恥し)」の意味は、「痩せるほどつらい、肩身が狭い、気恥ずかしい、慎み深い、優美だ、しとやかだ、おとなしい、健気だ」などの状態をさす形容詞で、さらに言えば、「痩さし」という痩せるの形容詞化した言葉が語源です。

 始めは、痩せるほどのつらさや羞恥心を持つ人の姿勢を表す言葉でしたが、その外的側面である「恥じらいや慎ましさ」のみが一人歩きし、慎み深さや優美の意味にも、使われるようになりました。さらに、この自己主張の少ない態度が、他者優先的で健気な態度として捉えられ、現在では主に「情がある、思いやりがある」という、ほぼ「愛」と同義の使われ方をしています。そして、「優しい」の語源的な対義語は「厳しい」ですが、拡大解釈された対義語は「冷たい」になります。

 当然、別の意味が付け加わると誤解も生じます。第一の誤解は、恥じらいや慎ましさや切な気な様子を、平安時代の美意識に従って「優美(美しい)」と捉えたことです。これはただの時代精神、主観的な意味付けで、別の文化圏ではこれは醜さ以外の何者でもなく、「生き生きとした躍動」こそが優美です。

 第二の誤解は、鎌倉時代の軍記物語において、自己主張の少ない態度を、都合良く「思いやり」と捉えたことです。欲望の充足を目指す者にとって優しい態度の人は、「自分の邪魔をしない便利な人」なのです。これも同様に、特定の文化の勝手な意味付けであり、別の文化圏では、「自己主張や主体性を持ち、責任を持って関わる事が思いやり」と捉えられます。現代の「優しさ=甘さ」となる誤解はここから来ています。

 元来優しさとは、端的に人間の一つの態度を指したものであり、 それが「他者の利益(利他)」になるかは全くの別問題で、優しい態度が他者に利益を与える事もあれば、不利益を与える事もあります。対義語である「厳しさ」も同様に、他者に利益を与える事もあれば、不利益を与える事もあります。

 仏教には、『病応投薬(病気に応じた投薬)』という言葉があります。例えば、血圧が高い人に血圧を上げる薬を与えたり、血圧が低い人に血圧を下げる薬を与えると、死に至る事もあります。

 それと同様、『厳しさが必要な人に優しさを与えたり、優しさが必要な人に厳しさを与えると、その人は駄目になります』。

 そのため、他者に利益を与える利他な人は、『優しさと厳しさの両方を持っていなければなりません』。どんな概念でも、反対のものを通過していなければ本物ではありません。現実を知らない理想はただの夢想であり、怖じ気を知らない勇気はただの向こう見ずです。

 優しさも厳しさも、相手のためになる利他的なものもあれば、利己的なものもあります。『愛のムチ』が、潜在的なイライラを解消するものであったり、自己顕示欲や快楽趣味から来るものであったりします。それと同様に優しさも、『臆病さや優越感などの利己的な目的から来る優しさ』だったりします。

 では、利己的な優しさ(厳しさ)か、利他的な優しさ(厳しさ)かをどうやって判断するかと言えば、それは与えた相手の結果を見ながら推測するしかありません。優しさや厳しさが善いか悪いかは、状況によって変化する経験的なものでしかありません。

 私達も、本物の優しさで人と向き合いたいものですね。