高木元輝さんの事
書き忘れぬよう最初に書いておく。
高木元輝さんは日本のというよりは世界のジャズのテナーサックスの歴史の中でも特別な人である。
高木さんが日本人で最初にフランスの世界ジャズ人名辞典に載ったのは偶然では無い、これは必然だった。
私が高木さんの演奏を観たのは1970年くらいか、高校2年の頃だ、ジョー水木さんとのデュオが好きでピットインに通った、少し屈んでテナーを股に挟み一番下の音を思いっきりボーと鳴らすのが気持ちよかった。
それからずいぶん経ち、これは新宿の檸檬というスナックであった阿部薫氏の追悼ライブで、確かEEUだったかでの演奏を聴いている、この時は私も金子いずみさんのバンドで演奏しているが何をしたのかは全く覚えてはいない。
それから少し経った頃か、スウィングジャーナルの読者投稿欄で、バスクラリネットとテナーサックスを売りに出している人がいて、名前を見たら高木元輝さんだった、驚いた、その頃高木さんはスティーブレイシーの影響でソプラノサックスしか演奏していなかったのだと思う。
その頃、函館のあうん堂というジャズの店に行った時、その店でやった高木さんのソプラノのソロのライブの録音を聴かせてもらった事がある、静かな美しい音だったと記憶している。
それからまたずいぶん経つ、高木さんは大阪に住んでいてレゲエバンドで吹いているという話は聞いていた。
その頃私は福岡に移り住んでいて、当時福岡で一番くらいに流行っていたチャイニーズパブで週3日くらい演奏していた、その店に高木さんの参加していた大阪のレゲエバンドが来た、私はその日は福岡にいなかったのでこのライブには行っていない。
それから少し経ち、そのチャイニーズパブのバンマスが今度は高木さん一人を呼んだ、その日のメンバーはピアノとキーボードかバンマス、歌のお姉さん、私、に高木さんが加わったのだった。
チャイニーズパブなのでリクエストを受け付ける、その日はダニーボーイ、セントトーマス、ユービーソーナイス、などをやった。
まずダニーボーイだ、バンマスが、ダニーボーイと言った、高木さんが私の耳元で「川下君ダニーボーイわかる」と聞くので私は「はいなんとか」と答えて、これは普通にやった、終わってから高木さんは「そうそうダニーボーイは昔コピーしたんですよ、誰だったかな?」と言ったので「シルオースチンですか?」と言ったら「そうそうそのオースチンでしたね~」と言った。
次がセントトーマスだ「川下君センタトーマスわかる?」ってまた聞かれたので「はいなんとか」と答えて始まった。
これはすごかった、ピアノが普通に
タッッタッタッタッッタと始めた、高木さんはなかなか入らない、すると、いきなり、これはもう未だにわからない半端なところから、それもサビから吹き出した、これは全く私には絶妙だった、絶妙にわからないところだった、その後もメロディーを繰り返すのだがサビに行ったり戻ったりするそれは全く自在に絶妙だった。
が、ピアノのバンマスが困っているみたいだったので私はずっとただメロディーを吹いていた。
次はユービーソーナイスだった、これはボーカルのお姉さんが歌ったのだが、普通にイントロが有ってお姉さんが歌い出した、すると高木さん、これもまた絶妙にわからないところからメロディーを吹き始めた、こらもまたお姉さんが泣きそうだったので私はずっとメロディーを吹いた。
この絶妙にわからないところから絶妙にメロディーを演るのはとてもすごかった、私もいつかやってみたい。
さてそのライブの打ち上げで高木さんはその店のオーナー社長と仲が良くなって福岡に住むことになるのだが、この辺りの詳しい話は知らない。
福岡には1年くらい住んで居られただろうか?
福岡に住んでいる時にはそのチャイニーズパブと社長がやっていたバーで演奏している、私はいつでも行けると安心していたか怠けていたかでこれは一度も聴きに行っていない、今思えばとても残念だ、ベースの不破さんが福岡に遊びに来た時に聞きに行っている確か「ネイマ」とかやっていたと聞いた、それは美しい音だったらしい。
ある日高木さんから電話があった
「川下さん、私福岡出ることになりまして、ご飯でも食べましょ」
という事だった、高木さんの住んでいる家と私の家は4キロくらい離れていたか、私は当時車は持っていなかったのでバイクで高木さんを迎えに行き、2人乗りでうちに来て、高木さんが買ってきたワインを飲んで夕飯を食べた。
そのバーとかでの演奏だが、後で聞いた、高木さんは今日選びにすごく時間をとったというか、すごく慎重に真面目に厳しく選曲したらしい、その上、曲が決まらないと、その日の仕事には行かなかったらしい、その辺りが福岡を出ることになる理由の一つだったらしい。
そして高木さんは福岡を離れ大阪に行った、大阪では西成で肉体労働をしていたか!一度ハガキを貰ったそれには
「、、、、、私も毎日労働しているので、とても体にいいです、、、」と書いてあった。
しかし、そのハガキは私宛ではなく私の家人宛だった。
沖さんにその話をしたら
「高木さんらしいな~」
と感心していた。
その少し後か、共通の友人が新幹線の中で高木さんに会って、福岡の、これももうない人形でライブをすることになった、高木さんと私のデュオだった、演奏の前に「川下君は即興をやりますか」と聞かれた、私は「はいなんとか」と答えた。
楽器を構えるとまた高木さんが耳元で「最初の音なんにしますか?」と聞かれた、私はなんとなく「はいGで、と答えてG~と吹いたが、高木さんの出した音はGとは関係なかったようだ。
2人でやって、私がやって、高木さんがやって、また2人でやったのだったか、何をやったのか覚えていないが、高木さんのソロはカリプソかなんか南の島の歌みたいなホヮーとした気持ちの良いやつだった。
これはDATで録音したのが何処かにあると思う、そのうち探して聞いてみよう。
それからしばらくして高木さんは豊橋に住んでいるという話だった。
私の前にやってたバンドで豊橋に行った時、高木さんが遊びに来てくれた、私達は普通に始めた、高木さんは入ってこない、入ってくれないのかな~と思ったらいきなり。
「ブォーゴォー」という音がして、何が起きたのかと思って横を向いたら、高木さんが吹いていて。高木さんの音だった。すごい音だった。
それからしばらくして高木さんは豊橋を引き払い横浜に移ったと聞いた、身体があまり良くないという話も聞いた。
高木さんと最後に会ったのは横浜ジャズプロムナードで、確か関内ホールか、楽屋に会いに行った
楽屋に入ると
「やー川下君、久しぶりー」とハグしてくれた。
高木さんは病気のせいかひどくやつれていた。
その時の高木さんのセットは、高木さん、トランペットの崔さん、ベースの井野さん、ドラムが小山彰太さんだったと思う、大きなホールで遠くから見た。
「川下さん、私が死んだらこのテナー川下さんに買って貰ってそれで葬式出しますから」
「そんなこと言ったって高木さん、私そんな250万円も持ってないですよ」
というような会話は3回くらいはした。
今年は高木さんが亡くなって17年らしい。
最後にも書いておく
高木元輝さんは日本のというよりは世界のジャズのテナーサックスの歴史の中でも特別な人である。
高木さんが日本人で最初にフランスの世界ジャズ人名辞典に載ったのは偶然では無い、これは必然だった。