2007年4月30日(月) 鎌倉その2
鶴岡八幡宮を後にして・・・。
八幡宮の東鳥居をくぐり住宅街に出ます。
鳥居を出たすぐ側に・・・。
畠山重忠邸址の石碑。
畠山重忠は鎌倉幕府初期の頃の御家人。
石碑によると、源頼朝の姫君が病になり、京都より名医を呼びました。
そして、この畠山重忠の南御門にある宅に移動したとのこと。
ここは南御門の家のあったとのこと。
進んで行きますよ。
真ん中に鎌倉の「鎌」。
小学校に沿って左に・・・右に・・・。
小学校の正門前を通って・・・。
ここから、道がレンガ張りになってきます。
ほらね。
マンホールの蓋の周りがレンガ張りです。
治承4年(1180年)、源頼朝が富士川の合戦の後、ここに大蔵御所を建てました。
幕府を開いた後、頼朝、頼家、実朝と続き、北条政子が亡くなるまでの46年間ここで政治を行っています。
白旗神社。
正治元年(1199年)、頼朝は落馬がもとで亡くなると、ここに葬られたそうです。
この石塔は、江戸時代、島津氏により建てられたもの。
山に面しているところに・・・。
登ってみましょう。
何かを祀ってあるようですね。
島津忠久、大江広元、毛利季○とあります。
三方のお墓のようですね。
真ん中にあるのは・・・。
鎌倉幕府初期の重臣。
幕府政所の長官も務めました。
頼朝亡き後、北条氏による執権政治の確立に尽力したそうです。
大江広元の四男です。
神奈川県厚木市周辺の毛利の地を治めていたため、初めて毛利姓を名乗りました。
その後、安芸国(広島県)に移り、あの毛利氏に続いていきます。
しかし、毛利季光は、宝治元年(1247年)、三浦の乱で三浦一族に加担。
北条時頼軍に破れ三浦一族とともに自害してしまいました。
向って右側にあるお墓は・・・。
大江広元のお墓と仕切られているんですが・・・。
島津忠久の墓。
あの薩摩藩島津家の祖です。
頼朝から、日向国島津庄(宮崎県都城市)の地頭に任じられてから島津氏を名乗ることに。
横道からやってきたわけですが・・・。
実は、急な石段から上がってくる所のようです。
石段の下には、ちゃんと鳥居がありました。
しかし、石段は2つあります。
一方は、大江広元、毛利季光の墓へと続く方。ここだけ鳥居があります。
島津忠久の墓には鳥居はないのですが・・・。
さらに下って行きます。
山道を通って、石段を下ります。
やっと下まで来れました。
本当はここから行くのが正解だったのかしら。
ここは・・・・・。
頼朝の墓に上がる石段の近く。
さて・・・。
もと来た道を戻ります。
再び、鶴岡八幡宮の東鳥居まで来ました。
さて・・・。
鎌倉その3につづく。





























