10代の頃、代々木の高級住宅街にあるスーパーマーケットで
レジ打ちのアルバイトをしていた。

いらっしゃいませ、○○円○○円○○円、お会計○○円になります、○○円お預かりします、○○円のお返しになります、ありがとうございました、またお越しくださいませ。

なんの変哲もない、お仕事だった。
お客さんも店員も、極めて機械的に流れて
目的を果たすためだけに、レジに並ぶ。
夕方ともなれば、次から次へと行列は伸び続け、
業務用の作り笑いも必要ないほどに忙しかった。




そのおねえさんは、年は20代前半ぐらい。
小柄でジーンズにTシャツという
カジュアルな服装をした至って普通のおねえさんだった。
私は、いつものように無表情で金額を読み上げ、
お金をもらい、お釣りを渡した。

ところが、何も考えず手元を見ていた
私のぼやけた耳に向かって、
おねえさんが、
かわいらしい京都弁でひとこと、
こう言ったのだ。

「ありがとう」

京都弁の「ありがとう」は本当にほわっと温かい響きで
私は思わずハッとしておねえさんを見た。
おねえさんは、ほかのお客さんと同じように
こちらを見るでも、微笑むでもなく
お財布と買い物カゴに視線を落とし、
すぐにお店を出ていった。

それなのに、なんだかすごく嬉しくて、あったかくて。


ほかの人と同じような無機質な買い物の行程の中に、
おねえさんには「ありがとう」とお礼を言う手順が
機械的に組み込まれていたのだなと思う。
機械的ということは、当たり前ということ。
作り笑いをする必要もないほど、
おねえさんにとっては当たり前に、ナチュラルに
「ありがとう」という言葉が出てきていたのだろう。

「ありがとうございます」でも「どーも」でもなく
まるで、友人に接するように「ありがとう」。

私は、京都弁の「ありがとう」が大好きになった。


それから私も、お店で買い物をする時
なるべく「ありがとう」と言ってお釣りを受け取るようになった。
エセ京都人と言われようと、
そういう時に口をついて出るのは
おねえさんと同じ、京都弁の「ありがとう」。

店員さんはほわっと肩の力を抜いてくれるし、
一瞬驚いてにこっと笑ってくれたり、
突然声が大きくなって「ありがとうございました!」と
言ってくれる人もいる。
おもむろに、背筋が伸びる人もいる。

「ありがとう」のパワーを感じる。
京都弁の温かさを感じる。


最近「ありがとう」を言う機会が増えた。
そして「ありがとう」が自然と口をついて出るようになってきた。

そこでハタと気が付いたのです。
オレ、半分ぐらいの「ありがとう」が無意識に京都弁になっているけど
東京生まれのくせに、なんでだったっけ?

それで記憶を辿って思い出した。
買い物のたびに、
京都弁で「ありがとう」を言ってくれていた
おねえさんのこと。

だいぶ自然になってきたとはいえ、
まだまだ意識しないと出てこないこともある「ありがとう」。

私の感じたあのおねえさんの優しい響きを
いつか私も奏でたい。