内田 百けん

第一阿房列車

“なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う”

この言葉を、私自身の言葉で吐くことが、
今現在、私の望む最大の欲望である、と思う。

行動に、理由や着地点が存在するのは当然であり自然であり、ましてや必然のこと。
しかし“理由がなければならない”根拠は、そういえば特にはないことである。

私は鉄道が好きである(体臭と倦怠と疲労しか得られない満員電車は例外とする)。出発する時も、乗っている最中も、降りた瞬間も、降りてから起こるなにかしらも、すべてが好きである。
ある点から点への移動の最中、その間“しなければならないこと”は、皆無だ。景色は美しかったり、穏やかだったりする。乗客は沈黙していたり、歓談していたりする。時間は緩やかで、ささやかに着飾っている。あの空間で過ごす時間、私は誰の目も気にすることなく、まったくの孤独に身を置くことができる。他者の中の孤独ほど贅沢なものはなく、孤独になってわかる人の温かみと風景の美しさに私の性根は180度ひっくり返る(そしてまた元に戻る)。時は金なりとはよく言ったものだ。さまざまな“自由時間”がそこにはある。

“なんにも用事がないけれど……”
そう言って、私も近々出かけることになる。
考えることと感じることが、必然である瞬間のために。