本物の僧侶が育たない理由(6-21) | 仏教の教えと心理学で運命をデザインするプログラム

仏教の教えと心理学で運命をデザインするプログラム

仏教の師である真言宗の住職から10年間指導を頂き、
その教えからさらに14年の歳月をかけ整理体系化。
仏教と家族心理学や人間関係学を駆使した、
運命をデザインするプログラムをいよいよ公開。
(福岡県創業補助金採択事業地域3-2-1618)

 

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現在の仏教は、

先祖供養と葬送儀礼のための

ものだと思われています。

 

 

 

ところが、本来の仏法は葬式とは

無縁のものであり、智慧ある

生き方を説いたものなのです。

 

 

 

もともと仏法は釈尊が悟られた理法であり、

苦からの解脱を根本的に説いたものなのです。

 

 

 

その教えにより人を導き、

人を苦から救う。

苦からの解脱を目的としています。

 

 

 

だから仏教ではなく

本当は生き方の方法だから

仏法なのです。

 

 

 

昔はその法を説くために阿羅漢(僧侶)は

修行し教学に励み、

悟りを得る努力をしたのです。

 

 

 

ところが現在の仏教は

悟りを持たぬ仏教学者が、

 

 

 

僧侶になるための

仏教教育を行っています。

 

 

 

また彼ら仏教学者は酒を喰らって、

修行を行わずサンスクリット語の

意味を説明する。

 

 

 

それで仏法を教えた気になっている。

 

 

 

ゆえに仏教の専門教育を受けても

仏法の香りはするがチカラがない。

 

 

 

そんな僧侶が出来上がるのです。

 

 

 

彼ら仏教学者は悟りを持たず

戒の本質も意味も知らず

知らないから実行できず

その上で人を育てる。

 

 

 

これで本物が育つわけありませんよね。

トホホ。

 

 

 

袈裟功徳という言葉がありますが

袈裟を着ているからといって

 

 

 

本物と思わない方が

いいのではないでしょうか。

と、私は師に教えて頂きました。

 

 

 

ただ、本物かそうでないか。

それを見分けるのは

そう難しいことではありません。

 

 

本物は金のことをあまり言わない。

本物は現代にマッチした説法ができる。

本物は心のことを熟知している。

本物は戒を持し実践している。

本物は大いなる慈悲を持っている。

本物は教学と修行のバランスが取れている。

 

 

こういう人が本物の阿闍梨

(僧侶)ではないでしょうか?

 

私は在家の立場ではありますが

本当はこれを求めているんですよねぇ。

 

でもまだまだ遠い理想なんです。笑。。

 

 

 

(この写真の方はこの文章とは関係のないものです)