山本陽子さんの生い立ちと芸能界入り
Copilotさんに書いてもらいました。
日本を代表する女優の一人である山本陽子さんは、1942年3月17日に東京都中野区で4人兄弟(兄、姉、弟)の次女として生まれました。戦時中はあきる野市で疎開生活を送り、終戦後は国分寺市に転居しました。子供の頃はおとなしい性格で、中学生くらいまでは人前にあまり出ず、きょうだいとケンカしたり親に叱られることもなかったそうです。
高校進学後は弓道部に入り、徐々に積極的な性格になっていきました。高校卒業後は「いい会社に入って結婚したい」という思いが強く、堅実な野村證券に就職しました。証券会社では営業部に配属されて主に投資信託を担当し、電話や手紙で客とやり取りをしていました。
社員旅行で箱根へ 昭和ですね。
しかし、21歳のときに知人が日活に山本さんの応募書類を送ったことがきっかけで、芸能界入りすることになりました。1963年に日活ニューフェイスとしてデビューし、映画「抜き射ちの竜 拳銃の歌」のヒロイン役で本格デビューしました。映画では吉永小百合ら「日活三人娘」の人気に押され、なかなか作品には恵まれませんでしたが、テレビドラマに進出してからは日本的で清楚な美貌で人気を集めました。

子供心によく覚えているCM
上から読んでも下から読んでも山本山のお姉さま
「絶唱」「白い影」「七人の孫」などのドラマに出演し、幅広い役をこなす高視聴率女優として人気を博しました。その後も「ザ・ハングマン」シリーズや「付き馬屋おえん事件帳」、「京、ふたり」などのドラマに主演し、様々なジャンルで存在感を示しました。山本海苔店のCMに長く出演したことでも知られ、2010年には42年という専属タレント契約の世界最長記録としてギネスに認定されました。
舞台でも活躍し、「放浪記」「細雪」「おはん」などで重要な役を演じました。1994年には「おはん」の演技で第19回菊田一夫演劇賞を受賞しました。上演回数は400回以上を記録しました。2006年には「いろどり橋」の演技にて名古屋演劇ペンクラブ賞を受賞しました。2008年、2009年には「放浪記」の舞台では今度は日夏京子役で、上演回数2000回記録舞台に出演しました。
2012年頃からは、第二の人生を楽しむために70歳を機に、東京から静岡県熱海市へ移住し生活を送っていました。2024年2月20日、急性心不全のため、熱海市内の病院で死去しました。81歳でした。亡くなる数時間前まで元気な様子で甥と行動を共にしており、帰宅直後の急性心不全が死因となりました。最晩年も積極的に仕事をこなしており、2024年2月2日放送のテレビ朝日「徹子の部屋」に高橋英樹と共に出演していましたが、これが生前最後の出演となりました。4月にも舞台出演の予定を入れていたということです。
山本陽子さんは、日本を代表する女優の一人でした。清楚な役から悪女までカバーし、女優としての地位を確立しました。生涯独身を貫き、自分の人生を自分らしく生きました。日常生活で辛さや苦しさはもちろん感じましたが、色んな意味で落ち込まない性格でした。基本的に子供が大好きで、子役と共演すると仲良くなって、その子達が大きくなってから食事をしたことも何度かありました。高校時代の友人やデビュー前に勤めていた野村證券の同僚達とは、40年以上経っても仲が良く、それぞれの仲間たちと時々会って交流を続けていました。友人たちからは、「がめちゃん」と呼ばれていました。
山本陽子さんのご冥福をお祈りいたします。