明治政府は1872年 当時の琉球国を廃して琉球藩とした後 廃藩置県に向廃藩置県に向けて清国との冊封関係通称を絶ち 明治の年号を使用などを迫った。
しかし琉球がそれに従わなかったため 1879年3月 処分官の松田道行が警官ら約600人を率いて琉球に入り 武力的威圧のもと首里城で廃藩置県を布達、 首里城明け渡しを命じた。
藩王(国王) 尚泰は華族に叙せられ、 東京在住を命じられた。 琉球士族の一部はこれにこうして申告に救援を求めて亡命 申告も日本政府の一方的な処分に抗議した。
この本の58ページより引用
冊封体制(さくほうたいせい、さっぽうたいせい)又册封体制とは、中国の歴代王朝の君主(元朝、清朝を含む)たちが自任した、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係を規定する体制の一種。
Wikipedia より
清国に 亡命した琉球士族はその後どうなったのだろう。
まさかその子孫が沖縄独立を叫ぶ今日の反体制派なのだろうか。
波よ鎮まれ (尖閣への視座)
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沖縄の人は縄文人の子孫
その観点からすれば沖縄の人も日本人
むしろ日本人よりも日本人と言っても過言ではない
だが人種問題と 国家への帰属の意識はまた別問題。
日本 台湾 支那共産主義政権そして琉球
尖閣にまとわりつくそれぞれの 考え方
時代を遡れば 国境などというものは存在していなかった おそらく縄文時代の人は 台湾や大陸とも 外国を意識することなく 往来していたのではないだろうか。
国境がなければ国家もない 当然国家間の戦争も無い
まさかここでも縄文賛美が始まってしまうとは…