どうして人間は、と書くとまなつさんいつから人間の代表者になったんですかとなりかねないので

どうしてまなつさんは、と書き直そう。

 

どうして比較してしまうのだろう。

比較するだけならおそらく問題は無い。

しかし、半自動的というか無意識に比較はある目的のために実行していることに気づく。

その目的とは優劣をつけることだ。

醤油味のラーメンばかりだから、味噌か塩かで悩むような比較なら実害はないだろう。

 

しかし、比較の持つ最大の害は

比較の結果、自らが優越感か劣等感を抱いてしまうことだ。

ちょっと話の順序が違うが、

赤と青を比較して、そのどちらが優れているとか劣っているという絶対的な基準がないように

比較した対象に優劣は本来存在しないはずなのだ。

しかし、人間の価値観がそこに優劣という概念を混入というのか加味してしまう。

その根底には人は他人より優位に立ちたいという思いがあるからではないだろうか。

 

優越感は驕り、うぬぼれ、傲慢となり

劣等感は妬みへと連鎖する

 

 

 

例えば私は私、あなたはあなたのように

そう赤は赤、青は青というようにそれぞれに違いますで終われないのだろう。

 

そもそも

人は同じ人間といいつつ

その人の外観が違うだけで扱いが大きくことなる

つまり同じ人間であっても同じように対応しているわけではないのだ

 

たしかに電車の中に悪臭を放つホームレスがいたらその周辺にはATフィールドが張られることになるのだが

同じ服、靴、時計をし同じようにおしゃれで清潔であっても同じ扱いとはならない。

 

日本人がiPhoneを使いたがるのもこの対比の対象を少しでも軽減するという無意識レベルの選択があるからだろう。

とりあえず、みんなと一緒ならその部分に関しては比較され優劣の判定基準の対象にならない。

 

世間の価値観から完全に自由になれれば、その人は真に解放された状態にある

まなつさんはそう思う。のだがそれを行うことは極めて難しい、聖書を引用すればラクダを針の穴に通すよりも難しい。

 

結局のところ世間から離れているようでも、その根底には俗世間的な価値観に固執している自分がいる。

そんな自分から脱するには、もう死によって現在の意識をシャットダウンするしかないのではないだろうか。

もっともこれも世俗的価値観か宗教的価値感が邪魔をして実行する気はない。

 

人間は。じゃなくてまなつさんは

自ら構築した檻のなかでもがきながら檻から出られないと嘆くあわれな人間なのだ。

 

もうすぐ来年だが、差異と優劣の相関関係という幻想から目覚めたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局人間はサル

戦争の要因もだれがサルのボスになるかの争いに過ぎない

比較による優劣の究極の形式、もう儀式とよんでもいいが

それが戦争なのだ。

 

戦争の目的は権力者の金儲けと言われ、それはまた事実でもあるが

結局金儲けの動機は、人より多くの富を得て

権力を得て、自由を得て、他人より優位に立つという

そのための手段が経済活動、そして戦争は経済活動の最終奥義

 

人間はどうしても猿山のボスになりたいう心理に抗えない。

 

 

 

もし比較という優劣決定という儀式から自由になれたら

現状の何が問題なのかを。

これはまなつさんの場合としておくが、多分何も問題はないのではないだろうか

何故なら、赤が赤であり青が青であるように、まなつさんがまなつさんであるだけだから

それ以上でも以下でもない、ただそれだけ

 

あ~だからLet it beなんて歌があるわけだ!

Whisper words of wisdom let it be. 

 

Let It Be Let It Be
 
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え~まさかビートルズの引用で帰結する展開になるとは想定外だった。

 

僕はイヤだ!で終わるよりは良しとしよう

 

 

あれまた比較して優劣をつけてしまった。やれやれ