藤原隆家をご存じか?
そう、日本史の大学入試頻出問題の「刀伊の入寇」を撃退した人物。
これを習ったとき、「平安貴族の御曹司がなんで、九州に居るんだ?」と思ったものでした。
この人物に興味を持ったのは最近。
没落していく「中の関白家」を支えつつも、自分の生き方を貫き通したその人生は、悲しくも、痛快でもあります。
梅原猛氏もこう言ってます。
「藤原隆家という人は知恵も才能もあり、かつ剛毅な人であった。この点、彼の兄伊周と違う。子供の時から彼はやんちゃ坊主であったが、流罪が許されて後も彼は勇敢で沈着で誇り高く、道長も一目置く存在であったらしい。」
天下の「さがな者」(荒くれ者)といわれていたようで、戦国期の「傾き者」とおなじような精神を感じます。
NHKの大河ドラマも戦国時代ばかり扱わずに、他の時代にも芯の通った生き方をした主人公をも扱ってもらいたいと思います。(視聴率からいうと不利だとは思いますが、そこはキャストでカバーしてでも。)
藤原隆家は、979年従一位藤原道隆の4男として生まれました。
当時、道隆は父の兼家の長兄として、跡を継いで、藤氏の長者となっていた。
娘の定子を、一条天皇の中宮とし、この家族「中の関白家」の将来は、順風満帆かと思われた。
(定子に仕えた清少納言の「枕草紙」には、このころの話がたくさん載せられている)
隆家も、994年わずか15歳で従三位と公卿に列せられている。
しかし、この家族はここが頂点であり、そこから不幸が始まるのである。
この不幸の中を、自分の生き方を通し、日本史に名を残したところに隆家の強さがある。
不幸の始まりは、道隆が長者となってからわずか5年、953年43歳で亡くなったことだった。
死期を悟った道隆は、長男伊周の関白就任をはかるものの、果たすことができなかった。
このとき、伊周は内大臣、隆家は、995年権中納言となっていた。
その後、弟の道兼が関白となるも、これも僅か数日後に病死した。
その結果、兄の道隆、道兼に隠れて目立たなかった道長と、伊周が争うこととなった。
結局、道長が左大臣となり政権を掌握することになるが、伊周、隆家兄弟は、道長に対抗してゆく。
有名な「枕草紙」の「くらげの骨」は、このころの話である。
これも、入試頻出ですね。
そういった緊張の中で事件(長徳の変)が起こった。
996年4月24日伊周が通っている女性に、花山法王が手を出したと誤解して、伊周、隆家兄弟は、花山法王に矢を射かけたのだ。この罪で追われた兄弟は懐妊中で二条宮に里帰りしていた姉中宮定子のところへ逃げ込んだ。
中宮定子は、
しかし、検非違使に捕えられ、伊周は太宰権帥、隆家は出雲守に左遷された。
これにより、伊周と隆家は、政治的な力を大きく失ってしまった。
これがいやがおうでも、家族を不幸にしているのである。
この事件により、定子もショックのためか突然出家してしまったが、不幸はまだまだ続く。
数ヶ月後、二条宮が全焼し、さらには、母貴子も没した。
姉中宮定子は、無事女の子を出産し、対面を望む一条天皇により、再び宮中に迎え入れられる。
しかし、中宮御所は清涼殿からほどとおいところで、后妃の寝殿にはふさわしくないところであった。
出家後の入台は、顰蹙をかっていたという。
一条天皇の愛情は変わらず、定子はついに一条天皇第一皇子敦康親王を出産。
しかし、道長の焦りを招き、彰子を中宮とした。異例の一帝二后である。
それでも、定子はまた妊娠し、里帰りすることになった。
しかし、実家は焼けてしまったため、身分の低い中級官僚の中宮大進平生昌の家で出産することになった。
このような経緯は、定子に多大なるストレスを与えたと思われ、定子は第二皇女を出産した直後に、崩御した。
一方、伊周、隆家は、1年ほどで召喚された。隆家は元の役職から2階級ほど下の兵部卿に任じられたあと、権中納言に復帰した。その後、従二位、正二位となったが、官は中納言にとどまったままだった。
姉定子の忘れ形見 敦康親王の立太子を拒否した一条天皇を「人非人」と非難したり、道長の機嫌を伺って
やり手がない三条天皇皇后の皇后宮大夫を引き受けるなど、気骨のある行動をとっている。
1010年2月14日兄伊周は失意の中で、没した。死後屋敷は、荒廃して果てたという。
藤原実資は「遠任之案」を進め、眼病治療のためにというよりも、自分が活躍できる場所として太宰権帥を受け、九州大宰府にくだった。
当地では善政を敷き、人望も厚かったという。
1019年大陸の国家「遼」配下の満州を中心に分布した女真族とみられる海賊船団が壱岐・対馬を襲い、筑前に侵攻した。
50隻約3000人の大人数で、切り込み隊、盾を持った弓部隊が組織されていて、対馬、壱岐はひとたまりもなく蹂躙された。
老人、子供は殺され、壮年の男女は船にさらって、家には火をつけ、牛馬を殺して食べた。
当時の壱岐守藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて戦いを挑むが、衆寡敵せず、玉砕した。
その後、福岡県糸島郡に上陸し、博多まで侵入した。
知らせを受けた大宰権帥隆家は、九州の豪族や武士を率いて撃退した。
九州の人民は、隆家の赴任時で幸運であった。
他の貴族では、こうは行かなかっただろう。
一方で朝廷は、無策のままだった。
このあとも、対策をすることもなく、隆家にも恩賞はなかったと言われている。
理由は、命令をだしていないものに恩賞を与える必要はないという、驚くべき理屈だった。
外国からの攻撃を撃退したという意味では、北条時宗にも並ぶ人物といこと。
その後、京にもどり、1044年に65歳で亡くなったが、子孫も繁栄しており、子供や孫に看取られ、波乱の生涯ではあったものの幸せな最後だったと思われる。