今更ですが、インサイド・ヘッド2が公開中ですね!
こないだ(もだいぶ前😂)
地上波でやってたインサイド・ヘッドも見ました。
私たちの感じる喜怒哀楽が
ヨロコビ、カナシミ、、、という
キャラクターとなって
私たちの頭の中に別個のものとして存在してるという世界観。
脳内ポイズンベリーという映画もあるのだけど
近しいものを感じた。
どちらも頭の中を擬人化して
面白く分かりやすく表現してるなって
あくまで表現のひとつだと思ってたんだけど
そう捉えた方が
行動しやすくなるんじゃないか?
と思ったんです。
喜怒哀楽も
自分を責める声も守る声も応援する声も
全部私1人、私のひとつの心から現れる。
そう思っていた時は
とにかく自分の中から湧いてくる気持ちや考えに
振り回されている感覚でした。
だってひとつの出来事に対して
真逆の気持ちが湧いてくることも多々あり
どれがホントの気持ちなの?って悩んじゃう😑
好きだけど嫌い。
やりたいけどやりたくない。
怖いけど見たい。
どっち取れば良いの?って。
全部あなたの気持ちだから
何選んでもいいんだよ、というのも分かるし
別にひとつのことに対して
ひとつの感情しか持っちゃダメ!なんてことは
ないんだから
いろいろあっていいじゃない🙃ってのも
分かるけど
行動に対する気持ちがいろいろあると
スムーズにいかないのよね💦
でもインサイド・ヘッドや
脳内ポイズンベリーを見る
視聴者目線で自分のことを見て
それぞれの気持ちや考えを持った
"たくさんの人がいる"としてみると。
好きな人と嫌いな人
やりたい人とやりたくない人
怖い人と見たい人
そりゃまぁ、いろいろいるよねーって思えて
どれがホント?とかなくて
全部そのままあっていいし
その人たちの考え(感じた理由)ってなんだろう?って客観的に見やすくなる。
感情に溺れないってまさにこういう
感情を客観的に俯瞰的に捉えること
だと思うのだけど
それを実践的に表現してるのが
映画でやってる
感情や思考の擬人化だと思うんです。
体感覚メソッドに出てくる
頭の声も私の中のひとりなんですよね。
私のことが大事で傷ついて欲しくなくて
行動を制限して鳥かごに閉じ込めておきたい
めーーーっちゃくちゃ過保護な親みたいな人。
それは生存本能と過去の経験(特に親の声)が
元となって現れてくるものだけど
これと一体になってるときは
マジで行動できない😭
だって"私"が考えてることだもの。
私には無理だよ
私にはできないだよ
こんなことしたら嫌われちゃうよ
"私"がそう思ってるのに
それをやるって難しくない?
でもこれも"私の中のひとり"だと捉えて
なんかわーわー言ってるなーって
視聴者目線で眺められたら
その声からちょっと分離するじゃない?
そしたらそれホント?って冷静に考えられるし
他の気持ちや思考に目を向ける余白ができる。
それだけでもう
行動に対する気持ちが軽くなる。
常に視聴者目線でいる必要はないけど
体感が悪いことに気づいたら
視聴者目線に立って
頭の声さんはなんて言ってるのかな?
どんな視線で私を見てるのかな?
って意識でいると、自覚しやすいです😊