その本質をちょっとつかんだ気がするのでシェアします。
私は昔から「わたしのせいにされたくない」という気持ちが強いです。
直近だと、上の子(小学生)がインフルエンザにかかったとき
まだうつった気配もなく元気もりもりな下の子(4才)を保育園に連れてくかどうかというところで
「万が一インフル感染してて保育園で広まったらみんな登園禁止だよ。
私のせいで、そんなことになったら困る」
なんて思考をして上の子の出席停止期間丸々下の子も休ませました。
こういうのがしょっちゅう出てくるので、仕事でリーダーなんかやらされた日には、もう毎日がとっても苦しかったです。
そんな中、親にされて悲しかったこと的なワークをしたときに思い出したんです。
高校3年生のとき、勉強につかれてちょっと投げやりに進路を選ぼとした私に、母は「好きにしなさい」と言い、その後こう続けました。
「お母さんがなんか言って、あとでお母さんのせいにされたくない」
ああ、この人は私のことなんてどうでもいいのだ。
自分を犠牲にしてまでは私の人生を考えてくれないのだ、と当時はとても悲しくなりました。
ワーク中の私は
「確かに自分のせいにされることは嫌なことだよね、仕方なかったよね」
「だって私も今、自分のせいにされるのがこんなに嫌なんだもん」
と、自分を納得させて母を許しました。
いや、許したつもりになっていました。
でも全然許せてなかった。
その後、同じように「自分のせいになるのが嫌」という場面になると、お母さんのあの言葉を思い出して、お母さんを恨むようになりました。
本当は、自分のせいになるとかならんとか抜きにして考えたいのに、それができないのはお母さんがあんな風に教えたからだ・・!!
母を許して救われるどころか、メンタルは悪化しました(笑)
それがつい先日、はるラボの質問会(はるかの部屋)である方への回答の中でおっしゃったのがこの言葉(若干違うかも)です。
「この世に生まれるとは、魂も肉体もごちゃまぜなところから肉体だけがおちてくることです。
魂から切り離された大きな喪失感を、一番近くにいるお母さんに埋めてほしくなるんです」
この言葉で、私は「とっても悲しかった」気持ちを思い出しました。
そして本当はどうしてほしかったのか。
すごく悲しかった。
ちゃんと私を見てほしかった。
投げやりになってる私に気づいて、叱ってほしかった。
一緒に考えてほしかった。
そう「一緒に考えてほしかった」のです。
そして「わたしが一緒に考えるね」と声を掛けたとき、気持ちよく胸が広がる心地がしました。
初めて深い呼吸ができたんじゃないかっていうくらい。
ホッとして喜びで胸が高鳴り、じわじわと広がる安心感もあり、やばかったです。
「あの時お母さんはそうせざるを得なかった、だってお母さんも人間だもの」
という形で母を許すのが一般的のような気がしますが、私は「お母さんがいなくても私は大丈夫だから。もう許すよ」という形に昇華できたほうが心地よく感じました。
大丈夫、私は自分の足で歩けるから。
こちらがより本質的にお母さんを許し、自分の人生を腹括って歩いて行けるようになるのではないでしょうか。