実家の狭い庭の、木というか伸びすぎた草か、とにかく南側の他人の駐車場の上に葉っぱが1メートルもかぶっていたので、金曜に伐った。
いや、よく伐ったな。塀に足を掛け、のこぎりを手に、アシナガバチの巣を落としたのでハチたちが右往左往するのを横目に、停めてある車に枝が落ちないように慎重に。
つるが木にまきついていて、それが同軸ケーブルにも巻き付いて、それをほどきながら切り離す。枝は太く、のこぎりをさんざん引いてやっと一枝、というペースで汗だくになった。
駐車場を使っていた人は、夕方車を停めようとしたら、車を覆わんばかりの木がなくなっているからびっくりしたことだろう。
植物との格闘は、まぎれがなく、敗退が決まっているからわかりやすい。庭の雑草をいくら取っても、結局は芝生が後退している。やり続けないといけないが、中断しても続けていても、程度ものだ。最後には雑草が勝つ。
たまに途轍もなくきれいなお庭を作られているところがあるが、それはもう雑草との共生ができているというしかない。雑草の生命力とつきあっていけるということ。
そんなことは自分はできないので、ばっさり伐った木たちは、そのうちに元通りになろうとするだろう。新しい芽が出てきたときに、こまめに摘む作業が、どのくらいの頻度でできるかだ。
その前に、狭い庭に相当の量で置いたままの枝と葉を、適当に袋につめてゴミ出しに出さなければならない。その作業も気が遠くなる。
今回学習したのはただ一つ。二階の窓から枝葉を差し込もうとするほど伸びた木でも、なんとか伐ることができるということだ。
灯油を切り口にかけ続けると、伸びることができずに死んでしまうとは聞いている。ただなんかかわいそうなので、それはしない。掘り出すのがいいけど、根が深くて無理だ。ちびちびと、芽をつんで付き合っていこうと思う。(植物もそのほうがいいだろう。完全になくしてしまうのは、実家を解体して土地を売るときだ。それまでは仲良くしていきたい。)
伐る、という字は中学校の時習字で書いた。条幅で大きな筆を使って。もうその作品は残ってないが、自分で書いた筆字の中では、割とよくできたと記憶している。(了)