本能寺の変は六月二日。『徳川家康』(山岡荘八)を読んでいて、一日にそこにさしかかった。偶然だが日付にリアリティを感じた。

 信長、秀吉、家康のイメージは、『黄金の日日』でできているので、その記憶と、山岡荘八の創造した人物像がダブってくる。合成されると言ってもいいだろう。それはそれで構わない。この本は相当に面白い。あと四か月は楽しめる。

 それにしてもこの大量の登場人物を書き分けて、それぞれに生命を吹き込むのは神業としか思えない。素人がどんなに面白い筋を考えついたとしても、人物を書き分けるのは至難の業だ。どうしても同じような顔になるか、違う設定にできても、その時々の表情が常に同じだったりする。

 バラエティばかりのテレビにあきあきして、夜になったら本ばかり読んでいる。こんな続けて読むのは高校の頃以来だ。いいんだろうか。

 本は紙の本に限る。ただ何か月か前に、市立図書館の電子図書館サービスで何冊か借りて読んだことがある。そうだ、コロナでどこにも行けなかったときだ。

 タイトルで何冊か選んで、ぱらぱらとページをめくって読んでみた。紙の本に比べて、読むスピードが速くなる。一日で二冊くらい読んでしまった。なぜか?

 借りたのは小説ではなく、なんか理科か国語系の知的好奇心を満たすものだったと思うが、それすらも覚えていない。

 今思うと、読後の感想も、ああこういう話題なんだね、という以外のなにものでもなかったような。

 なので読書を満喫したという気がせず、それっきりやめてしまった。

 もしかしたら、最近の読書というのは、そういう行動を言うのかと思っている。

 これはどういう内容だ。最後どうなるんだ。

 こうして、ああして、ああこうなってこうなるのか。

 ○○(という本は)読みましたよ、こういう内容でしょ。

 マニュアルを読むのならともかく、これじゃ書いた人も手応えがないだろうと思ったら、書き手もどうやら読者はそういうもんだと割り切って文章を作っているみたい。

 紙の本で読もうよ。面白いよ。(了)