母がいなくなった部屋で、(それは居間なのだけれど、母の介護用ベッドが置いてあったし、仏壇が二階から下ろしてあって、母の寝起きする場所だった)母の誕生日に買ってあげたCDを聴きながら、暗鬱たる気持ちになる。母は施設に入っただけなのに。

 人類最後の・地球で最後の一人になった時のような気持ち。

 録音が何になるのか。

 AIを相手に気持ちをほぐしていく?そんなことは、自分以外のほかに人が存在している時に思うのであって、本当に話し相手がAIだけになったら、たぶん、発狂するか、AIをたたき壊す。

 読書だって同じ事だ。絶対にできやしない。

 ずっと昔。妻と付き合い始めた頃、固定電話だけだった当時、妻の固定電話をなんべんか鳴らすと留守番メッセージがしゃべりだした。それは妻の声だった。

 (もし何かで妻が存在しなくなっても、この留守番メッセージの声はそのまましゃべり続ける。)その孤独と怖さを想像したら、途轍もなく怒りが湧いてきて、声を荒げてその留守番メッセージをやめさせた。そんなことがあった。
 自分以外誰もいなくなった地球は、時間が止まっているのと同じだ。日が昇り、日が沈んで、草が伸び、花が枯れても、日記を書くことはない。他の誰かがいるから、自分が存在できることを確信する。

 昔々、アルバイトで行った倉庫番のような仕事。八時間くらいの止まった時間。時間の流れから取り残された空間。一日それを経験しただけで、絶対にこんな仕事には就くもんかと思った。

 そんなことを考える。

 けれど、妻はいる。母も施設で暮らしている。子供は地球上に散っているが元気だ。

 だから爆音で佐野元春を聴くことができる。

 星新一を、山本周五郎を読むことができる。

 仕事は、わかりやすい。他の誰かがいなければ、仕事は存在しない。

 労働ほど人間を幸福にするものはない、と幸田露伴が書いている。

 もし、地球上で最後の一人になった時、汗を流して菜園を作り、木の実を食べながら、生きている幸福を感じることはできるのだろうか?(了)