久々の更新になります。

 

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がんを体験した人のブログって

 

ある日突然投稿されなくなって

 

しばらくしてから

 

ご家族の方から

「実は、、、」みたいなお知らせを読むことがある。

 

 

 

だから

もしかしたら

このブログを読んでくださっている人にも

 

しばらく更新がないと

 

「大丈夫かな、、」

 

と心配になる人もいるかもしれません。

 

 

 

 

わたし自身

たまに見にいくブログの更新がなくなって、、、

 

そいうことを体験してから

 

がんを体験している人のブログを見るのが

つらく(こわく)なってしまって

 

いわゆる

闘病ブログというカテゴリのものを

 

あまり見ないようになりました。

 

 

 

 

 

オストメイトになってすぐに

一人ではとても乗り切れないと思ったので

 

心の安定や安心のための情報が得たくて

 

「若い女性のためのオストメイトの会」に参加していました。

 

 

 

入会時にもらった冊子を読んで

 

オストメイトになるきっかけは

わたしのように直腸がんだけではなくて

 

さまざまな経緯でそうなった方がいらっしゃることも知りました。

 

 

 

その会の中で、

わたしと同じ病気(がん)を体験していて

オストメイトになった方が、

 

「それでもわたしこんなことに今チャレンジしているんです」

 

と、イキイキと登山やマラソンをしている姿が写真と共に取り上げられていて

 

わたしはその方にこれからのわたしの希望を見て

 

冊子に書かれていたその方のブログを検索して見てみました。

 

 

 

が、、

 

結果

その方は

その記事を出された数年後に他界していました。

 

 

 

この人いまどうしているんだろう

というわたしのワクワクした氣もち、

 

きっと今でも元気で発信してくれているに違いない、という

わたしの期待ははずれ、、

 

わたしはひどく

落ち込みました。

 

 

 

 

 

悲しみと

怒りが

沸き起こりました。

 

 

 

 

裏切られたような氣もちにもなりました。

 

 

 

 

 

なんだよ

 

 

どうせしんじゃうんじゃないか

 

 

 

 



 

 

 

「どうせおわる命なら

 

 なんで生まれてきたんだろう」

 

 

これって

わたしの小さな頃からの

 

最大の疑問

 

でした。

 

 

 

 

なんでしぬのに

生まれてくるの?

 

 

 

そこに

わたしは

 

自分の無力感と

この世の

無情さを感じていました。

 

 

 

人生ってなんなんだよ

と。

 

 

 

そこになんの意味があるんだ

と。

 

 

 

 

人間なんて

この地球を汚して

しぬだけじゃないか

と。

 

 

 

 

どうせしぬのに

わたしは

なんのために生まれてきたんだろう

 

 

 

どうせしぬのに

人間は

なんのために生まれてくるんだろう

 

 

 

氣がついたら

そんなことを考えていた

子ども時代。

 

 

 

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わたしは

ヒーラーという仕事をしているけれど

 

自分が癒されきっているなんて思ったことは一度もない。

 

 

 

むしろ

傷だらけだ。

 

 

 

 

小さな頃から

山が切り崩されていく光景を目の当たりにしては

心が引き裂かれるほどの痛みを感じていたし、

 

コンクリートで塗り固められて濁った川の流れに

肺が握りつぶされているような苦しみを感じていたし、

 

わたしの行ったことのない国で

多くの人たちが

わたしの想像もできないような体験をして

毎日のように血が流れていることを思って

よく枕を濡らしていた。

 

 

 

食べるものがなくて

死んでいく子どもたちがいる世界を

そのままにしているなんてことが

なぜ起きているのか、

なぜ大人たちは何もしないのか

 

子どものわたしには理解なんてできるはずもなく

 

ただ怒りと悲しみとを感じていた。

 

 

もしわたしがあの子たちだったとしたら、、、

 

そんなことを想像してどうにかして彼らの痛みを感じたかったし、

その痛みのない世界を作るにはなにをどんなふうにしたらいいのだろう、、と思い悩んでいた。

 

 

そして

何もできない自分の無力さを

恥じてもいた。

 

 

 

食べたいものを食べて

暖かい家で

不自由なく生活している自分に対して

罪悪感のようなものもずっと感じていた。

 

 

 

 

なんでわたしはここにいるんだろう?

 

 

何もできないのに。。。

 

 

 

 

そんなふうに思っていた。

 

 

 

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人によっては

なんでそんなこと考えるの?

 

 

と思うだろうけれど

 

わたしという人間は

氣がついた時には

そんなことを考える子どもだったのだ。

 

 

 

 

それがわたしらしさでもあるのだけれど

 

わたし自身は

そのわたしのどこか純粋すぎる感性によって

しんどい想いもたくさんしていた。

 

 

 

純粋

 

と書くと

 

「負」と呼ばれる感情を知らなくて

無垢でうつくしいと捉える人もいるかもしれないけれど

 

わたしはわたしの中に

大きな怒りがあることも知っていた。

 

 

 

 

燃え盛る

激しい炎のような

わたしの中にある怒り。

 

 

 

 

そんなものに

わたしは自分自身を晒し続けてきたし

 

自分を燃やすだけでは足りない、と

激しさを増す行き場のないその怒りは

時には

わたし以外の誰かに向けられてもいて、

その度にまたわたしは自分を責めてもいたのだから、

 

わたしの一部は随分と真っ黒に焦げていたのだと思う。

 

 

 

 

恵まれているであろう日本という国で

理不尽だと感じることもたくさん体験していた

 

 

 

 

純粋すぎる感性をそのままにしていたから

生きることがとてもつらかった。

 

 

剥き出しで生きるつらさから

わたしは殻に篭るようにもなった。

 

 

 

 

自分を隠して生きるようになって

自分を見失った。

 

 

 

 

だからこそ自分を知りたくて、

 

自分が生きる意味を知りたくて

 

心のことを学び始めた。

 

 

 

 

学んだけれど

いまわたしは

自分を知らない。

 

 

 

知っていることと

そうでないこと

その両方がたくさんあるのだということが

わかった、というだけだ。

 

 

 

今でも
どうして生きていったらいいのだろう、、
と途方に暮れることもある。
 

 

 

 

心は刻一刻と移り変わる。

 

 

 

 

なのにも関わらず

頑なに守り続けている謎の固定観念もある。

 

 

 

ずっと握りしめていることにすら気づかずに

ずっと握りしめて続けている手を開こうともしないで、

 

さっさとはずしたらいいような錘(オモリ)をつけっぱなしにして、

 

勝手にこしらえた檻の中で

これ以上飛べないんだが、、と

バタバタしてはすでに飛べることすら忘れてしまって

高く飛び立つことを諦めている。

 

 

 

 

そんなわたしを見ている。

 

 

 




 

 

自分を生きること。

 

 

思いきり生きること。

 

 

 

 

自分のいまの状況に

嫌気がさすこともある。

 

 

 

 

もうやだ

逃げたい

 

どうせしぬなら

なにもしないでしんだっていいじゃん

 

 

 

そんなふうに思う時もある。

 

 

 

 

そして

そんなきもちを

こうして書き綴っていると

 

涙のあとに

 

(とっても不思議なんだけど)

 

生きよう

 

という想いがふわっと内側に広がることもある。

 

 

 

 

ふわっと表現しているけれど
決してふんわりとして軽いわけではない。
 

 

 

 

怒りとは違った種類の

炎の種のようなものが

下半身に ぶんっ と立ち上がる。

 

 

 

 

どうせしぬんだから

 

このいのちを

爆発させて

 

生きてみよう

 

と。

 

 

 

 

 

 

なにを選んでも

 

なにをしても

 

なにをしなくても

 

わたしたちは

 

自由だ。

 

 

 

 

ただ

 

しぬ。

 

 

人は必ず

しぬ。

 

 

 

そして

わたしは

 

いま

 

生きている。

 

 

 

 

 

息をして

 

 

生きている。

 

 

 

 

 

いのちの息吹き。

 

 

 

 

 

いろんな感情を感じて

 

いやになったり

 

投げ出したくなったり

 

クダを巻いたり

 

落ち込みまくったりしながら

 

やりたいことの一つもしないで

 

1日が終わることもあるし

 

なにもしないことをしたい1日だってある。

 

 

 

 

そうして

わたしはわたしにいう。

 

 

 

 

で、

どうしたい?

 

 

 

 

 

 

 

 

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今日も読んでくださって

ありがとうございます。

 

久しぶりに

思うことを思うように表現できてとてもうれしかったです。

 

 

わたしにとって

表現することは

いのちの炎が ぱぁ と広がる時間でした。

 

 

そんなことアタマでは分かりきっていることなのに

わたしはしょっちゅうそのことを忘れます。

 

 

だから

ことあるごとに思い出しています。

 

 

 

こんなふうに表現させてもらえる場があるって実はとてもすごいこと。

 

今の時代に生まれている人は誰でもみな表現者です。きっと。

 

 

 

 

日常的にいろんなことが起きます。

 

感情も大いに波立っています。

 

 

 

そんな中で

やっぱりわたしにもしたいことがあって、

そのことに

このいのちを使っています。

 

下記にあるワークショップは

そんないのちの時間の表現です。

 

 

もしよかったら

あなたのいのちの表現に

会いにいらしてください。

 

 

しお

 

 

 

2023年スケジュール

「うたとおはなしの時間」

  2/18(土) 名古屋

  3/11(土) 名古屋

    4/15(土) 名古屋

 

 

「魂と繋がる歌の唄い方®︎」

 3/4(土)  名古屋

 3/18(土)京都

 

 

▼詳細は下記URLからご覧ください

 

 

乙女のトキメキinformationオーナメント

 

ゆめみる宝石魂と繋がる歌の唄い方®︎ワークショップ 

 

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