家の庭のツツジが満開です。

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我が家の庭には、ツツジの生け垣があります。

とっても可愛い…
庭に机が欲しい今日この頃。


家の庭に、前に植えた薔薇が花を咲かせてくれました。

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蕾がいっぱいあって、ワクワクしていたのに、ある日、どんどん葉がなくなり、弱って行きました。

よく見たら小さい毛虫が大量発生。

薔薇用の殺虫剤を勧められ散布したら、虫は死んでしまい。薔薇は元気になりました。

そして咲いた一輪です。


虫殺しちゃった。



薔薇が咲いたのは嬉しいけれど、なんだかちょっと胸が痛かった。

無駄な殺生はしないと言う私です。

薔薇の為に!と言う正当性でしたこと。


と自分に言い聞かせて…

でも、都合の良い言い訳だなぁ私と、思ったり。

こんな時に、いつも思うのは、正当性とは、実に複雑かつその人を現すものだと思うのです。


個人、個人の正当性は、善か悪かは個人では判別できない。

判別できたとしても、正当性と言う名に置き換えたとしたら、それは善に近いのだろうと…


悪には悪の正当性があり。
善には善の正当性があり。


正当性と言う名の気持ちは同じであろうに交われないのだろうな。

だからこそなんとなく、どんな行為の中にもあるその人の正当性というか、そこに至るまでの経過を深く考える癖がある。

そして、何処かで理解してあげたいと思ってしまうのも、きっと私の癖で、願望だろう。
生きていた環境や出会って来た人々、経過など、実に複雑にその人間を作り上げるんだと思う。

そこに正当性が強く出る気がしてならない。


正当性が似た人とは、仲良くなりやすいのだろうな…類は友をじゃないけど、正当性が同じだと嬉しいし、安心感がある。

反対に自分の正当性を理解されなかったり、汚された時に、人は何より哀しく寂しい気がするから…
そう思うと、何処かで決定的に正当性が異なる相手とは、深い付き合いをするのは辛いだろうと思う。


なんて、悶々と考えていた一週間だった。





一週間前の今日と同じで、今日も1日寝てしまった。

あんまり体調が優れないから寝てたほうがいいな~と思って

休む時はしっかり休まないと遊べない。



電話が鳴って起きたのは夕方4時近かった。


友人のお母様が亡くなった報せだった。


ずっと体調悪くしていて、危ないと言われていたから気になっていたんだけど…



不思議と今朝、誰か来たなぁ…と思ってたのは、友達じゃなくて友人のお母様だったんだと、その時に思った。
朝、ふと思ったんだ。そうゆう瞬間があった。



電話、なんだか、なんにも言えなくて



ああ。うん。うん。
お疲れ様でした。


だけ言っていた気がする。


うまい言葉がみつからないよ。


とだけ言った。
不思議と涙だけが出てて、涙はどこからくるのかな?と冷静に思う自分もいた。

聞くだけで会った事の無い人の死。

この涙は、誰の涙だろう?

ただ…
自分の頬を伝う涙は温かくて
自分は生きてると思った。
生きなきゃいけないんだって思った。






人の死は、なんだかとっても不思議な気持ちになる。

それと同時に、一瞬一瞬を大事にしたいと心から思う。


いつかその時が来たら、大事にした瞬間を思い出すと言う。
大好きな瞬間をたくさん思い出したい
大好きな瞬間の中に埋もれて居たい



今日も

取り留めの無い文章で申し訳ない。

いろいろ考えた一週間だった。



明日もまた頑張ろうね。

身体大事にね。

おやすみなさい。