先日99歳で天寿を全うされた恩師メナヘム・プレスラー先生のことが、5月8日の毎日新聞に掲載されました。

 

 

 

 

 

ところで今日は、『プレスラー先生の先生』について書きたいと思います。

 

 

有名な先生方は『メナヘム・プレスラーの音楽的系図』で見ることができます。

 

 

錚々たる偉人達の名前が連なっていますね!

 

 

 

 

 

でも今日は、ここに記されていない、プレスラー先生の最初の先生について、先生から直接伺ったお話を書きたいと思います。

 

 

プレスラー先生はドイツのマグデブルグに生まれました。

 

 

お兄さんがピアノを習っていたので、先生はバイオリンを習い始めたそうです。

 

 

でも次第にピアノも好きになってきて、ピアノのレッスンも取り始めました。

 

 

そのうちにご両親から、両方練習するのは大変なので一つにしなさいと言われ、ピアノを選択しました。

 

 

ほどなくして第二次世界大戦が始まりました。

 

 

先生ご一家はユダヤ人だったため、外出が制限されるようになり、

 

 

ドイツ人がユダヤ人と接触することも禁じられるようになりました。

 

 

プレスラー先生のピアノの先生はドイツ人で、国教会のオルガン奏者だったそうです。

 

 

にもかかわらず、この禁止令が出ても、その先生は隠れてプレスラー先生の家に来て、レッスンを続けて下さったそうです。

 

 

そしていよいよユダヤ人迫害が厳しさを増し、先生ご一家はドイツを離れることとなりました。

 

 

お別れの時にその先生は、何冊かの楽譜を下さり、これからもピアノを練習し続けるようにと励まして下さったそうです。

 

 

その先生の親切と優しさを忘れることはない、とプレスラー先生はおっしゃっていました。

 

 

先生ご一家は奇跡的にドイツ脱出から現在のイスラエルに移住できたものの、その過程も新しい生活も大変過酷なものでした。

 

 

その頃10代半ばだった先生は、心身の疲れとショックから、摂食障害のような状態がしばらく続いたそうです。

 

 

しかしピアノは辞めませんでした。

 

 

ドイツの先生の励ましがあったからだそうです。

 

 

また、ドイツの先生から頂いた楽譜に書き込まれていた指使いが、とても役に立ったのだそうです。

 

 

その後プレスラー先生はドビュッシー・コンクールで優勝し、世界を舞台に活躍することになります。

 

 

ドイツの先生がプレスラー先生とお別れした時、まさか自分のレッスンや言葉、また渡した楽譜が、後にこんなに偉大なピアニストを作ることになろうとは、想像もしていなかったでしょう。

 

 

私達ピアノ指導者がレッスンをしている時に、それがどのような実を結ぶのかは分かりません。

 

 

しかし確実に一人一人の生徒さんの人生に影響を与えているのだと、私はこのお話しから学ぶことができました。

 

 

もちろん、プレスラー先生が私に下さった影響は、計り知れないものがあります。

 

 

プレスラー先生とシューベルト作曲「幻想曲ヘ短調」を連弾させて頂きました。

 

 

追記ですが、ドイツのマグデブルグ市は、後にプレスラー先生を名誉市民とし、その功績を称え、先生のもとの家の場所に記念のプレートを設置しました。

 

 

河村まなみ