久しぶりの更新です。
昨日から宮城県気仙沼市、岩手県陸前高田市を周っています。
主人と私の故郷です。
金沢からは車で約10時間の旅。
震災から1ヶ月あまり、やっと来ることができました。
途中、会津若松で1泊しました。
風評被害でさぞ大変な思いをしているかと思いきや。
あれ?普通。。。
街は節電で若干暗い気はしましたが、
居酒屋では普通に大騒ぎをする会社員たちが。
新年会シーズンですからね・・・っていやいや。
ここホントに福島だよね?
あまりの普通さに、つい名物のしんごろうと納豆天ぷらを満喫してしまいました(笑)
しんごろう、きりたんぽに似てるんですね。。。
翌朝ホテルで札幌からの救援スタッフなんかにお会いし、やはり被災地なんだなぁと思いましたが。
元気な会津を見ることができてひとまず安心しました。
その後、東北道を北上する車から見たのは、屋根をブルーシートで覆った家々。
「救援ありがとうございます」や「がんばろう東北!」の横断幕。
関東ナンバーのパトカーや自衛隊、重機を運ぶトラック。
そして波打った道路でした。
若柳金成で降り、まずは陸前高田へ向かいました。
家族は奇跡的に全員無事で、今は高台にある親戚の家にお世話になっているのですが。
途中の矢作・竹駒からすでに瓦礫の山。
海から4~5kmはあるはずなのに。。。
テレビでは放送されない地域だけに、ショックが大きかったです。
よく利用させていただいたコンビニも今はこの通りです。
そして無事、家族と再会を果たすことができました。
地震のときの状況も本人たちの口から聞くことができました。
父は市役所にいて、一度建物から出て庁舎前の公園に避難したそうです。
その後、大津波警報が発令され、庁舎に戻ったのですが、そこから防波堤を易々と超える波を見たそうです。
あっと言う間に庁舎の3階まで水が押し寄せ、父たちは必死で屋上まで逃げましたが、
そこでも膝まで水につかったそうです。
庁舎に家々がぶつかる音を聞きながら、自宅を飲みこむ津波を見ていることしかできなかった父。
その晩は結局、雪の降る中庁舎の4階で明し、翌日歩いて給食センター(現在の仮庁舎)へ向かったとのことでした。
祖父、祖母、母は自宅にいて、地震直後は庭にいたそうです。
外出していた妹も帰宅しました。
大津波警報が出た後も、祖父と祖母はチリ地震津波の経験がありますので、
自宅まで津波が来るわけがない、避難しないと言ったそうです。
それを、母が無理やり裏手の山に連れていったとの話でした。
階段を登る途中、妹は壁のような波が目の前に迫って来るのを見たそうです。
同時に下から聞こえてくる叫び声。
濡れながら逃げてきた人に服を貸したり、火をおこすために薪を集めたりしているうちに
高田一中方向に抜けられることが分かり、無事避難できたとのことでした。
妹は言っていました。
今回の震災で気付いたのは、生きることと死ぬことは、本当に紙一重なのだと。
そうなんです。
もし父が庁舎ではなく市民会館に避難していたら?
もし祖父母がどうしても自宅に残ると言い張ったら?
もし妹がすぐに自宅に戻らなかったら?
もし自宅に物を取りに戻っていたら?
もし車で避難しようとしていたら?
おそらく、もう2度と家族全員揃うことは無かったでしょう。
全ては、一瞬の判断で決まったのです。
ご近所や友人を何人も無くしながら、それでも家族全員無事だったという事実は、
何か意味があるように思えてなりません。
被災地の方々は、日本中・世界中の皆さんに支えられ、想像以上に明るく生きています。
こちらが逆に元気をもらってしまいました。
大丈夫、絶対に復興します!だって皆こんなに強いんだもの!!
市街地の様子は、また次回ゆっくり書きたいと思います。
では、おやすみなさ~い。