「昭和を冷たく笑う人」達が

「日本の分断」を招く理由 

「共通の記憶」なき私たち

 未来は描けるのか?

 

 

連載第13回のテーマは「戦後を終わらせるために」です

 

財政社会学者の井手英策さんは、ラ・サール高校→東京大学→東大大学院→慶應義塾大学教授と、絵に描いたようなエリート街道を進んできました。が、その歩みは決して順風満帆だったわけではありません。 貧しい母子家庭に生まれ、母と叔母に育てられた井手さん。勉強机は母が経営するスナックのカウンターでした。井手さんを大学、大学院に行かせるために母と叔母は大きな借金を抱え、その返済をめぐって井手さんは反社会的勢力に連れ去られたこともあります。それらの経験が、井手さんが提唱し、政治の世界で話題になっている「ベーシックサービス」の原点となっています。

 

勤勉に働き、倹約、貯蓄を行うことで将来の不安に備えるという「自己責任」論がはびこる日本。ただ、「自己責任で生きていくための前提条件である経済成長、所得の増大が困難になり、自己責任の美徳が社会に深刻な分断を生み出し、生きづらい社会を生み出している」と井手さんは指摘します。 「引き裂かれた社会」を変えていくために大事な視点を、井手さんが日常での気づき、実体験をまじえながらつづる連載「Lens―何かにモヤモヤしている人たちへ―」(毎週日曜日配信)。第13回は「戦後を終わらせるために」です。

■昭和のヒットソングに溶け込む「寂しさと温もり」  

私はお酒を飲むのが好きだ。家族ともよく居酒屋にいくのだが、ここ数年、あちこちで、聞き覚えのある、なつかしい音楽を耳にするようになった。私たち団塊ジュニア世代は、人口が多く、年収もほぼピークだ。おそらく飲食店は、「上客」である私たちが喜ぶ「昭和のヒットソング」を戦略的に流しているのだろう。私にとって、昭和のヒットソングには、寂しさと温もりの両方が溶けこんでいる。だから、そんな音楽を聴きながら飲む酒は、特別な味がする。

 子どものころの私は、アレルギー持ちで、食べあわせが悪いとよくジンマシンが出ていた。小学生の途中から母がスナックの仕事をはじめたのだが、生活の変化になじめなかったからか、さらにひどい湿疹に苦しめられるようになった。直径20センチくらいのふくらみが全身のあちこちに広がる。裸になって背中を鏡に映す。見苦しさに鳥肌が立ち、ひとりぼっちが悲しくて、涙が止まらなくなる……。そんな孤独な夜に、気をまぎらわせようと聴いていたのが、テレビから流れる昭和のヒットソングだった。私にとって昭和の歌は、陽気だけど悲しみの調べであり、静かだけど唯一頼れる友の声だった。

私は母に心配をかけたくなくて、ジンマシンのことをいえずにいた。だが、ストレスから、段々、チック症状が出るようになった。とうとう耐えきれなくなり、泣きながら電話をしたのをきっかけに、母は私を店に連れていくようになった。  お客さんの多くは、歳のころ50から60の男性だった。店にいる小学生がおもしろかったのか、わざわざ1曲100円のお金をはらって、私に歌を聞かせてくれる人たちがいた。彼らは戦争を知る世代だった。戦前の曲や軍歌を聞かせてくれる人、占領期の流行曲を教えてくれた人もいた。みな酔っぱらって、ときに涙しながら、ときに誇らしげに、歌を、物語を、私に聞かせてくれた。私は彼らの古くさい歌が大好きで、いまでもたまに口ずさむ。

■傷痍軍人のひどい演奏に母と叔母が涙を浮かべたワケ  

もう1つ、忘れられない音楽の記憶がある。それは、駅の前、デパートの前で、戦争で大ケガをした「傷痍軍人」が演奏していたハーモニカとアコーディオンだ。真っ白な衣装を身にまとった、足や手のない演奏者のかたわらには、大きな鍋が置いてあった。行き交う人びとがそこにお金を落とす。私の母と叔母も、額こそ少なかったが、彼らを目にするたびに寄付をしていた。

 演奏技術はさまざまだった。あるとき、ハーモニカを口に当て、息を吸ったり吐いたりしながら、2つの音しかない「曲」を奏でる人がいた。子どもの耳で聞いてもわかる、ひどい演奏だった。ところが、母と叔母は目に涙を浮かべながら、一言、二言、何かを彼に伝えてお金を鍋に入れた。私は「下手やんね!」と不平を口にした。二人は、私を諭すようにいった。「あれがあの人のお仕事たい。体が不自由なとにね。立派な人やね」  

いずれも大切な私の記憶なのだが、ふと、私の脳裏を、ある言葉がかすめる。

 「昭和かよ!」そうなのだ。私の記憶は昭和らしさに満ちているのだ。思えば、ここ数年、昭和という言葉は、すっかり古くさいものの代名詞になった。若者だけではない。私たち世代のなかでも、否定的なニュアンスで昭和を用いる人が増えた。母は昭和1桁の生まれ。少年時代の境遇もあり、私は友人以上に「昭和らしさ」を身につけている。平成生まれの人たちにしてみれば、私の話など、親父の昔語りなのかもしれない。  とはいえ、私にとっての昭和は思い出の宝庫だ。古くさいから、と簡単に切り捨てるわけにもいかないから、「昭和かよ!」という表現を聞くと、なんとも複雑な気持ちになる。

■加速する世代間・世代内の分断  

現代人が昭和を語るとき、戦前をさすことはあまりない。しかも、当たり前だが、昭和は元号だから日本に固有の時期をさしている。おそらくは、奇跡的な復興を遂げたのち、悲しくも、長期にわたる停滞と没落の道をたどることになった戦後日本、失敗の象徴として、昭和は語られているのだろう。  戦後はいつ終わるのか。これは、繰り返し問われてきた問題だが、いよいよ私たちは、戦後の<切り離し>にかかっているのかもしれない。

 「昭和かよ!」のひと語は、戦後日本の歴史をあざやかに切断する。返す刀で、「ダメだった人たち」を「あちらがわ」に閉じこめ、自分たちを新しい価値観で生きる、未来志向の「こちらがわ」の人間として描くことを可能にする。一方には、世代間の意図的な断絶があり、他方には、レッテル貼りと近しい世代の否定、すなわち、他者の否定と自己の肯定がある。私に近い世代の人たちまでもが昭和を冷笑し、「こちらがわ」であることをほのめかす。こうして、世代間、世代内の分断が加速される。

 だが、そもそも、否定によって定まる<己>、否定すべき価値でしか定義されない<己>とは、いったい何なのであろうか。「こちらがわ」で生きている人たちに、私たちは何者かであるという、集団内で共有された価値はあるのだろうか。昭和は、よくも悪くも<共在感=共にあること>を実感できた時代だった。戦争に敗れた国民は、飢えに苦しみ、痛みを分かちあいながら生きてきた。貧しさは、世代をこえた、国民に「共通の困難」だった。だから、人びとは「傷痍軍人」に同情し、涙したし、戦後に遅れて生まれてきた私は、それを不思議な気持ちで見ていたのだった。

 戦後日本では、富裕層や大企業に重たい税が求められた。国税と地方税をあわせて、税率が9割に達する、そんな重税が富裕層に課されたし、法人税率も先進国で最高水準だった。戦争でもうけた人たちは、高い税をはらうべきだ、という「共通の価値」があったからだ。だが、「共通の記憶」は、ときの流れとともに薄れていった。日本だけではない。平等主義で知られた北欧諸国でさえ、経済格差が広がり、その他の先進国でも、富裕層や大企業への減税が繰り返されてきた。

戦争の記憶、戦後の苦闘を礼賛したいのではない。 貧しさ、悲しみ、不公平への怒りといった「共通の記憶」を持てない私たちは、この社会を共に生きる仲間たちへの優しさを失いつつある。まるで、戦争という悲劇が、無関心という悲劇に置き換えられるかのようだ。私たちは、この現実と、どう向きあえばよいのか(連載第4回『娘が流すSnow Manに私が「日本の未来」感じた訳』参照)。 

■人びとは無意識に線を引く  

昭和を生きた人たちは「共通の記憶」を持ち、成長と平等が両立する国を作ってきた。私にいろんな話を聞かせてくれたほろ酔いのお客さんは、心に傷を負いながらも、誇りと優しさにあふれた人たちだった。

 だが、結局、彼らが残したのは、停滞が続く経済であり、みなが生活防衛に追われるなかで、弱い立場に置かれた人たちを放置する「分断社会」だった。それが、「共通の困難」に立ち向かう意志、<共在感>をなくしてしまった日本社会の現在形である。  人はだれかと共にありたいと願う。問題なのは、どのように共にあるのか、だ。人びとは、無意識に線を引き、「あちらがわ」と「こちらがわ」を切りわける。「昭和かよ!」とにこやかに語る。だが、この一言で、<過去といま>が切断され、<他者と私たち>の裂け目が生まれる。そして、「こちらがわ」の人びとは、ささやかな一体感に酔いしれる。

 私は、第1次世界大戦の敗北の歴史を切り離し、アーリア人と非アーリア人とを区別しながら後者を断罪したドイツの過去を思いだす。かの時代の残酷さや暴力性はない。だが、私たちが直面しているのは、「いい人ぶったファシズム」なのではないか。 「昭和かよ!」の向こうにあるのは、新しい社会への意志ではない。自分自身の価値に基づいた定義でもない。古い時代を否定することで、衰退した今を見えなくする。それは<現状肯定>であると同時に、恵まれた地位にある上の世代への<静かな抵抗>である。

■昭和の何を継承し、何を変えていくのか  

共通の記憶をなくした私たちは、価値を共有し、未来を構想していけるのだろうか。  昭和を生きた世代は、この現状を、どのように引き取るのか。事態を傍観し、過去の栄光に酔いしれながら、こっそりとこの世を去っていくのか。令和を生きるこれからの世代は、この現状を、どのように引き取るのか。他者を断罪し、国民という名の一体感を生みだす手法は、民族主義や排外主義、伝統主義だけではない。

 「昭和かよ!」に感じる不快さを私は大事にしたい。そして、その言葉が人びとの心を捉える理由を考えること、昭和の何を継承し、何を変えていくのかを議論することにつなげていきたい。歴史に学ばず、過去を切り捨てる国民に未来はないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

工藤夕貴のお父ちゃんじゃぁ。いい歌やぁ。泣けるねぇ ... 。

 

 

昭和31年

年次経済報告

 

経済企画庁


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結語

 戦後日本経済の回復の速やかさには誠に万人の意表外にでるものがあった。それは日本国民の勤勉な努力によって培われ、世界情勢の好都合な発展によって育まれた。 しかし敗戦によって落ち込んだ谷が深かったという事実そのものが、その谷からはい上がるスピードを速やからしめたという事情も忘れることはできない。経済の浮揚力には事欠かなかった。経済政策としては、ただ浮き揚がる過程で国際収支の悪化やインフレの壁に突き当たるのを避けることに努めれば良かった。消費者は常にもっと多く物を買おうと心掛け、企業者は常にもっと多くを投資しようと待ち構えていた。いまや経済の回復による浮揚力はほぼ使い尽くされた。なるほど、貧乏な日本のこと故、世界の他の国々に比べれば、消費や投資の潜在需要はまだ高いかもしれないが、戦後の一時期に比べれば、その欲望の熾烈さは明らかに減少した。もはや「戦後」ではない。我々はいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。そして近代化の進歩も速やかにしてかつ安定的な経済の成長によって初めて可能となるのである。

 新しきものの摂取は常に抵抗を伴う。経済社会の遅れた部面は、一時的には近代化によってかえってその矛盾が激成されるごとくに感ずるかもしれない。しかし長期的には中小企業、労働、農業などの各部面が抱く諸矛盾は経済の発展によってのみ吸収される。近代化が国民経済の進むべき唯一の方向とするならば、その遂行に伴う負担は国民相互にその力に応じて分け合わねばならない。

 近代化--トランスフォーメーション--とは、自らを改造する過程である。その手術は苦痛なしにはすまされない。明治の初年我々の先人は、この手術を行って、遅れた農業日本をともかくアジアでは進んだ工業国に改造した。その後の日本経済はこれに匹敵するような大きな構造変革を経験しなかった。そして自らを改造する苦痛を避け、自らの条件に合わせて外界を改造(トランスフォーム)しようという試みは、結局軍事的膨張につながったのである。

 世界の二つの体制の間の対立も、原子兵器の競争から平和的競存に移った。平和的競存とは、経済成長率の闘いであり、生産性向上のせり合いである。戦後10年我々が主として生産量の回復に努めていた間に、先進国の復興の目標は生産性の向上にあった。フランスの復興計画は近代化のための計画と銘うっていた。

 我々は日々に進みゆく世界の技術とそれが変えてゆく世界の環境に一日も早く自らを適応せしめねばならない。もしそれを怠るならば、先進工業国との間に質的な技術水準においてますます大きな差がつけられるばかりではなく、長期計画によって自国の工業化を進展している後進国との間の工業生産の量的な開きも次第に狭められるであろう。

 このような世界の動向に照らしてみるならば、幸運のめぐり合わせによる数量景気の成果に酔うことなく、世界技術革新の波に乗って、日本の新しい国造りに出発することが当面喫緊の必要事ではないであろうか。

 

 

昭和30年度(1955年度)から昭和47年度(1972年度)あたりまでを高度成長期という。 その後、1970年代から1980年代にかけては4%台、1990年代以降は1%程度の成長率に低下している。

 

1958年生まれ~1970年小学校卒業

この間 我が家は働かないおやじ故家計はほぼ「安定して不安定」で、貧乏暮らしが続いていたが、国自体が豊かになっているという思いはなんとなくあったように思う。ってゆうか、未来=明るい、というお気楽な固定観念はあったのかもしれない。こういう思いは、昨今まで日本人全体を覆っている「雰囲気」だったような気もする。いわゆる平和ボケみたいなもんだろうか?まつりごとは「お上」に任せときゃぁいいや的なノー天気さがあった。時が経てば自ずとりっぱな?大人になれると思っていたし、大人の世界とはきちんとしているものだ、秩序だったものだと思い込んでた。

一方で、やけに驕り高ぶった「成り上がり」的な日本人が増えたのもいなめない。&白人の猿真似こいて、日本人としてのアイデンティティーを見失ってしまった輩もたくさんいたような気がする。偉そうに言うつもりはないけどね。