拷問係の男たちが

「長いこと手こずらせやがったな」

プロレタリア作家・小林多喜二が

築地警察署で虐殺されるまで

 

 

小林多喜二(1903年10月13日~1933年2月20日)

 

『蟹工船』などの挑発的な作品で知られる作家・小林多喜二。移住先の北海道で送った食うや食わずの子供時代は、後の彼に創作の道を歩ませた。共産党シンパのプロレタリア作家として注目を浴び、勤め先の銀行を解雇された翌年に上京。だがそれは逮捕と投獄の日々の始まりでもあった。「小林のやろう。もぐっていやがるくせに、あっちこっちの大雑誌に小説なんか書きやがって……」――凄惨な拷問で命を落とすまでの生涯をたどる。

 【写真】多喜二と同じ1903年生まれ 119歳で世界最高齢になった女性 

 

「新潮45」2006年2月号特集「明治・大正・昭和 文壇13の『怪』事件簿」掲載記事をもとに再構成しました。文中の年齢、年代表記は執筆当時のものです。

徹頭徹尾の反体制文学

「おい地獄さ行(え)ぐんだで!」  昭和4年に発表された、プロレタリア作家・小林多喜二の代表作「蟹工船」は、登場人物の漁夫が放つ、函館なまりの一声から始まる。 「地獄」とは、函館から出港する蟹工船が向かう、北太平洋でのカニ漁の現場。極寒のオホーツク海上で、鬼のような現場監督者に酷使される労働者たちの姿が、詳細に描き出されていく。  徹頭徹尾の反体制文学。労働者の目線から、資本家や国家の横暴を過激な筆鋒で告発するというのが、プロレタリア文学の真骨頂といえる。この小説でも、天皇家への献上品のカニ缶詰を作る場面で、作業員の一人が、 「石ころでも入れておけ! ――かもうもんか!」  とはき捨てるように叫ぶのだ。

北海道での苦しい生活

 多喜二は明治36年(1903年)、秋田県の農家の子として生まれた。小林家は旅館を営むようなかなりの富農だったが、事業に失敗して没落し、多喜二は父・末松、母・セキらとともに一家で北海道小樽市若竹町に移住。小林家は小さなパン屋を営んだものの、生活は楽にはならなかった。  後に多喜二はこう回想している。 「……ぼくが四歳の頃、食えなくなったぼく達の一家は北海道小樽に移住した。場末の町で駄菓子屋を始めた。爾来ぼくは其処に二十何年住んだわけである。だが、生活は依然として食うや食わずだった。ぼくは学校へ通う長い道を、鉱山を発見して、母を人力車へ乗せてやることばかりを考えていた」(昭和6年「年譜」)

 

社会矛盾に目覚め左傾化

 このころの小樽は、開拓が急ぎ足で進む北海道の「商都」として活気を帯びていた。多喜二が住み着いた若竹町付近では、北海道産石炭の積出港としての小樽港の築港工事が始まっていた。小林家の近くに工事現場があり、「タコ」と蔑称された土工たちが酷使される光景を間近に見ながら、多喜二は少年期を過ごす。実際、多喜二の作品には「タコ」の表現が頻繁に出てくる。 「北海道では、字義通り、どの鉄道の枕木もそれはそのまま一本一本労働者の青むくれた『死骸』だった。築港の埋め立てには、脚気の土工が生きたまま『人柱』のように埋められた。――北海道の、そういう労働者を『タコ(蛸)』と云っている。蛸は自分が生きて行くためには、自分の手足をも食ってしまう。これこそ、全くそっくりではないか!」(「蟹工船」)  貧困の現実と社会矛盾とを肌で感じながら、次第にマルクス主義への関心を強めた多喜二は、国内外の文献や小説を貪るように読み、文学の道を志すようになっていった。庁立小樽商業学校に入学後は、校友会雑誌の編集委員を務め、自ら多数の詩や短編作品を発表している。

志賀への強い憧れ

 大正10年(1921年)、多喜二は小樽高商(現小樽商科大学)に進学。民主的な文化が開花した「大正デモクラシー」の時代の花形だった有島武郎、志賀直哉ら白樺派の作家に引かれるようになった。とりわけ志賀への憧れは強く、何度も手紙を出し、志賀の作品の読後感想を綴ったり、同封した自作小説の感想を求めたりしている。  だが、多喜二は、自分とは年齢の点でも格の点でも大差がある志賀に敬意を表しながらも、芸術と実際の社会運動とを峻別し、社会変革を訴えることのない超然とした作風に物足りなさを感じていた。大正13年、高商卒業と同時に北海道拓殖銀行に就職した多喜二は、「革命思想」を帯びた作品づくりにまい進するようになっていく。  昭和2年(1927年)の多喜二の日記には、こう書かれている。 「志賀直哉の『山科の記憶』を全部読んでみたが、心をうたれるものがなかった。(略)志賀直哉の超社会性は、その文芸的基礎を乾す結果になることを意味し証明しているようだ」(浜林正夫著「小林多喜二とその時代」)

 

文学と革命の狭間で

 多喜二の拓銀入行直後から、世情は混迷の度を深めていた。大正14年には言論・思想の自由を縛る治安維持法が成立。一方、日本共産党が秘密裏に結成されるなど、無産政党も相次いで誕生した。  昭和3年、多喜二は、全日本無産者芸術連盟の機関紙「戦旗」に、労組や無産政党への弾圧事件を題材にした「一九二八年三月十五日」を発表し注目され、その後も「蟹工船」「不在地主」などの左翼的な作品を相次いで発表、共産党シンパのプロレタリア作家としての地歩を固めた。  同時に、挑発的な小説を世に送り出し続ける多喜二に反感を抱く官憲との対決姿勢も、鮮明になっていった。昭和4年、多喜二は拓銀から解雇され、翌5年に上京して活動を本格化させる。

覚悟をしていろと伝えておいてくれ

 上京後、多喜二は新聞や雑誌で小説や評論を発表する傍ら、誕生間もない日本プロレタリア作家同盟の中央委員となり、各種講演活動にも没頭。官憲に徹底的にマークされ、逮捕、投獄の日々を送るようになった。昭和6年には共産党に入党し、地下活動に入る。  このころ共産党は、天皇制打倒を明確に打ち出すようになっていた。多喜二の同志だった作家・江口渙は、特高警察幹部から当時、次のような言葉を聞かされたと、後に書き残している。 「小林多喜二のやろう。もぐっていやがるくせに、あっちこっちの大雑誌に小説なんか書きやがって、いかにも警視庁をなめてるじゃないか。こんど連絡があったら、このことだけははっきり小林に伝えておいてくれ。――いいか。われわれは天皇陛下の警察官だ。共産党は天皇制を否定する。(略)そんな逆賊はつかまえしだいぶち殺してもかまわないことになっているんだ。小林多喜二もつかまったが最後いのちはないものと覚悟をしていろと、きみから伝えておいてくれ」(昭和47年8月10日号「別冊新評」)

逮捕、そして酸鼻を極める拷問

 そして昭和8年2月20日、運命のときを迎える。共産党に潜入していた警察のスパイの手引きによって、多喜二は赤坂の路上で逮捕。留置先の築地警察署では、酸鼻を極める拷問を受けた。  拷問係の屈強な男たちが「長いこと手こずらせやがったな。今日は思いきってやってやるぞ!」と言い放ち、多喜二の服を脱がし後ろ手に縛り上げ、天井から吊るし、ステッキや木刀で体中をぶちのめした。3時間余りの残虐な暴力の果て、ついに絶命したのである。  遺体は、母・セキらがいる東京都内の家に運ばれた。死因は心臓麻痺と発表されたが、体中がどす黒いあざだらけで、首には細引きで巻かれ、締め上げられた痕がくっきり残っている。太ももには釘かきりで刺された痕が無数にあった。権力による「虐殺」であることは、誰の目にも明らかだった。

 

地下情報の入手も目当てだったのか

 小説「太陽のない街」で知られる同時代のプロレタリア作家・徳永直は「『同盟の旗が折れた』――あらしの中にハタめいてゐた旗が、音をたてて折れたやうな――」(昭和8年2月23日付東京朝日新聞)と書き、無念さをぶつけた。  白樺文学館多喜二ライブラリーの佐藤三郎学芸員は解説する。 「人気作家だった多喜二のもとには、共産党や労組活動に関するおびただしい情報が寄せられていた。多喜二自身、事実に基づいて原稿を書く時事的な作家だったため、取材メモなどを多数、所有していたとみられる。特高は、多喜二への憎悪を募らせていただけではなく、そんな地下情報も入手したかったのだと思う」

「アンタンたる気持になる」と書いた志賀

 多喜二は、死の2年前、尊敬してやまなかった志賀直哉の奈良県の自宅を一度だけ訪れている。志賀は訃報に接し、こんな言葉を日記に残した。 「小林多喜二、2月20日(余の誕生日)に捕へられ死す、警官に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり会はぬが自分は小林よりよき印象をうけ好きなり、アンタンたる気持になる、不図彼等の意図ものになるべしといふ気する」  多喜二が虐殺の直前に書き上げ、没後に出版された自伝的小説「党生活者」では、こんなくだりがある。 「――個人的生活が同時に階級的生活であるような生活。私はそれに少しでも近附けたら本望である」  人気作家で目立つ存在だった上に、「知り過ぎた男」でもあった多喜二。自由にものが言えない時代に、文学と革命の狭間を生きた1人の「社会派作家」の命が散ったのだった。 

 

 

 

菊地正憲(きくちまさのり) ジャーナリスト。1965年北海道生まれ。國學院大學文学部卒業。北海道新聞記者を経て、2003年にフリージャーナリストに。徹底した現場取材力で政治・経済から歴史、社会現象まで幅広いジャンルの記事を手がける。著書に『速記者たちの国会秘録』など。 デイリー新潮編集部

 

 

 

 

 

 

 

 

 

発売日:2018年7月3日(火)/税抜¥4,800 ※オリジナルネガからテレシネしたニューマスターを使用。 ※セル盤のみの封入特典:公開時パンフレット縮尺再編集版/町山智浩(映画評論家)による解説文 奇跡の初パッケージソフト(DVD)化! 

闇があるから光がある--来るべき明日を予見しつつ 愛しつづけて 信じつづけて 激しく時代を行きぬいた青年多喜二--その愛と死のモニュメント! 「蟹工船」、1929年に発表されたにも関わらず現在のどん詰まりな労働環境をえぐるかの内容で今もなお多くの若者の心を激しく揺さぶるプロレタリア文学の金字塔である。その作者、小林多喜二は国家による殺人によってその生涯を終わらされた・・・・

 ◎本映画は、日本軍国主義の荒れ狂う昭和初期、その嵐に抗し、プロレタリア文学運動に献身し、想像を絶する厳しい弾圧の中でも、友を信じ、来たるべき時代を信じ、死の瞬間までも希望に燃え生き抜いた彼の青春像を-その愛と死-を描いた“フィルムによるモニュメント”である。 ◎監督は社会派映画の巨匠の今井正(『青い山脈』、『真昼の暗黒』、『武士道残酷物語』)、低予算を逆手に取った“見せて魅せる”演出はさすがの一言。全国の有志が一体となって製作から上映運動に至るまで力を合わせて生み出した情熱的傑作。これまでビデオ化もされなかったため見る機会がなかなかなく、稀に行われる上映会で見られるフィルムもかなり劣化していたため、オリジナルネガからのDVD化は多くのファンに待ち望まれていた。 ◎小林多喜二を演じるのは、社会派映画では絶対絶対必要な名優 山本圭。その他、中野良子、北林谷栄、富士真奈美、長山藍子、鈴木瑞穂、地井武男、悠木千帆(樹木希林) ら、実力も人気も兼ね備えた豪華なメンバーが本作をさらに輝かせている。 

監督:今井正/脚本:勝山俊介(小林英孝著「小林多喜二」より)/製作:伊藤武郎、内山義重/撮影:中尾駿一郎/美術:平川透徹/音楽:いずみたく/録音:安恵重遠/照明:平田光治/編集:渡辺士郎/助監督:臼井高瀬 主演:山本圭、中野良子、森幹太、北林谷栄、佐藤オリエ、富士真奈美、杉山とく子、寺田誠、滝田裕介、長山藍子、鈴木瑞穂、下絛正巳、地井武男、悠木千帆(樹木希林) 、横内正(語り)他、あとおそらく大地康雄らしき方も! 「小林多喜二の生涯を描くのに今井正監督以上の人はなく、小林多喜二役は山本圭以外には考えられない最高のキャスティングだ。 革命家はいつも歴史の敗者であり、日本映画は敗者にスポットライトを当てなかった。唯一、『小林多喜二』を除いては。」(町山智浩)

 

高校のとき、担任の社会科教師、猪股先生に推奨されて、この映画を見に行った。1974年2月20日、初公開とある。高校1年の時のようだ。猪股先生は、その風貌から、「とん平」とあだ名されていたがータレントの左とん平氏に由来ーが、大学で学生運動に身を投じ、授業もなかなか熱かった。そうか、山本圭が多喜二を演じたのか ... 。なにもかも忘れている。蟹工船、党生活者 ... 。迫害に屈せず、主張を曲げなかった人たち。どうすれば、そんなに強くなれるんだろうか?

DVD、買うだろうなぁ ... 。