77歳で入居し2年で退去

 入居金6000万円の超高級老人ホーム

 80歳 新宿に戻って

「桐島聡の映画」に出資する楽しさ

 

1976年の新宿ロフト#2

新宿ロフト創設者の平野悠氏/集英社オンライン

 

1976年以降、ニューミュージックが流行りだし、新宿ロフトの現場ではロックより過激で反体制的なノイズやハードコア系のバンドが出演するようになる。そうした時代の変遷のなかで、新宿ロフト創設者の平野悠氏が見たものとは。大バズした千葉県鴨川市の「超高級老人ホーム」入居から退去、新宿に戻った近況についても話を聞いた。

 

  【画像】77歳で入居した「6000万円の高級老人ホーム」をわずか2年で退去

 

“人が死ぬかもしれない不安”が過った

 ノイズ、ハードコア系の現場

――ライブハウスを取り巻く音楽シーンの空気が徐々に変わってきているなと感じたのは、いつ頃のことでしょうか? 

 

平野悠 それはやっぱり、新宿ロフトを開店してしばらく経った70年代の後半からですよ。キャパの限られているライブハウスの宿命なんだけど、みんな売れだしたら出てくれなくなっちゃうでしょ(笑)。 ニューミュージック系のミュージシャンたちもそのうち大きなホールでやるようになってね。レコード会社の連中も売れるのがわかってきているから、ライブを、レコードを売るための宣伝として考えるようになるんですよ。連中から「ライブの出音をレコードと同じ音にしてほしい」とか言われるようになってね。こっちからすれば、何を言ってやがるんだバカヤロー!って話ですよ(笑)。 ――(笑)。一方で、そのあたりの時期から新宿ロフトは、東京ロッカーズなどのパンク系やニューウェーブ系のバンドに門戸を開いていくようになるんですよね。 そうです。1980年前後からガラッとブッキングの傾向が変わっていきました。ニューミュージックの時代はミュージシャンもお客も大人しいもんだったけど、パンクは何が起こるかわからない緊張感がありました。客とバンドで喧嘩はするわ、ビール瓶が投げ込まれるわ、機材は壊すわで……。最初は抵抗感がありましたけど、僕としてはやっぱりそっちのほうがおもしろいと思っちゃうんですよ(笑)。 東京ロッカーズの連中はそれほどまでじゃなかったけど、ハードコアとノイズ系のライブなんて本当にひどかった(笑)。シンバルや傘が水平に飛んできますから。警察と消防もしょっちゅう来るしね。 非常階段のライブの翌日には、スタッフ全員から呼び出されました。汚物やら腐った納豆やらミミズが撒き散らされていて、「昨日のようなライブをするバンドを出し続けるなら、全員やめさせてもらいます!」って怒られちゃって……。 ――壮絶ですね……。 ホントにこのままなら誰か死んじゃうんじゃないかって状態まで行ってしまって、最終的に安全や衛生を優先してロフトは、ノイズやハードコア系のライブからは撤退しちゃうんですけど、すごく気が重い決断でした。なにせ、自分としてはそういう先が全く読めないような混乱状態が大好きだったしね。それは今も変わりません。 あとは、そういうめちゃくちゃな状況がおもしろかったっていうのもあるけど、単純に若い連中の新しい波に可能性を感じていたっていうのも大きかったですね。ハードコア系とは別に、ARBやルースターズ、アナーキーだったり、ちょうど新宿ロフトのキャパに合致した人気バンドもいて、その時代の御三家的な存在になっていきました。

 

 

 

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帰国後に啞然  ロックの終着点

――お話をうかがっていると、平野さんとロフトという場所の器の大きさに感じ入ってしまいます。ニューミュージックのミュージシャンと交流を持ちながらもパンク系にも深く関わっていたというのは、なかなかすごい振れ幅ですよね。 

 

僕はやっぱり、反権力とか反逆とか、そういう精神がライブに現れているものをおもしろいと思ってしまうんですよ。60年代のローリング・ストーンズに感じていた反骨精神が、ニューミュージックがだんだん大きくなっていくにつれて薄れていったと思っていたら、今度はパンクが出てきて復活した。 同じ時代には、デザイナーとかスタイリストみたいな非ミュージシャンの人たちが楽器を持ってテクノをやりだしたり、かたやヘヴィメタルが盛り上がってきたり、百花繚乱になっていくんですよね。 70年代から80年代にかけて、本当に目まぐるしく動いていったわけだけど、「こんなおもしろい時代はない!」と思っていましたね。仮に客が5人だろうが6人だろうが、その渦中にいていろんなライブを見られるっていうだけで大満足でしたから。

 

 

 

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 ――そういう時代を経て、1984年に突然ロフトを他のスタッフたちに託して世界周遊の旅に出てしまうわけですよね。 

 

そうなんです。新宿ロフトの開店のときに背負った膨大な借金も返し終わって、日々の仕事も味気ない繰り返しになっていたし、だんだん疲弊していってロックへの情熱が薄れてしまったんですよ。 紆余曲折を経てドミニカ共和国でレストランを開くことになるんですけど、そのときはロフトをある程度成功させていた自負もあって、「俺がやる気になればどこでも通用するんだ」という意識がありましたね。

 

 ――奇しくも、同じ頃に日本国内ではいわゆる「バンドブーム」が起きて、いよいよたくさんのロックバンドが国民的な人気を得ることになるわけですが……。 

 

海外にいるときにはほとんど情報が入ってこなかったんですけど、1992年に帰国して、「これのどこがロックなんだ?」っていうバンドが人気を得ていて驚いた記憶があります。 世の中に反抗するどころか、「僕は君の気持ちがわかるよ」みたいな歌詞でね。何を歌っているんだ、この馬鹿野郎は!と。学生運動の時代からだんだん虚無的な時代に移り変わっていく、そういう時代的な流れの終着点って感じがしましたよ。

 

 

 

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高級老人ホームに入居した話が大バズ

――現在の平野さんの話もうかがわせてください。超高級老人ホームに入居したはいいけれど、二年経たずにやっぱり東京に戻ってきたという話を「文春オンライン」で書かれてましたね。 

 

そう。頼まれたから書いたんだけど、やけにみんなに話題にしてもらっちゃってね(笑)。 そのホームは結構いいところだったんだけど、あのまま無為な時間の流れの中で老いて死んでいくっていうのが耐えられなくなっちゃったんです。地元(千葉県鴨川)の人たちと一緒になって老人が集えるロック喫茶を開店する話もあったんだけど、僕の左翼時代の逮捕歴を知った役所の人間に逃げられちゃってね(笑)。 そんなこんなで、地元のコミュニティにもどうも馴染めなかったんです。彼らからしたら、外から来て高級老人ホームに入居している連中なんて鼻持ちならない金持ちなわけでしょ。実際にそうやって揶揄されたこともあったし。 まあ、なんにせよ、こんな元気が有り余っている80歳に、至れり尽くせりの老人ホームは早すぎたんでしょうね(笑)。 

 

――再び新宿に戻ってきた途端、革命運動家としても知られる映画監督の足立正生さんとお酒を飲まれている姿がFacebookに上がっていて、「この人はまだまだ世の中をかき回す気満々だな……」と思いました。 

 

わははは。足立さんの『REVOLUTION+1』っていう映画、あれ、凄かったでしょう。いったいどこの映画館が上映してくれるんだよっていう過激なテーマじゃないですか。そしたら、今度はなんと元指名手配犯の桐島聡をテーマにした映画を作るっていうでしょ。そんなの絶対おもしろいだろうし、出資したくなっちゃうじゃないですか。 やっぱり僕はそういうのをおもしろがっちゃうんですよ。音楽でも映画でも、破壊を尽くした上で生まれてくるような新しいものに興味があるんです。 ――ロフトの開店をはじめ、ドミニカでのレストランの開業、後のトークライブハウスの展開や老人ホームをいきなり飛び出してしまった話を含めて、平野さんの中で、「これ」となったらすぐ実行に移さずにはいられない情熱がずっと変わらずにたぎり続けているんだと感じました。 若い頃にマルクス主義に決定的な洗礼を浴びて運動をやった経験があるので、青春の蹉跌というか、どうしても先に身体が動いちゃうようなところがあるんでしょうね。 アメリカではブラックパンサー党がいて、パリでは5月革命が起こっているっていう時代の空気にもろに触発されてきましたから。その後いろいろなことがあったにせよ、自分の中でそういう気持ちは未だに生き続けている気がします。 

 

取材・文/柴崎祐二 撮影/杉山慶伍